SRI SATHYA SAI RAM NEWS
サイの御教え
SRI SATHYA SAI RAM NEWS
内なる三位一体
2000年夏期講習のババの御講話
邪悪な思考は人を下劣にする
善良な思考は人を高貴にする
けれども、もし思考が完全に終息したら
そのとき、その人は平安を確保することができる
これはサイの言葉
愛の化身たち、少年少女たちよ!
人間は、この広大な創造世界の最も貴重な宝石です。生きとし生けるものの中で、人間は最も高貴な、最も高位の存在です。人間として生まれるのは、あらゆる生の中で最も偉大なことです。ですから、人生を正しく生きることは必須です。
人間の生は、どこからその神聖さを得るのでしょうか? どこからその価値を得るのでしょうか? 人間の生に価値を与えるのは、体すなわち人間の姿形でしょうか? いいえ! 体は五元素(腐敗しやすいもの)で出来ています。この観点から、体は肉と骨で出来ていて、まだ排泄されていない汚い糞尿がその中に詰まっているものである、と見なすことができます。その一方で、体はアートマの住まいでもあり、そのことが体をたいそう価値の高いものにしています。
三位一体によって象徴される三つの原理
愛の化身たちよ! ディーパク・アーナンド(先にスピーチをした学生)はこう質問しました。「ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラの両親は誰でしょう?」 この質問の答えを知っている人は誰もいません。ウパニシャッドも他のさまざまな聖典も、このテーマに光を投げかけてはいません。ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラには肉体がありません。しかし、彼らはグナスワルーパ、つまり、特定の性質や属性を象徴しています。彼らが体内に存在していることによって、人間に潜在しているグナや固有の傾向と共に、感情、思考、言動のすべてが動機づけられるのです。現代人は、人間という存在の正しい意味さえ理解していません。それでどうして自分が神であることを理解することができるでしょうか? あなた方の最初の課題は、ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラは自分の内にいるということを理解することであるべきです。
イーシャー ヴァースヤミダム ジャガト
〔すなわち、〕神は全宇宙に満ちており万物に宿っている、のです。神はあなたの中に住んでいる存在です。神はアートマです。シュルティすなわち聖典〔ヴェーダ〕には、すべての人の中に存在しているこのアートマの特別な呼び名が述べられています。それは「フリダヤ」です。フリダヤとは、(霊的な)ハートのことです。アートマすなわちフリダヤは、イーシュワラとも呼ばれています。マインドド(心)はアートマから生じたものであり、ヴィシュヌの具現です。ヴェーダにはこうあります。
ヴィシュワム ヴィシュヌマヤム ジャガト
〔すなわち、〕ヴィシュヌは全宇宙に満ちている、のです。マインドも同様です。マインドも全宇宙に満ちているので、ヴィシュヌと同一視されます。したがって、イーシュワラとヴィシュヌはすべての人の中にいるのです。
イーシュヴァラサルヴァブーターナーム
〔すなわち、〕イーシュワラは万物に宿っている、のです。ヴィシュヌの原理はイーシュワラの原理から生じます。
次に、ブラフマーです。伝統的に、ブラフマーはヴィシュヌのへそから生じた蓮に座っている者として描かれています。個人においては、ブラフマーは話す言葉と結び付いています。ブラフマーはヴァークスワルーパ、つまり、話す言葉として顕現します。これは、言葉の出所はマインドであるためです。
聖典は、神を次のように表現しています。
シャブダブランマーマイー、
チャラーチャラマイー、
ジョーティルマイー、
ヴァーングマイー、
ニッティヤーナンダマイー、
パラートパラマイー、マーヤーマイー、
シュリマイー
〔すなわち、〕全能の神は、原初の音であり、不動であると同時に可動であり、神の光であり、言葉であり、永遠の至福であり、至高の存在であり、幻影であり、究極の富である、のです。これは、神を包括的に叙述したものです。こうした神性は、三つの原理として個人の中に現れます。それは、アートマの原理、マインドの原理、そして、言葉の原理です。マヘーシュワラ〔イーシュワラ〕、ヴィシュヌ、ブラフマーは、相互に関連するこれらの三つの原理と結び付いています。ブラフマー、ヴィシュヌ、イーシュワラは、特定の姿形を持ちませんが、今言及した三つの原理として個人の内に現れるのです。
清らかな感情と思考と言葉によって神の原理を表現しなさい
アートマはどんな姿形をしているのでしょう? イーシュワラはどんな姿形をしているのでしょう? アートマは純粋意識、すなわち絶対意識であり、意識にはどんな姿形もありません。個人において、絶対意識は良心として機能し、その住まいはハートです。認識力を有するマインドはアートマから生じます。外界と内界の両方を認識することができるのがマインドです。さらに、マインドは言葉や発言の源でもあります。折に触れてスワミは、あなたは一人ではなく三人であるということを思い出させています。
あなたが自分だと思っているあなたは、
あなたではありません
他の人があなただと思っているあなたは、
あなたではありません
本当の自分が、あなたです!
これは、あなたは根本的に、三つの原理が一つになったものである、ということを意味しています。あなたは、ハート〔フリダヤ〕とマインド〔マナス、心〕と体の複合体です。そして、イーシュワラ、ヴィシュヌ、ブラフマーが、あなた自身のこの三つの側面の霊妙な基盤をもたらしているのです。
スワミは先ほど、ヴィシュヌは万物に満ちている存在であると言いました。つまり、ある意味で、ヴィシュヌは広大さを象徴しています。マインドも広大で、万物に満ちているものであり、全世界に満ちています。
マノームーラム イダム ジャガト
〔全宇宙はマインド(マナス、心)
を基盤としている〕
マインドは空間にも時間にも縛られず、いつでもどこへでも行くことができます。宇宙レベルでは、イーシュワラ、ヴィシュヌ、ブラフマーは全能であるだけでなく、時間と空間をも超越しています。そして、それぞれが、純粋意識として、普遍的な心として、原初の音として、どこにでも存在しているのです。この三位一体の宇宙それ自体が、個人にも内在しています。
アノーラーニャーン マハトーマヒーヤーン
〔(神は)最小のものより小さく、最大のものより大きい〕
宇宙に満ちている神は、小さな原子の中にも存在しています。宇宙を動かしている神の力は、原子も支配しています。宇宙に内在する三位一体を直接見ることはできません。しかし、もし自分に内在している三位一体の原理を理解することができれば、宇宙に内在している三位一体を理解することは容易になります。
(霊的な)ハートはイーシュワラを象徴しています。ハートをイーシュワラと見なす人は、決して悪い感情を抱くことがないでしょう。神は次のように描写されています。
ニルグナム、ニランジャナム、サナータナム、
ニケータナム、ニッティヤ、
シュッダ、ブッダ、ムクタ、
ニルマラスヴァルーピナム
これは、神はあらゆる姿形を超越しており、あらゆる属性を持たず、永遠であり、神髄そのものであり、原初の知性であり、清らかで、汚れ(けがれ)なき存在である〔等々〕という意味です。人間は、自分の中に潜んでいる神聖な力をどれだけ誤用していることでしょう! 人間は、無垢(むく)なハートを持っていながら、ハートを持っていない愚か者のように振る舞っています。ハートは神の座であるということを心に留め、いつでも神への思いに浸りながら生活しなければいけません。
神は、思考を超越した存在であるのは間違いのないことですが、人間においては思考や言葉となって現れます。それはどのような類いの言葉でしょうか? 神聖で、縁起がよく、甘美で、優しい言葉です。もし私たちの言葉がこのような性質のものであれば、私たちの発言や会話はどれほど甘美なものになることでしょう!
愛の化身たちよ! 神が世界を静かに支配しているように、私たちも思考と言葉と行動を完全に支配しなければなりません。甘美な言葉、すなわちブラフマヴァーク〔神の言葉〕が、私たちの中から出てこなければいけません。もし私たちがハートに内在するイーシュワラを体験すれば、そうした言葉が自動的に出てくるはずです。
ヴィシュヌについてはどうでしょうか? どのような姿形で存在しているのでしょうか?スワミはすでに、ヴィシュヌはマインドとなって具現化しているということを述べました。マインドはきわめて強力であり、人間にとって最も重要な道具です。ですから、マインドは本来、汚れのない、甘露のようなものであるはずです。ヴィシュヌは常に穏やかで、微笑んでいます。これらの側面を反映して、マインドは常に穏やかで、落ち着いていて、喜びを放つものでなければなりません。
神はあなたが神を思うことだけを望んでいる
ある時、リシたち(サナカ仙やサナトクマーラ仙など)が、主ヴィシュヌのダルシャン〔拝謁〕に行きました。一般的には、このような機会には、きちんとした正装で行くものだと思われています。しかし、その聖賢たちは、生まれたばかりの赤ん坊の姿、つまり裸で行きました。その理由は、赤ん坊は清らかであり、肉体意識を持っていないからです。聖賢たちのこの行いの深い意味は何だったのでしょう?それは、清らかなマインドを体験するためには肉体意識の一切を捨てなければならないということです。ヴィシュヌは清らかなマインドの象徴であり、だからこそ、聖賢たちはそのような行動をとったのです。
ここにボランティアの人たちがいるように、ヴィシュヌの門前にはジャヤとヴィジャヤという二人の門番がいました。聖賢たちが服を着ていないのを見て、二人は強く抗議して入場を禁じました。二人は「そのままでは神に会いに行くことはできない!」と言いました。聖者たちはこう返答しました。
「神は清らかで、汚れなく、原初のものであり、あらゆる属性を超えた存在です。そのような主のダルシャンには、原初の姿で行かなければなりません。それこそが、私たちが行っていることなのです」
門番たちはその言い分を受け入れず、口論は激しくなりました。すると聖賢たちは、ジャヤとヴィジャヤが地上にラークシャサ(羅刹、悪魔)として生まれてくるよう呪いました。
〔ジャヤとヴィジャヤはヴィシュヌ神に訴えました。〕
「おお主よ! 私たちにはあなたを見ることによって至福を得ること以外に望みはありません。あなたのダルシャンは私たちの喜びであり、あなたのスパ ルシャン〔触れること〕は私たちの食事であり、あなたのサムバーシャン〔会話をすること〕は私たちの呼吸そのものです。私たちは常にあなたのダルシャン、スパルシャン、サムバーシャンを切望しています。私たちの運命はこれからどうなるのでしょうか?」
ヴィシュヌは答えました。
「そなたらが呪いから逃れることはできず、悪魔となって生まれるしかない。そなたらは九回生まれ変わらねばならない。しかし、そのすべての生において、そなたらは私に対して善良で、献身的であるだろう。それにより、私の恩寵を得ることができ、やがて二人とも私のもとに戻ってくるであろう」
すると、門番たちは叫びました。
「おお、聖賢たちの心を動かす主よ、けれども、それでは、私たちはたいそう長い間あなたから離れていることになります!」
主は答えました。
「なら、私はそなたらにこういう選択肢を与えることもできる。九回ではなく、三回生まれ変わるだけでよいが、その三回の生では、私を憎み、常に私を罵倒し、私の敵となる! その覚悟はあるか? 選択はそなたら次第だ」
すると、ジャヤとヴィジャヤは言いました。
「私たちは、あなたを褒めなければならなくても、罵倒しなければならなくても、気にはしません。私たちの望みは、ただ一刻も早くここに戻ることです」
サルヴァダー サルヴァカレーシュ
サルヴァットラ ハリ ドゥーシャナム
〔すなわち、〕いつでも、どこでも、どんな場合でも、神は罵倒されるものである、ということです! これがジャヤとヴィジャヤのしたことであり、二人が躊躇(ちゅうちょ)なく罵倒の道を行ったのは、そのほうが早く主のもとに戻れるチャンスが与えられるからでした。
もし誰かがクリシュナを泥棒と呼んだら、帰依者たちは即座に異議を唱え、そう呼んだ人に襲いかかるでしょう。しかし、愛と信愛を込めて、
チッタ チョーラ ヤショーダー ケー バール
ナバニータ チョーラ ゴーパール
〔心泥棒、ヤショーダーの子、
バター泥棒、牛の守護者〕
と歌えば、皆が歌に加わり、手拍子をします。この歌はクリシュナを泥棒と呼んでいるのではありませんか? しかし、信愛の音楽は歌に甘さを添え、罵倒は消えてしまいます。
心を制し、口数を少なくしなさい
ヴィシュヌはマナスワルーパ、つまりマインド〔マナス〕となって顕現する者です。ヴィシュヌは、よく想像されているような、シャンカ(法螺貝)やチャクラ(円盤)やガダ(棍棒)を持っている者ではありません。そうした一般的な肖像は、有名なラヴィ・ヴァルマを中心とした画家たちによって作り出されたものです。ヴィシュヌは清らかなマインドの中に現れます。だからこそ、スワミはダイヤモンドの指輪を与えるとき、しばしば、「ダイヤモンドはDIE MIND(マインドの死滅)を意味します!」と言うのです。これは、世俗的な思考を消滅させなければならないという意味です。どのようにして? 気まぐれで、常に揺れ動いている人間のマインドを、清らかで、常に安定していて、愛に満ちた神のマインドと置き換えることによってです。
人のマインドがヴィシュヌの具現であるように、言葉すなわち発言はブラフマーの具現です。ですから、不適切な話に陥らないよう、細心の注意を払わなければなりません。注意深くなるための最良の方法は、モーナムすなわち沈黙を、実践することです。これはまさに、古代のリシたちが行っていたことです。話をすると、さらに話をすることになり、最終的には嘘を話すことになる危険性があります。話しすぎることが好ましくない行動を引き起こす場合もあります。そのため、リシたちは、ほとんどの時間、沈黙していることを好んだのです。沈黙とは、単に話をしない、会話をしないということではありません。聖賢たちにとって、沈黙とは思考プロセスを止めることも意味します。思考はマインドの波紋です。一連の思考は波となり、たくさんの波が嵐となります。ですから、思考を排した、静寂の段階にいるのが一番です。これが古代の感覚でした。現代では、過剰な思考がマインドの特徴になっています。
(スワミは聴衆にハンカチをお見せになる)これは何でしょう? 皆さんは、一枚の布だと言うでしょう。これは、実際は糸の束です。糸をすべて抜いてしまえば、布は残りません。それと同じように、発言をコントロールし、思考を取り除くことが、マインドを制する助けになります。ヴィシュヌを体験できるようになるためには、口数を少なくしなければなりません。
皆さんは、話すこと、考えること、感じることができます。言葉はブラフマーの象徴であり、マインドはヴィシュヌ、ハートはイーシュワラの象徴です。このように、あなた自身が三位一体の神の象徴なのです!
トリダラム、トリグナーカーラム、
トリネートラム チャ トリヤーユダム
トリジャンマ パーパ サムハーラム
エーカ ビルヴァム シヴァールパナム
(三つの武器を持ち、
三度の生で犯した罪を一掃する力を持つ、
三つの目のお方シヴァ神に、
三つ葉の葉ビルヴァを捧げなさい)
過去は忘れ、現在に生き、良い未来を確実にしなさい
イーシュワラには目が三つあると言われています。人々は、「そんなことがあり得るのか?」と言います。ここで言う目とは、肉眼のことではなく、さまざまな時を知覚する能力のことです。第一の目は過去、第二の目は現在、第三の目は未来を意味します。現在と過去も誰もが知っています。ですから、人間には目が二つあることには同意できます。未来を知っている人は誰もいませんが、神は未来を知っています。ですから、目を三つ持っているのは神だけであるのに対して、人間は二つの目しかないと言われているのです。しかし、もしあなたが過去において完全に自分を制していて、現在も制しているならば、あなたの未来は完全にあなたの手の中にあるということになります。
現代人はいつも、過去のことを考え、未来のことを心配しています。いつもです。過去、未来、過去、未来、過去、未来、と。過去のことをくよくよと考え、未来について心配していると、現在を見失ってしまいます。現在は過去の産物であり、未来の種でもあるということを忘れてはなりません。過去と未来は現在の中に組み込まれています。人は、この基本的な真理を理解していないように見えます。もしあなたが、良い明るい未来を望むのであれば、現在を正しく活用することです。現在は、過去という種から生えた木です。この木は未来のための種も有しています。つまり、未来はすでにここにあるのです!
現在を大切にする最善の方法は、あなたの話すことがいつも神聖であるようにすることです。言葉はどこから生じるのでしょう? マインドからです。ですから、話すことが善良であるということは、その人のマインドも善良であるということを意味します。マインドはヴィシュヌの姿なのですから、もしあなたがヴィシュヌの恩寵を享受すれば、あなたの言葉は自動的に清らかで甘美なものになります。
神の意志は常に勝つ
愛の化身たちよ! 皆さんはまさしく、三位一体の神、すなわち、三つの属性、三つの目、三つの時(過去・現在・未来)の化身なのです。いつも神と調和し、常に細心の注意を払いつつ神の命令に従わなければなりません。決してそれに反してはなりません。何があろうとも神の意志は必ず勝つ、ということを例示している小話があります。
ある時、パールヴァティー女神がシヴァ神に言いました。
「あなたはいつも世界を動き回っていますが、私はずっとここにいます。私には滞在する場所がありません。私たちには自分たちの家と呼べるような場所がありません。雨が降ったときに避難できる小屋さえもありません。その上、あなたのダルシャンを求めて多くの聖賢たちがやって来ます。私たちには、彼らを迎え入れ、泊まらせる場所がありません。だから、家を建てましょう。そうすれば、いろいろな用途に使えるでしょう」
これはつまり、主婦が家を求めているのであり、このような願望はすべての女性にとって当然のことです! シヴァは答えました。
「パールヴァティーよ、家を建てることは、すべての問題の始まりを意味する。まず、ネズミの仲間ができる。ネズミを駆除するためには、猫を飼わなければならない。猫に餌をやるためには、牛を飼わなければならない。そして、牛の世話をするためには、使用人を雇わなければならない。こうして次々に事が増えていく! そうして問題が山積みになる、ということがわからないか? 家は必要ないと私は思う」
議論は続き、パールヴァティーは断固として要求し、シヴァは同じように断固として拒否しました。これはどの家でも起こることです――「イエス、ノー! イエス、ノー!」。ついに、憤慨したパールヴァティーは言いました。
「なぜあなたはそんなに頑固なのですか? もともと、私は自分のためではなく、あなたの帰依者のためにお願いしているのです。家がなくて、どうやって帰依者たちをもてなせばいいというのですか? 」
シヴァは答えました。
「ああ、君に家が必要なのは分かるが、今は家を建てるには吉ではない時期だ。今、家を建てたら、何があっても焼き払われる運命にある。私は、火の神アグニがそうするのは間違いないということを知っている。私には未来が見えるが、君には見えない」
パールヴァティーは言いました。
「主よ、私はあなたのおっしゃることに従います。しかし、すべての力はあなたの中にあり、さらには、あなたはアグニを含むすべての神々を統べています。もしあなたがアグニに私たちの家を燃やすなと命じたら、それに従わないことなどアグニにできるでしょうか?」
もはや、シヴァはパールヴァティーが家の建設を始めることに同意するしかありませんでした。シヴァは、アグニに会ってパールヴァティーの家を燃やさないようにと言うことにも同意しました。シヴァが出かけて行く直前に、パールヴァティーは言いました。
「私はアグニに私の建てた家を燃やさせはしません。そのような行いは私への大きな侮辱となります。もし万が一アグニがあなたの言うことをきかなかったら、ダマル(太鼓)を叩いて音で私に合図してください。そうしたら、私はすぐに家を自分で焼き払い、アグニに家を燃やす喜びを与えないようにします」
シヴァは同意し、アグニに会いに出かけていきました。アグニはシヴァの姿を見て喜びました。アグニはシヴァを歓迎して言いました。
「主よ、私はあなたが私に会いに来てくださりとても嬉しいです。主よ、私はあなたのために何ができるでしょうか?」
シヴァは答えました。
「私には自分の望みはない。しかし、パールヴァティーが家を建てたので、彼女はその家を焼き払わないというそなたの約束を欲しがっている」
アグニは約束することを快諾し、言いました。
「主よ、長い間、私はシヴァ・ターンダヴァ〔シヴァ神が踊る宇宙の舞い〕を見たいと切望していました。どうか、私のために踊っていただけませんか?」
そこで、アグニを喜ばせるために、シヴァはターンダヴァを踊りはじめました。その過程で、シヴァは必然的にダマル(太鼓)を叩くこととなり、その音を聞いたパールヴァティーは、すぐさま自分が建てた家に火をつけました!
(ここでスワミは、たいそう美しく軽快なメロディーの歌をお歌いになりました。その歌の壮大さを損なわずに翻訳することは不可能なので、その部分は英語に訳していません。その歌に万雷の拍手が湧き起こりました。)
シヴァが戻ると、パールヴァティーが建てた家は燃えて廃墟(はいきょ)になっていました。シヴァは言いました。
「パールヴァティー、これはいったい何事か? アグニは家を焼き払わないと約束してくれたのに、家が灰になっている」
パールヴァティーは答えました。
「この家に火をつけたのは私で、アグニではありません。もしアグニが私の望む約束をあなたにしたのなら、なぜあなたはダマルを叩いたのですか?」
シヴァは微笑んで答えました。
「ああ、それは、約束をした後、アグニが私にターンダヴァを踊ってくださいと懇願したからだ。私はそれに応えなければならなかった。どうして嫌だと言えようか? 宇宙の踊りを舞ったとき、私は我を忘れて太鼓を叩いた。そういうことだ」間を置いて、シヴァはこう付け加えました。
「そもそも、私は君に、今は縁起の良い時ではなく、家は焼けてしまうだろうと言った。しかし、君は聞き入れようとしなかった!」
このメッセージは明らかです。神の意志は常に勝ち、誰もそれを邪魔することはできない、ということです。
時間を聖化しなさい
神の意志はハートから生じ、常に成就します。ハートが清らかなときには、思考も行動も神聖なものになります。ですから、ハートをいつも清らかに保っていなければなりません。これがシヴァの原理の真髄です。ハートは本質的に清らかで神聖で縁起のよいものなのですから、決してハートが汚れることを許してはなりません。
愛の化身たちよ! いつでもハートの清らかさを保っていなさい。どんな人も罵倒せず、他の人を批判せず、どんな人も非難せずにいなさい。そうすれば、あなたのハートの中にシヴァが見えるでしょう。清らかなハートからは清らかなマインドが生じます。スワミが言っているのは、モンキー・マインド(猿の心)のことではなく、ヴィシュヌの象徴である汚れなき心です。そのようなマインドは、愛にあふれ、慈愛に満ちた思考で満たされ、常に至福にあり、いつも喜びを放っています。このように、ヴィシュヌの光輝は清らかなマインドの中に見ることができます。同様に、ブラフマーは真実の言葉となって光り輝きます。サティヤすなわち真理を超えるものは何もありません。
創造物は真理から生じる
そして、それは最終的に真理の中に溶けていく
真理のない場所はない
おお人よ! 真理の栄光を目撃せよ!
真理の言葉はブラフマーであり、清らかなマインドはヴィシュヌであり、清らかなハートはイーシュワラです。ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラは、特定の姿形を持っているのではなく、特定の神の属性を象徴しており、そのすべてがあなたの中に潜在しています。
神は愛ですが、時たま、怒っているように見えることがあります。それは教訓を与えるためです。ヴェーダは、この二つの面を、ルッドラ(怒れる者、ルドラ)とバッドラ(救う者、バドラ)という言葉で述べています。神は、あなたの欲望のうち、善につながるものは叶えますが、害をもたらすものであれば叶えません。いずれにせよ、神はあなたにとって良いことしかしていません。もしあなたが神に完全な信頼を置いているなら、神は可能なあらゆる方法であなたを助ける用意があります。
皆さんは、16年だけ寿命を与えられた少年、マールカンデーヤの物語を知っているでしょう。マールカンデーヤはその事実を知りませんでしたが、両親は知っていました。両親は15年間、息子と幸せな時を過ごしました。16年目に入り、運命の日が近づいてきました。母と父は憂鬱になり、しくしくと泣き出しました。マールカンデーヤは戸惑って、「お母さん、どうして急に悲しくなったの?」と尋ねました。両親はマールカンデーヤを近くに呼んで、「息子よ、今日はおまえの人生の最後の日なのだ。これは私たちの不幸なのだ」と言いました。そして、なぜ寿命が縮まったのか、その理由を説明しました。マールカンデーヤはショックを受けました。しかし、すぐに状況を理解して、こう断言しました。
「これまで僕は、その秘密を知らずに時間を浪費してきました。今から僕は神聖でない行いはせず、一瞬も時間を無駄にしません。僕の人生に残された時間はすべて、イーシュワラへの礼拝に使います」
そう言うと、マールカンデーヤは地元のシヴァ寺院に駆け込み、リンガムを強く抱きしめて、さまざまな御名で主を呼びました。一方、死の時が近づいたので、死の神ヤマ〔閻魔大王〕が、命を引きずり出すのに使うヤマパーサ(縄)を持ってその寺院にやって来ました。マールカンデーヤがしっかとシヴァに抱きついているのを見て、死の神は、「どうやってマールカンデーヤだけに死の縄をかけたらよいだろう?」と考えはじめました。少年だけを縛るのは容易ではありませんが、死の時が訪れたからには、すぐに事を運ばなければなりません。そのため、ヤマは縄を投げました。それはマールカンデーヤとリンガムの両方にかかってしまいました。すると瞬時にシヴァが現れて言いました。
「おお、ヤマよ! そなたは今、私にまで死の縄をかけるほどの勇気があるのだな?!」
ヤマは即座に呪いをかけられ、マールカンデーヤは不死を与えられました。この物語は何を教えているのでしょうか? それは、もしあなたに完全な信心があり、決意を固めているならば、主は定められた運命さえも取り消す用意がある、ということです。与えられる恩寵は、その人の祈りの強さに比例するのです。
この真理を認識して、ハートの清らかさを保ちなさい。清らかなハートはイーシュワラであり、清らかなマインドはヴィシュヌであり、清らかな言葉はブラフマーである、ということを固く信じなさい。この信心に根ざして、神から与えられた能力を正しく活用しなさい。そうすれば、必然的に良い結果がもたらされ、最終的には必ず主に融合することができます。人が生涯において経験する喜びと苦しみはすべて、各人の善行と悪行の結果です。
今日、ディーパク・アーナンドは、スワミが「内なる三位一体」というテーマについて話すのを聞く機会を皆さんに提供しました。スワミがいかにしてあなたの内で三位一体の神のダルシャンを得ることができるかを明らかにしたのは、今回が初めてです。このように、あなた方には知られていない霊妙な神秘は、たくさんあります。神の神秘のニュアンスを知らないまま、人々はくだらない行動をして時間を浪費しています。
愛の化身たちよ! 時間はきわめて神聖で、最も価値があります。神は、時間として、次の言葉で礼拝されています。
カーラーヤ ナマハ、
カーラ カーラーヤ ナマハ
カーラ ダルパ ダマナーヤ ナマハ、
カーラ スヴァルーパーヤ ナマハ
カーラ ニヤミターヤ ナマハ
〔時であるお方に帰命します、
時を凌駕(りょうが)するお方に帰命します
時を征服したお方に帰命します、
時の姿をとったお方に帰命します
時を定めるお方に帰命します〕
これらはすべて、時間としての面を持つ神についての描写です。そうであっても、神は時間と空間を超越した存在でもあります。時間が人生であり、それゆえ、善い言葉、善い考え、善い感情で人生を聖化しなければいけません。
清らかな発言、清らかなマインド、清らかなハートは、無私の愛の真の具現です。
(バガヴァンは、「プレーマ ムディタ マナセー カホー」というバジャンで御講話を締めくくられました)
サティヤ サイ ババ述
2000年5月16日
夏期講習
ブリンダーヴァンにて
Summer Showers in Brindavan 2000 Ch3
新婚カップルへの祝福
親愛なる子供たちよ、
あなた方は、ただ出会って連れ合いになった男子と女子ではありません。あなた方は、ハイフンで一つにつながった「シヴァ‐シャクティ」であり、まさに私がそうであるように、一つの体の右半身と左半身なのです。あなた方が、ずっと歓喜と満足という日よけの下にいることができますように。あなた方が二人とも、忘我の愛という波の上に浮かんでいることができますように。あなた方が、花で飾られた、勇気と自信というロープで吊るされた信仰心というブランコに乗って、楽しく揺られていることができますように。あなた方が今日乗り込んだ小舟に、幸せな関係と祝宴と健康と有益なものが積み込まれますように。その小舟が安全に、そしてスムーズに、主の蓮華の御足に到着しますように。その小舟を全託と奉仕というオールで、二人で漕いできなさい。その小舟に神の恩寵という風がいっぱいに当たるようにさせなさい。
あなた方のババより
Prema Dhaara Part2 No.68
主の蓮華の御足の栄光
パードゥカ・プラティシターにおけるババの御講話
正しい行いを守ることは減り
ダルマは危機にひんしている
道徳は行き場を失っている
人間の存在について何を語ることが
できるだろうか?
道徳と倫理は書物の中にしかなくなった
ハートは汚ないゴミ箱と化してしまった
神聖アートマの化身たちよ! 湿り気は水の自然な特質です。硬さは石の属性です。甘さは砂糖にとって自然なことです。熱は火の特性です。
これらは物質のダルマ(自然な生態)です。個々人にとってヴァーンチャ(欲望)があるのは自然なことです。なぜなら、人間は欲望によって支えられており、それは人間のダルマ(自然な性質)であると考えられているからです。「ダーラヤティ イティ ダルマハ」(ダルマとは支えるものである)。人間は欲望によって支えられています。人間の第一の義務は、自分の欲望をすべて神に捧げることです。
これは、ダルマの実践には、現世の欲望をすべて神に捧げ、内なる目を発展させることが必要だということを意味しています。「サルヴァダルマーン パリッティヤッジヤ マーメーカム シャラナム ヴラジャ」――すべてのダルマを手放して、私だけを拠り所としなさい――とギーターの中でクリシュナは述べています。これは、人は外的な感覚的、肉体的な欲望をすべて神に捧げ、永遠なるものを軸とした霊的な思考を培うことを第一に目指さなければならないということを示しています。
ハートの純粋さは霊的英知に不可欠
こうした霊的な展望を身につけて、他の人々を感化するには、チッタ シュッディ(ハートの清らかさ)を持っていなければなりません。霊的な英知は、ハートの清らかさがあって初めて姿を現すことができます。雑草を取り除き、土地を耕し、種を蒔き、水をやることが、その土地で作物を収穫する前に必要であるのと同じように、人のハートの土地も、悪い考えや悪い感情を取り除き、愛を含んだ水をやり、霊性修行で耕し、神の御名という種を蒔かなければなりません。そうして初めて、人はグニャーナ(神聖な英知)という収穫を得ることができるのです。
今日では、霊性修行は話を聞くことだけになり、教えを実践することはなくなっています。聞くことは一種の病気になっています。人々は、話を聞いただけで、自分は何でも知っていると自慢します。このおかしな自慢話は人の無知を深めています。
人は聞いたことを反芻(はんすう)すべきです。反芻した後に、ニッディディヤーサ(教えを実践すること)をすべきです。そうして初めて、思考と言葉と行いの三重の清らかさが得られるのです。今日、人々はただ講話を聞くだけで満足しています。これでは悟りには至りません。
シュリーニヴァーサラガヴァンは、「ナーマ・リキタ・ジャパム」(霊性修行として主の御名を繰り返し書くこと)の実践について言及しました。この修行は、思考と言葉と行いの調和を促進します。これら3つの過程(まず主の御名を思い、次に御名を口に出し、次に御名を書く)はすべて、清らかなハートで行うべきです。
「サッティヤム」は人間の真の姿を示す
どのサーダナ(霊的規律)にも、完全な清らかさが不可欠です。この清らかさを達成するためには、シュレーヤス(霊的な幸福)とプレーヤス(俗世の幸福)の違いを理解しなければなりません。真の人間らしさとは、アートマ(内在する魂)の本質を知ることにあります。ヴァーク(話す言葉)、マナス(マインド)、プラーナ(生命力)が一体となってアートマを構成しています。「サッティヤム」(satyam)というサンスクリット語に含まれる3つの音節は、人間の真の姿を指しています。「サット」(sat)は食べ物、「イ」(y)は水、「ヤム」(yam)はスーリヤ(太陽)を表しています。この言葉の中にある意味は、太陽は人が食物を育てるのに役に立つ水を供給している、ということです。「サッティヤ」(satya)を逆の順序で解釈すると、真実は苦行と感官の制御によって悟られる(「サット」(sat)は真実、「タ」(t)はタパスすなわち苦行、「ヤ」(ya)はヤマと感官を制御する他の形態)という意味になります。
感官とそこから生じる欲望を制御することは、ほとんど不可能です。そこでできることは、すべての欲望を神に向けることです。これは、目、耳、鼻、舌といった感覚器官はすべて、それぞれが働く力をアートマ(内在する魂)から得ている、ということに気づけば可能になります。感覚器官を動かして、目が見ること、耳が聞くこと、舌が味わうことを可能にしているもの、それはチャイタンニャ(アートマの意識)です。意識の役割は、電球が光を放つのを可能にしている電流のようなものです。このアートマ意識はすべての存在に内在しているので、ブラフマンと呼ばれています。
人間の体は神を悟るための道具
世俗的な欲望にとらわれて、人は自分の神性に気づいていません。体は一時的なものであり、滅びゆく、ということに気づかずに、人は体と自分を同一視しています。人間の体は、自分に内在する神を悟るための道具にほかなりません。人は宇宙のすべてを知ろうとしていますが、自分は何者であるかを知ろうとはしていません。人は自分の実体を知らないために、不自然な人生を送っています。人間の第一の努力は、自分の神性を悟ることに向けられなければなりません。人は単なる人間ではありません。人は真に神であり、この根本的な真実に気づかなければいけません。
人は、自分の体の各部は、それらを動かしている神の力のおかげで機能しているということに気づかなければいけません。体の各部を重視しすぎてはなりません。目の見えない人は、目がなくても生きているのではありませんか? 耳の聞こえない人は、聞く力や話す力がなくても生きているのではありませんか? 重要なのは、これらの器官をどのように使うかです。
聖者スールダースは、魂を揺さぶる歌の中でこう嘆いています。
「おお主よ! 目を授かっているというのに、人々はあなたの美しさを見ることができません。耳を持っているというのに、人々はあなたの美しい声を聞くことができません」
人は役に立たない噂話ばかり聞いています。吉兆な神聖なことには耳を傾けません。せっかく目を持っているのに、憎しみと嫉妬で人々を見ています。
猿も、ロバも、犬も、豚も、人間と同じように視力を持っています。こうした動物と人間との違いは何でしょう? 動物は、食べて、寝て、子をもうけます。人間もこれらのことをしているなら、動物と人間とは何が違うのでしょうか? 動物は自分の子供を愛しますが、その愛は一時的なものです。しかし、人間の場合、その愛は一生続きます。
どうすれば体を聖化できるのか?
人間は、それがなければ自分は存在することができないものは何か、を理解しなければいけません。目や耳や他の器官がなくても生きていくことはできますが、プラーナ(命)あるいはアートマがなければ生きていくことはできません。これはプラーナ・プラティシタ(人の中に神聖な生命力を入魂すること)と呼ばれています。人体という鏡には、神の姿が映し出されています。人間は愚かにも、その鏡をチャイタンニャ(意識、実体)だと思っています。人ができることはすべて、この意識がその担い手であり、体ではありません。
では、体はどのように聖化されるべきなのでしょうか? それは、体をアートマ意識と結び付いた行為に従事させることによってです。この教えは、ハヌマーンによってヴィビーシャナに説かれました。ハヌマーンは、ラーマの御名をただ繰り返すだけではラーマの御姿を見ることはできない、とヴィビーシャナに言いました。ラーマの御名を唱えつつラーマへの奉仕に身を捧げることによってのみ、彼(ヴィビーシャナ)はラーマとのサーユッジヤム(一つになること)を経験することができる、と。
ギーターの700のシュローカをすべて唱えても、ギーターの教えを一つも実践しないなら、それがいったい何の役に立つでしょう? 「アドヴェーシター サルヴァ ブーターナーム」(いかなる生きとし生けるものに対しても悪意を抱いてはならない)。これは人類に対するギーターの第一の禁令です。これは、一なるアートマ(神)がアンタラアートマ(内在者)としてすべての生きとし生けるものの中に宿っている、という声明に基づいたものです。他の人に憎しみを抱くなら、ギーターを唱えることに何の意味があるでしょう? 皆さんは、神を礼拝し、他の人の中にいる神を憎んでいます。その礼拝と憎悪は互いに打ち消し合い、皆さんには何も残りません。
ラーマ神の命令に従いなさい
ラーマーヤナは定期的に読まれ、ラーマはバーラタ〔インド〕の大多数の人々に崇拝されています。どの村にもラーマ寺院があります。しかし、何人がラーマの命じたことを守って生活しているでしょうか? ラーマは父親が交わした約束を貫くために森に行くことを選びました。今日、父親の命令に従う人はどれだけいるでしょう? ラーマは、真実を貫くために、王国と快適さの一切を犠牲にしました。ラーマは、自分の唯一の目的は人々の福祉を促進することである、と言いました。ラーマは人々の中に神の姿を見て、人々に仕えようとしました。
どんな苦行も、どの聖河への巡礼も、
どの経典の研究も、主の御名を唱えることも、
サッジャナ〔善人〕に奉仕をしないなら
サムサーラ〔輪廻〕の海を渡る役には立たない
サッジャナムとは、サット、すなわちアートマが宿っている者のことです。アートマがすべての存在に宿っているように、サッジャナムはあらゆる人を指します。すべての存在の内なる実在であるサットに奉仕するとき、あなたはチット(意識)の気づきを得ます。この気づきによって、ハートはアーナンダ(至福)で満たされます。
アンナマーチャーリヤは、主の御足はブラフマー自身によって洗われたものであり、ブラフマンそのものであり、全宇宙の重荷を負い、すべての人間の体の重荷を負うものである、と称賛しました。これはどのように行われるのでしょうか。神はプールナ・スワルーパ(すべてを包み込む姿をとる存在)です。個人の足がその人の体の重さを負っているように、神の微細体は、その足で全宇宙を負っています。足がなければ、体は動くことができません。
主の御足に与えられた偉大さの意味
人は、大宇宙と小宇宙が同じ五大元素によって構成されていることを認識し、すべてのものの中には神が存在しているということを悟るべきです。ですから、人は心の底から主の御名を唱え、主の御足を拠り所とすべきなのです。アンナマーチャーリヤはこう宣言しました。
「おお、心(マインド)よ! 主の蓮華の御足を拠り所としなさい。蓮華の御足はおまえをすべての災いから解き放ち、神の世界へと導いてくれるだろう」
バラタがラーマのパードゥカ(サンダル)を安置し、アヨーディヤーは実際にラーマのサンダルによって守られました。バドラーチャラ・ラーマダースも同じ調子で歌いました。
「おお、ラーマ! 私はあなたの御足をしっかりと捕まえています。あなたが私を守ると保証してくださるまで、私は一歩たりともあなたを行かせません」
ティヤーガラージャも同じ調子で、自分はタンジャーヴルのラージャ〔藩王〕が差し出す財宝に誘惑されることを自分に許さない、自分はこの世のあらゆる富よりもシュリ・ラーマの蓮華の御足を好む、と言明しました。
「御足」というのは、金や銀でこしらえたサンダルのことではありません。御足とは、すべてのものを支える神のことを指しています。どうして足にそれほどの偉大さが与えられているのでしょうか? 科学の観点から見てみると、血液は足から上に向かって体のあらゆる部分に流れていることが分かるでしょう。この血液こそが全身を養っているのです。全身の重荷を負う足は、生命それ自体にとって不可欠なものです。主の御足を拠り所とするならば、あなたは神の御姿を見ることを確実にすることができます。
ヤショーダーは足跡のおかげでクリシュナを捕まえることができた
主の御足が何を意味するかを示すために、幼少期の主クリシュナのゴークラムでのちょっとした例を挙げてみましょう。クリシュナは、あらゆる家からバターを盗み、友人や遊び仲間にも食べさせることで知られていました。このいたずらっ子に対するたくさんの苦情が来る中で、クリシュナの母ヤショーダーは、ある日、逃げ回るクリシュナを捕まえて尋ねました。
「家でたくさんあげているのに、どうして他の家からバターを盗むの? あなたの口はいつもバターの匂いがする。盗み癖をやめなさい。さもないと、臼(うす)に縛り付けて動けなくしますよ。こんなに小さな子供なのに、どうしてそんなことをするの?」
クリシュナは、にっこりと微笑み、走って逃げていきました。ヤショーダーはクリシュナを探して家々を回りました。クリシュナは小さないたずらをしました。ヤショーダーは体重が重かったので、速く動くことができませんでした。ヤショーダーは、どうやってクリシュナを探し出せばいいのか困り果ててしまいました。
クリシュナは、ある家で牛乳の中に足を浸し、その場から逃げ出しました。そのため、足跡が残りました。その足跡のおかげで、ヤショーダーはクリシュナを捕まえることができました。実のところ、ヤショーダーがクリシュナを捕まえたいと強く望んだために、ヤショーダーが自分の跡をたどれるよう、クリシュナ自身がその助けをしたのです。ヤショーダーは、主の足跡のおかげで、主を捕らえることができたのです。
主の御足は、さまざまな点で栄光に満ちています。けれども、主の御足が祝福を与えてくれるのは、本当に信じて求めた場合に限られます。主の御足には、シャンカ(法螺貝)とチャクラ(円盤)という神の印が付いています。シャンカはシャブダ・ブラフマン(神なる宇宙の音)の象徴です。円盤は時間の輪の象徴です。音と時間は共に、主のさまざまな宇宙的側面を表しています。全宇宙は音の振動から生じました。その振動は時間と相関しています。音と時間は切り離すことができず、相互に依存しているのです。
悪いことをしてしまった人に対して、その相手(被害者)の足をつかみなさい、と勧めるのが、農村の人々の一般的な習慣です。ひとたび相手の足をつかんだならば、それは、相手に許しを求めて許しを得た、ということを意味します。現在では、裁判所や法的な手続きがすべて整っているため、相手の足をつかもうとする人はいません。昔の村では、もし誰かが自分の足にひれ伏してきたら、その人を許すしかありませんでした。
主の御足を求めることは、許しを求めること
主の御足を求めることの内的な意味は、そうすることで、主はその懺悔(ざんげ)している人の罪を許してくれる、というものです。けれども、ただ御足をつかむだけでは十分ではありません。心から悔い改め、二度と同じような罪を犯さないと宣言しなければいけません。そうして初めて、その人は贖罪(しょくざい)を確実なものにすることができるのです。
神聖アートマの化身たちよ! サーダナの種類は人それぞれです。人々はサーダナの恩恵を得るためにアシュラムに行きます。彼らは年長者を敬愛し、年長者に礼拝を捧げます。これらの実践は、自分にエゴが残っている限り、何の役にも立ちません。あなたのエゴは、あなたがアシュラムから追放されることにさえ、つながりかねません。ですから、あなたの真の人間性に気づくために、エゴを抑え、所有欲を消し去り、アートマへの執心を強めなさい。妬み、憎しみ、怒りが、人間の間に大混乱を引き起こしています。アシュラムの住人たちでさえ、怒りに満ちています。怒りは罪に捧げられたお香である、と言われています。ですから、蓮華の御足を礼拝している最中、主の御名を書いている最中には、これら3つの邪悪な性質を追い出さなければいけません。
エゴを破壊し、義務を果たし、互いに助け合う
最初に、エゴを破壊しなさい。そうすれば怒りは収まるでしょう。自分の義務を果たしなさい。エゴを出してはいけません。互いに助け合う心を育みなさい。喜びをもって仕事を続けなさい。互いに友好的でありなさい。このように振る舞うときにのみ、皆さんはリキタ・ジャパム〔神の御名を繰り返し書くこと〕とパードゥカ(主のサンダル)への礼拝のご利益を得るでしょう。
サイ・オーガニゼーションにおいて第一に必要なのは、団結と互いの信頼です。団結があってこそ、世界の幸福を促進することができるのです。組織の中に不和があれば、どうやって他の人々に奉仕できるでしょうか? 忍耐をあなたの装身具にしなさい。愛を通してあなたの悪い特質を取り除きなさい。ナーマ・リキタ・ジャパムやパードゥカ・セヴァのような神聖な活動に着手する、サイ・オーガニゼーションの指導的なメンバーたちは、神聖な資質を身につけるべきです。
タミル・ナードゥ州では、多くの村で、帰依者たちがナーマ・リキータ・ジャパを行い、パードゥカに礼拝を捧げています。それと同時に、自分のハートも清めるべきです。今日、世界の多くの地域で、自然が地震、飢饉(ききん)、洪水、火山の噴火など、さまざまな災害を引き起こしています。その理由は何でしょう? 人間の霊性の低下がそうした災害の原因です。ハート(人のハート)の乱れが地震に反映されるのです。あなたの心(マインド)を善い思いで満たし、善い行いに従事しなさい。主の御名を唱えなさい。空間が神聖な御名のバイブレーションで満たされると、環境全体が浄化されます。そうした神聖化された空気を吸う人は、清らかな思考を持つようになります。今汚染されている大気を、浄化しなさい。
1993年10月7日
パードゥカ・プラティシターの日
プールナ・チャンドラ講堂
Sathya Sai Speaks Vol.26 Ch31
理想の学生の資質
親愛なる学生諸君
三日月から離れることなく揺るぎない信仰心を固持している、星のようでありなさい。太陽があなたの頭上にある時には、影はできません。それと同じように、あなたの信仰心がハートの中で揺るがずにいる時には、疑いの影が射すことはありません。
他人の悪口は言わず、善いところだけを話しなさい。すべての人は善いのです。もしあなたが他の人の中に悪を見たとしたら、それはあなたの中に悪があるからです。もしあなたが誰かのことを好きでないなら、その人とは関わらないことです。恩寵は果実を熟させる日光であり、サーダナ〔霊性修行〕は大地から上がってくる樹液です。木が果実を実らせるには、そのどちらも必要です。
祝福と共に
ババ
Prema Dhaara Part2 No.31
*三日月と星はイスラム教のシンボル
勝利の勝利
霊性の道とは、無執着の道であり、感覚の制御の道であり、厳しい心の訓練の道です。パールヴァティー女神は最初、身体的な魅力によってシヴァ神を獲得しようとしました。そして、シヴァ神を誘惑するために、恋愛の神であるマンマタに一役買ってもらう計略を練りました。しかし、シヴァ神は恋愛の神を灰にして、パールヴァティーの誘いを断りました。その後、パールヴァティーは厳しい苦行生活に入り、それによってシヴァ神の恩寵を勝ち取ることができ、シヴァ神の聖なる体の左半身となるまでになりました。人はまず、くじけることなく自省をし、継続的に識別をしてから、自分の進みたい道を決める必要があります。モークシャ(解脱)とは、真実(真理)を曇らせて真実でない蜃気楼(しんきろう)を作り出す無知という束縛を取り除くことを意味します。実際、生きることは、代わる代わるにやって来る不幸と幸福、飢えと満足、病気と健康、欲望と充足を得ていくプロセスの別名にほかなりません。人は、一つの欲が満たされるやいなや、新たな欲の対象へと触手を伸ばします。人はいつももがいていて、いつも不幸せです。それは、永遠のものや永続するもの、源や実体を求めようとしていないからです。人は、束の間のもの、ささいなもの、一時的なもので満足しているのです。
他の人を幸せにすることで喜びを得る
真理を通じて解脱に到達するために、体を戦車として使いなさい。その戦車がサティヤ(真理、真実)、ダルマ、シャーンティ(平安)、プレーマ(愛)の4つを車輪に据えてゴールへの道を進むのを見届けることは、あなたの義務です。荷物が少なければ、すなわち、欲望や心配や恐れが少なければ、戦車は道を進んでいくことができます。自分は肉体とその付属物の一切であって、肉体の持ち主ではない、と考えていると、欲望や心配や恐れは増大します。カルマ〔行い〕、バクティ〔信愛〕、グニャーナ〔英知〕は、神への3つの道です。しかし、カルマは欲望によって歪められ、バクティは貪欲によって汚され、グニャーナは怒りによって曇ります。しかし、人はプレーマ(愛)を通じて、欲望と貪欲と怒りを容易に克服することができます。
小さな蟻(あり)から教訓を学びなさい。蟻は、砂糖の塊を見つけると、その事実を他の蟻に隠して独り占めして食べようなどとはしません。反対に、蟻は動き回って友だちや親族を集めます。なぜなら、蟻は自分が見つけたごちそうを分かち合いたいと思うからです。カラスは、軽蔑されていて、よく追い払われる鳥ですが、小さな食べ物の山を見つけると、知り合いや親族がその場所に集まってくるまで、何度も鳴いて知らせます。おいしいものは分かち合われ、まずいものは遠ざけられます。人生は短く、苦しいこともたくさんあるのですから、他の人たちを幸せにすることから喜びを得ることができるよう、全力を尽くしなさい。もし他の人たちが不幸であるなら、どうやってあなたが本当に幸せになることなどできるでしょうか?
人間の偉大さは、意識的な努力によって自分の中の悪を取り除くことができる、という事実にあります。一方、人間以外の動物は、どれほど訓練や教育を受けようと、身を潜めていた根源的な本能が、いつでもわずかな挑発で湧き上がってきます。シヴァラートリは、その日一日断食し、丸一晩徹夜することによって、暗闇を光に変え、シャヴァム(死体)をシヴァム(神)に昇華させることができると言われています。この断食と徹夜は、寝ずに五感の動きを監視すること、五感が害を及ぼすのを阻止することで五感を征服する、という象徴です。
神の行動の背後にはすべて目的がある
悲しみや喜びを他の人と分かち合うための特別な感受性を授かっている生きものである人間が、なぜ時間と空間が変化するこの世界に生まれてこなければならないのでしょうか? 生まれてきたものは死をまぬがれず、建てられたものが崩壊を耐えることはできません。では、なぜ人は、はかないこの経験の舞台に送り出されるのでしょうか? 神の行動の背後にはすべて目的があります。人は、自分の中の神性を顕現させて、その冒険の中で、すべての生きものを率い、導かなければならないのです。人は、自分で努力して自分を解放し、その模範によってすべての生きものを解放しなければならないのです。人は、自分自身の源の中で、自由になり、安全にならなければなりません。これがモークシャ(解脱)と呼ばれているものです。人は、小から大へ、束縛から無限の至福へと解き放たれるのです。
エゴという不純物が人に入り込むのは、もっぱら見かけの多様性に惑わされ、創造世界には多面性があると断定したときです。アグニャーナの薄暗い夕暮れ(原初の無知)の中で誤認される実在が、神です。一なるものしか存在していないところに多を映し出す霧がかかっているのを見抜くこと、それがあらゆる霊性修行の目的です。何年サーダナ〔修行〕を続けても、それがどの宗教で定められた修行であっても、そのサーダカ(霊性の求道者)が違いや区別や多様性を見続けているなら、今生で人間として存在する目的を果たすにはまだまだ道のりは長い、と結論づけることができます。
一なるものに気づくことは揺るぎない平安を確実にする
一なるものに気づいたとき、恐れはなくなります。なぜなら、「一なるもの」に自分自身を恐れることができますか?さらに、そこには欲望も存在することはできません。なぜなら、第二のものが存在しないとき、どうして所有したいという欲望がわいてくるでしょうか? そのとき、妬み、憎しみ、貪欲、高慢といった、人を苦しめ、安らぎを与えない邪悪な情念もまた存在することはできません。一なるものに気づくことは、揺るぎない平安プラシャーンティを確実にします。一なるもの(神やパラマートマやブラフマンや普遍なる絶対者と呼ばれる存在)は、すべての愛、すべての知識、すべての英知、すべての甘さです。「ラソー ヴァイ サハ」(彼〔一なるもの〕は甘さである)と、ウパニシャッドは述べています。そうであるとき、彼、すなわち、人の本質の中に、どんな苦味があり得るでしょう? というのも、人は彼によって、彼から、彼のために顕現しているからです。
トラからヤギが生まれることはありません。神から生じるものは、必然的に神であるのみです。それゆえ、ウパニシャッドの中には、人間の呼称として、「アムルタッスヤ・プットラハ」(不死の子)というものがあるのです。それゆえ、パラマ・アートマン〔至高の真我、パラマートマ〕から生じた存在である人間の中に存在するアートマン〔アートマ〕も、不死なのです。火炎から発せられる火花には、火と同じ発火性があります。体は神の神殿であり、そこに身を置くと決めた神のために有機化されているのです。内なる神を悟り、それによって、この世という荒野をさまよっている間に見逃していた「神秘」は神なのだ、ということを理解するようになるまでは、人は体を維持することに熱心であらねばなりません。
源に融合するために努力し、切望し、もがきなさい
その気づきは、さまよう心(マインド)をつないでじっとさせ、心を内側に向けることによってのみ、得ることができます。シヴァラートリは、心(マインド)の制御という目標を全人類に思い出させます。聖賢らによれば、月は心を司る神であり、現代科学も、心の気まぐれと月の満ち欠けとの間に微妙な関係があることを発見しています。黒分〔満月から新月に向かう半月〕の間は日が進むにつれて月が細くなりますが、これは、心も細くなる過程をたどっていることの象徴であるということになります。今日は〔満月の翌日から〕14日目の夜であり、地球や人の心に影響を与える月は、ほんのわずかしか残っていません。このラートリ(夜)、すなわち無知〔暗闇〕の間に、徹夜やバジャンや断食といった方法で霊的な努力に全力を傾けるなら、心(マインド)は消滅し、心によって陥れられているその人の傾向や態度のすべてを克服することになるでしょう。このようにして、このラートリ(夜)は、まるで天界のようなシヴァ神の輝きへと昇華されるのです。
努力しなさい、それはあなたの義務です。切望しなさい、それはあなたの任務です。奮闘しなさい、それはあなたに割り当てられた仕事です。あなたがこれらを誠実に着実に行いさえすれば、神は悟りという報酬を長い間遠ざけておくことができません。川は、努力し、切望し、奮闘して、自分がそこからやって来た海へ流れ着こうとします。川は、常に油断なくその究極の達成を意識しています。川は、自分の源に歓迎されることができるよう、自分を清らかで澄んだ状態にしようとします。川は、ゴールに向かって首尾よく旅するために、あらゆる地形の障害を克服します。人間も、神が授けてくれた、肉体的、心的、知的、道徳的、そして、物質的な天賦の才をすべて活用し、悟りというゴールへと旅することができるようにしなければいけません。
愛は決して復讐という考えを抱くことができない
現世と来世、こことこの先という、2つのものが存在することを信じることによって、惑わされてはなりません。ここでこの先を実現しなさい。現世は来世と織り合わされています。世俗的なものと霊的なもの、神聖なものと物質的なもの、天上のものと地上のものの間の相違に、真実はありません。すべての世界で実行されているのは、主の命令です。主の意志が風を導いて草の葉を揺らさなければ、草の葉一枚、揺れることはできません。生命という電球は、永遠普遍の動力源であるカイヴァッリャからもたらされる電流によって光を照らしており、その電流は主の法に従って働き、愛というケーブルを通って電球まで引かれています。
その愛がエゴに染まると、電球はまったく光を照らすことができなくなります。エゴには愛がなく、愛にはエゴがありません。エゴは手に入れ、忘れます。愛は与え、許します。愛は決して復讐という考えを抱くことはできません。なぜなら、愛は自分以外のすべてのものを自分と見るからです。舌が歯に傷つけられたとき、あなたは歯に復讐するでしょうか? いいえ、しません。なぜなら、舌も歯もどちらもあなたのものであり、あなたの体に不可欠な部分だからです。
それと同じように、他人があなたを侮辱したり、苦痛を与えたりしたときにも、英知にあなたを支配させなさい。真理を発見し、結論を急がず、常に愛をあなたの導き手としなさい。
むろん、これは困難なタスクですが、人間の能力を超えているわけではありません。奮闘や持続的な努力なしに終えることのできるタスクは、誇れるものではありません。困難なタスクこそが、チャレンジであり、人間の中にある最善と最高を引き出すのです。熱意と信念をもってこのタスクに着手しなさい。ひとたびその勝利が得られれば、それ以外のものもあなたに付加されるでしょう。
1977年2月16日
マハーシヴァラートリ
Sathya Sai Speaks Vol.13 Ch30
サイラーマを得ていながら
子供たちよ、
欲望が生じてきました。この縁起のよい祝日は、人の偏見を追い払うこと、人の利己的な動機を捨て去ること、激性と鈍性を燃やし尽くすこと、そして、神への愛を強めることが意図されています。簡単に言うなら、欲望(カーマ)を滅ぼして、神(ラーマ)に到達するということです。
サイ ラーマという、いつもあなたと共にある者を得ていながら世間を欲するのは、愚かなことです。何生もの功徳のおかげでこれほど並外れた特権を獲得していながら、私たちの男子諸君がまだ世間の楽しみを渇望しているのは、実に不幸なことです。
サイは愛の権化であり、甘さの化身であり、あらゆる力の宝庫です。そのようなサイの恩寵を受けるに値する者となり、永遠に続く平安と幸せを楽しみなさい。この聖日に、サイの愛がすべての人に等しく分け与えられなければなりません。彼らに、自分の古い醜悪な特質を変えるよう、善い行いをして生きるよう、そして、自分の人間としての生の正当性を立証するようにと言いなさい。
これはサイの愛です。
Love,
ババ
自然のベール
女性であることの栄光
死の神ヤマと戦い、死んだ夫を生き返らせた、
貞女サーヴィトリーは
このバーラタの国で生まれた
夫ハリシュチャンドラの悲惨な試練に苦しんだ、
美徳の模範チャンドラマティーは、
このバーラタの国で生まれた
ラーマの献身的な妃であり、
母なる大地の神聖な娘であったシーターは、
燃え盛る火の中から無傷で生還することで、
自らの貞節を実証したダマヤンティーもまた、
清き純潔の貞女であり、
楽しいときも苦しいときも
終始変わらず夫ナラのそばにいた
愛の化身たちよ! ここバーラタ(インド)は神聖と貞節の地であり、バーラタに英雄の国という栄光をもたらした類いまれな人格者たちであるこうした偉大な女性たちを生んできました。
古代より、ガーヤトリーマントラを司(つかさど)る女神、ガーヤトリー デーヴィーは、最も古く、信頼の置ける、英知の聖典と見なされているヴェーダの母として礼拝されてきました。ガーヤトリーマントラは、この聖なる地で生じました。ガーヤトリーマントラの栄光は全世界に広まっています。
バーラタの人々は、さまざまな方法でガーヤトリーを礼拝し、自分の人生を救ってきました。ガーヤトリーは4つの姿において礼拝されています。それは、(1)サティヤヴァティー、(2)アンガヴァティー、(3)アンニャヴァティー、(4)ニダーナヴァティーです。この4つは、どれも等しく神聖であり、神の限りなき恩寵を引き出します。
第1の姿、サティヤヴァティーは、ちょうど牛乳の中にバターが内在しているように、すべての生き物の中にはアートマが存在しているということを示しています。これは、「エーカートマ サルヴァブータンタラートマ」(唯一なるアートマがすべての生き物に内在している)と宣言されています。存在しているのは一つのサット(真理)ですが、それは賢者によってさまざまに語られているのです。
第2の姿はアンガヴァティーです。アンガヴァティーは、すべての生き物に内在している五元素、そして、聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚という五つの感覚を示しています。この世に五元素で出来ていないものは存在しません。アンガヴァティーは、パンチャブータ スワルーパ(五元素の具現)です。
第3の姿はアンニャヴァティーで、これは神のさまざまな姿の属性を指しています。例えば、シヴァ神は三叉戟(さんさげき)や第三の目などと関連しています。ヴィシュヌ神はいつもほら貝〔シャンカ〕や円盤〔チャクラ〕や棍棒(こんぼう)〔ガダ〕などを持っていると言われています。私たちはヴィシュヌ神をシャンカ チャクラ ガダ パーニ〔ほら貝と円盤と棍棒を手に持つ者〕と呼びます。
ガナパティ〔ガネーシャ神〕は象の顔と大きなお腹でそれとわかります。ガナパティはあらゆる儀式において最初に礼拝されることになっています。サラスワティーは、ナーダ ブラフマー〔音の姿をとった神〕としての神聖な音の本質を教えていることから、手にヴィーナを持っていると言われています。このように、アンニャヴァティーは、神のさまざまな姿の構成要素を示しています。
第4の姿、ニダーナヴァティーは、9つの種類の礼拝を教えます。すなわち、シュラヴァナム〔神の栄光を聴くこと〕、キールタナム〔神の栄光を歌うこと〕、スマラナム〔神を憶念すること〕、パーダ セーヴァナム〔蓮華の御足に奉仕すること〕、ヴァンダナム〔神を崇敬すること〕、アルチャナム〔神仏の像を礼拝すること〕、ダースヤム〔神の召し使いとして奉仕すること〕、サキーヤム〔神の親しい友人となること〕、アートマ ニヴェーダナム〔真我への全託〕です。
世界はこれらガーヤトリーの4つの姿によって象徴されています。それゆえ、この世は自然界(プラクリティ)、すなわち女性の姿(ストリー)と言われているのです。
バーラタにおける女性の重要性
バーラタ(インド)は、女性はあらゆる社会的美徳の担い手であるとして、常に女性に高い地位を与えてきました。ヴィシュヌとラクシュミー、シヴァとパールヴァティーといった神の夫婦の名前を挙げる際に、ラクシュミー・ナーラーヤナ、ウマー・マヘーシュワラといったように、妃の名前が先に挙げられるという事実は、バーラタ人がいかに女性を重視しているかを示しています。
人々は一般的に、女性は弱いと言います。しかし、ようやく今、バーラタ人は、女性を弱者と見なすことはできないということを認識しました。家庭を預かる女性は、家庭に名声と評判をもたらす主役を担っています。個々の家庭だけでなく、国や世界の名声においても、女性は主役を担っています。古来より、女性は社会において高い地位を与えられてきたのです。
諸聖典は、女性という種類の人間には7つの徳があると見なしています。それは、サティヤ(真理、真実)、プレーマ(愛)、ダルマ(正義)、シャーンティ(平安)、サハナ(寛容)、アーナンダ(至福)、スヴァヌブティ(霊性)です。
家庭の女性は、家庭の繁栄の女神であるグリハ ラクシュミーとして高く評価されてきました。妻は、夫が困難に直面したときには喜んでその重荷を分かち合い、夫と家族の幸福のためならどんな苦難にも耐えよう、自分の命を犠牲にすることさえいとわない、という覚悟でいます。家庭の評判を支えているのは、家庭の女性です。女性は犠牲の権化です。一方、男性も犠牲を払うかもしれませんが、女性の犠牲には全く私心がないのに対して、男性の犠牲は利己的な色合いを帯びたものとなるでしょう。それゆえ、私たちはこの国の女性を誇りに思うべきなのです。
古代インドにおける女性の高い地位
長い間外国に支配されていたにもかかわらず、バーラタ文化や道徳が存続してきたのは、少なからず、この国の女性の勇気と不屈の精神によるものです。先の講演者、ギーター・レッディ博士が指摘したように、女性はサティヤとダルマという武器を持つ兵士として輝いています。女性は通常、嘘をつきません。自覚なく嘘をつく女性が現れるような場合もあるかもしれませんが、全般的に見て、女性というものは真実と正しい行いを守ります。女性は、ヴェーダの勧告である「サティヤム ヴァダ、ダルムチャラ」(真実を語り、ダルマを実践せよ)に従います。
あるとき、ジャナカ王は、王に学者としての栄誉を授けるべき人物として最もふさわしいのは誰かという議論を行いました。そこにはヤーグニャヴァルキヤのような偉大な賢人や博学の学者たちが集まっていたにもかかわらず、ジャナカ王はガールギー女史こそが最もその栄誉を受けるにふさわしい人物であるという決定を下しました。
これは、女性は古来、一般市民からも王からもいかに高く評価されてきたかを証明する一例です。古代において女性は高く評価されていましたが、後世になると女性の地位は低下し、行者でさえも女性に対する正しい評価を否定するようになりました。
例えば、聖者マタンガが偉大な女性帰依者シャバリーを自分のアシュラムに入れようとした時、出家の弟子たちの多くは異議を唱えました。しかし、高潔なマタンガ仙は、シャバリーの貞節、ひたむきな信愛、解脱の追求への献身という並外れた功徳を認め、シャバリーを自分のアシュラムに入れました。最終的に、シャバリーがどれほどラーマに信愛を捧げていたか、どれほどマタンガ仙の教えどおりにラーマを礼拝し、その結果、解脱したかが世に証明されました。
家庭と社会における女性の役割
現代の教育の弊害のせいで、人々は女性をおもちゃのように考えて、操り人形のように扱う傾向にあります。女性はとても吉兆で高潔な資質を持っています。ところが、男たちは女性を台所と家の四方の壁に閉じこもる料理人だと考えています。女性は家事の切り盛りをするだけでなく、家庭の家族全員の健康と幸福にも気を配っているということを、男たちは忘れているのです。
今、政府は、選ばれた市民にパドマシュリー、パドマブーシャンといった称号を与えはじめました。しかし、女性にはすでに、グリハ ラクシュミー(家庭の繁栄の女神)、ダルマパットニー(献身的な妻)、アルダーンギ(善き伴侶)といった、もっと立派で価値のある称号があります。女性にこうした称号があるのは、優れた資質と犠牲の精神のゆえです。
女性が職場に行ったら誰が家庭を見るのか、母親が他の子供を教えに学校に行ったら誰がその母親の子供を教えるのか、等々といった問いが持ち上がります。中には、女性が働きに出るのは経済的な問題を解決するためであるけれども、働きに出ることでもっと大きな問題に向き合わなければならなくなることもあり得るだろう、と言う人もいます。しかし、現代社会では、女性は家庭を維持していくための負担を夫と分担する必要に迫られており、そのため、女性もできるかぎり学業に励んで、適切な仕事に就き、家庭の負担を分担すべきなのです。必要な資格を取得した女性が仕事に就くことを男たちが妨げるなら、そこには利己心の気配がうかがわれます。
女性は、愛と犠牲という持ち前の資質(プレーマ・バーヴァとティヤーガ・バーヴァ)によって、自分たち自身で全世界を制することができます。怒りは、女性にとっては異質なものであり、男性の間ではより多く横行しています。女性が怒りを爆発させる場合もあるかもしれませんが、そのような機会は少なく、ごくまれであるのに対して、男性の場合はその逆です。
サーヴィトリーは死の神(ヤマ)と戦い、夫を生き返らせることに成功しました。聖典や歴史の中に、夫が妻のために犠牲を払う覚悟をした例を見つけることができるでしょうか? 妻が亡くなると、夫は再婚を考えます。この世では、女性に関するかぎり、このような不公平が起こっているのです。だからこそ、11月19日だけでなく、毎月19日を女性の日として祝うことにしたのです。
女性はインド古来の文化の継承者
サイ・ムーブメントの女性帰依者たちは、弱い立場にある女性たちが家族のためにお金を稼いだり、自分の時間を有意義に過ごしたりできるように、洋服の仕立てなど、役に立つ職業を学ぶのを助けるような奉仕活動に、大勢で熱心に参加しています。このような活動が全国で行われるようになれば、国は繁栄するでしょう。こうした神聖な仕事は、私たちの国の古来の文化の典型です。
女性は私たちの古来の文化の継承者です。文化とは精錬を意味します。女性は精錬の聖火ランナーであり、国家の解放のために奮闘しています。
ギーター・レッディは、ジャーンシーのラニ〔ジャーンシー藩王国の王妃ラクシュミーバーイーの呼称〕といった偉大な女性たちの戦場での活躍について語りました。ラニはすさまじい戦いを繰り広げ、打ち負かされると、敵〔イギリス軍〕に降伏するくらいなら命を投げ出すことを選びました。ラニは、犠牲によってのみ人は解放を得ることができるというヴェーダの教えを実践しました。このカリの時代には、女性がサティヤとダルマに従っていないという例外的なケースもあるかもしれません。しかし、ほとんどの場合、女性はサティヤとダルマの理想に従って生きています。
しかしながら、女性は能力を発揮することを奨励されていません。家族の中でさえ、女性は障害や対立に直面しなければならない、というありさまです。もし女性に正当な評価と励ましが与えられれば、女性はあらゆる分野で輝きを放ち、家、国、そして全世界に輝かしい奉仕をして、全人類の安寧に貢献するでしょう。
女性は仕事に献身と誠意を示す
確かに、女性特有の優れた資質を持ち合わせていない女性も少なからずいるかもしれません。けれども、社会のどの階層においても、これは避けられないことです。オレンジの果実を例にあげましょう。オレンジの果汁を味わうためには、苦味のある外皮と種の部分を取り除かなければなりません。人間という生命の果実にも、外皮のように苦い部分がたくさんあります。あなたはその苦い外皮と、悪い性質という種を取り除かなければなりません。そうすれば、中に詰まっている甘い果汁を味わうことができます。
もし女性の例にならって男性が神聖で犠牲的な性質を身につけるなら、世界は間違いなく向上するでしょう。男たちは、あたかも仕事ができるのは男だけであるかのように、「ウッディヨーガム プルシャ ラクシャナム」(男は自分の職業によって知られる)などと言っています。これは間違った発言です。女性も、男性と同じようにあらゆる仕事をしています。実際、女性たちは、より誠実に、献身的に働いています。
最近、インドの電話業界の役員がスワミに会いに来た時、スワミは電話業界で雇用されている女性の割合について質問しました。彼は、従業員の99%が女性であると言い、女性は男性の10倍良い仕事をしていると付け加えました。女性は、割り当てられた仕事が終わるまで、立ち止まったり外に出たりすることはしません。女性は男性よりも優れた労働文化を持っています。
聖典のどこにも、女性は料理だけをすべきである、男性のように仕事をすべきではない、などとは書かれていません。実のところ、男性も、いざというときに妻を助けることができるよう、料理や家事を学ばなければいけません。気づきが人生です。気づきとは、部分的な知識ではなく、総合的な知識を意味します。女性にはその熱意が満ちあふれています。男性であっても、あらゆることを学ぶ努力をすべきです。女性には秘められた力があります。皆さんは、女性が才能を発揮できるよう励まさなければいけません。
目の前にいる兵士全員を震え上がらせるほどの軍の指揮官が、家に帰って妻を目にすると震え上がります。同じように、目の前にいると学生たちが怖がって震えるような学校長も、妻から帰宅が遅くなった理由を問い詰められると、背筋が凍るような思いをします。
神は区別しない
一般的に、プルシャという言葉は、肉体的な姿に基づいた男性だけを意味するものだと思われています。これは本当ではありません。プルシャは、頭のてっぺんから足の先まで体の隅々にまで存在しているアートマ、あるいはチャイタニヤ〔意識〕を表しています。プルシャールタ(プルシャ・アルタ、人生の主な目標)は、ダルマ、アルタ(富)、カーマ(欲望)、モークシャ(解脱)の4つです。これは男性だけに当てはまるものではありません。これは男性にも女性にも共通のものです。
実際、女性は基本的なダルマに誠実に従うのに対して、男性は利己的に行動します。神性を悟っている者がプルシャです。スワ ダルマ〔自己のダルマ〕とはアートマ ダルマのことであり、肉体に関するダルマのことではありません。これはバガヴァッド ギーターの中で説明されています。これは古代人が従った理想でした。
アルタとは、単に富や金銭を意味しているのではありません。これは知恵という富を意味します。真の英知である不二を体験する権利は、男性と女性の両方にあります。
カーマとは、この世の対象物を求めるのではなく、神を求める欲望です。
モークシャ(解脱)は、人生の第4の目標です。モークシャを求める欲望は、男女を問わず、万人に共通のものです。モークシャとは、モーハ クシャヤ、すなわち、身体的な妄執を捨てることです。感覚〔五感〕や心〔マインド〕に従うことなく、良心に従うなら、モークシャに向かって前進することができます。
女性は自分の役割を果たすよう奨励されるべきである
経典の奥義を教え、女性が社会で役割を果たすことを奨励するために、19日は女性の日と定められています。ダルマは、女性によってこそ、社会で地位を占め、本来の栄光を取り戻すことができます。しかし、男性にも同等の権利があるのですから、国が繁栄するよう、この強大で神聖な努力を共にしなさい。たとえ積極的に加わらなくとも、少なくとも男性は女性に干渉をせず、女性に仕事をさせるべきです。
クリシュナはギーターの中で、「アナンニャーシ チンタヤントー マーム イェー ジャナーハ パリウパーサテー」(誰であれ、他念なく私を想い、私を崇める者)〔ギーター9章22節の前半〕、「テーシャーム ニッティヤービユクターナーム ヨーガクシェーマム ヴァハーミャハム(それほどまでに私に専心する者の安寧は、私が担う)〔ギーター9章22節の後半〕と言いました。これは、いかなる区別もない、あらゆる人への保証です。誰もが同様の普遍性の感覚を養うべきです。
神は遍在です。カースト、信条、性別、国籍に基づいた相違感は捨てなければいけません。神は何も区別しません。皆さんもこの平等の原則を実践すべきです。神はすべての場所にいます。まるで神があなたの小さな額縁に収められた姿の中に閉じこもっているかのように、神をあなたの狭い範囲内に限定することはできません。そう考えるのは愚かです。神には何千という姿と名前があるのです。サハッスラナーマ・アルチャナ(主の千の御名の礼拝)をするとき、あなたは千の御名を一つ唱えるごとに花を一つ捧げていきます。そのすべてはただ一つの絵姿に捧げるのであり、いくつもの絵姿に捧げるわけではありません。すべての御名はただ一つの神を指しているのです。皆さんは、アッラー、イエス、ラーマ、クリシュナなどと唱えるかもしれません。しかし、そのすべては、ただ一つの神を指しています。
もしも、あなたが崇めている姿が唯一の神だと言うのなら、あなたは無限の存在を狭い有限の存在に限定していることになります。
宗教的な差別は捨てなさい。一つの宗教があるだけであり、それは愛です。一つのカーストがあるだけであり、それは人間というカーストです。ただ一つの言語があるだけであり、それはハートの言語です。先ほど私はガーヤトリーの4つの部分と五大元素について話しました。すべては神です。そこにはカーストや信条やどんな違いもありません。
一体性を悟れば、純粋性と神性を得ることができます。皆さんはこのことを忘れて、敵意や共同体の感情を増しています。神には共同体や国籍や性別といった区別はありません。古代では、人々の間にそのような相違感はありませんでした。そうした感情に余地を与えてはなりません。神は一つであり、この世の誰もが神の恩寵を享受する平等な権利を持っているのです。
1998年4月19日
コダイカナルにて
Sathya Sai Speaks Vol.31 Ch14
自然のベール
私の愛と祝福を受け取りなさい。
あなたの甘い手紙が届きました。調子はどうですか?
幸せでいなさい。心配しないでいなさい。サイはいつもあなたと共にいます。
放棄とは、悪の力と戦い、心(マインド)を抑制する力です。真理が、真理だけが、真の友であり、身内であり、自己(アートマ)です。真理に従い、正義の道を歩むなら、あなたの体の毛一本すら決して傷を負うことはないでしょう。
完璧になる必要はありません。あなたはすでに完璧なのです。自然は覆いのようなもので、その先にある事実を隠しています。あなたが考える良い考えや、それに基づいた良い行動はどれも、言わば、まさにそのベールを引き裂いて、その背後に存在している神の清らかさ、無限性が、もっともっと現れるようにするのです。
来たら、必ず5月の夏期講習(78年5月20日から6月20日)にいらっしゃい。
愛を込めて
ババ
Prema Dhaara Part2 No.49
あなたの内に生じる愛を神に向けなさい。
あなたの体を神に捧げなさい。これは真の信愛の印です。
人間には3つの構成要素があります。
それは、心(マインド)、語る言葉の力、体です。
この3つは、トリカラナ、
すなわち、人の3つの行動媒体〔3つの道具〕
と呼ばれています。
この3つが神聖な目的のために使われるとき、
人は神聖化されます。
三重の清らかさ
信愛のみが、至高の善を授けてくれる
信愛のみが、輪廻(りんね)の病を
滅ぼしてくれるもの
信愛のみが、神性を悟る手段
信愛のみが、解脱の手段
愛の化身たちよ! 信愛〔バクティ〕によってのみ、人は至高の真理に到達します。信愛によってのみ、人は生死という病から解放されます。信愛によって、人は神を悟ろうと努めます。信愛によってのみ、人は解脱を達成します。バーラタ〔インド〕人は、バクティ(信愛)を人生の至高の目的、最高のゴールと見なして、古来よりバクティの道を追求してきました。
バクティ(Bhakti)という言葉は、さまざまに解釈されてきました。バクティの語源は「バジ」(Bhaj)です。シャンカラは「バジャ セーヴァーヤーム」〔奉仕を通じて神を崇めよ〕と言明しました。シャンカラによれば、「奉仕は信愛」です。あなたは誰に奉仕をするのでしょうか? 奉仕の形とは何でしょうか? 神への奉仕が真の奉仕の形です。「ヴィヴェーカ・チューダーマニ」〔シャンカラの著書『識別の至宝』〕では、バクティの意味を別の方法で詳述しています。「スヴァスヴァルーパ ダルシャナム バクティ」(真の自己を認識することがバクティである)、と。
信愛の偉大な主唱者であったナーラダ仙は、「バジャ パラマバクティ」〔至高の信愛を崇めよ〕と言明しました。ナーラダは、バクティとは主の御名に浸ることから生じる信愛の絶え間ない流れである、と定義しました。ナーラダはまた、パラマバクティ(至高の信愛)で満ちている者は、肉体を忘れ、神への愛に完全に浸り、陶酔状態にあると言明しました。これは、真の信愛とは、肉体を忘れ、神の愛に完全に没頭することであるということを意味しています。
ラーダーとバクティ
ヴィシシタ・アドヴァイタ哲学〔条件付不二一元論〕の提唱者であるラーマーヌジャは、ラーダーの名前からバクティの意味を導き出し、バクティとは神への絶え間ない愛の流れであると解釈しました。「ラーダー」という単語には、ラ、アー、ダ、アーという4つの音節が含まれている。この単語は、ラから読むとラーダーだが、アから読むとアーダーラになる。ダから読むとダーラーになる。2番目のアーから読むとアーラーダになる。アーダーラは「基盤」を意味する。ダーラーは「絶え間ない流れ」を意味する。アーラーダは「礼拝」を意味する、と。このように、ラーダーは、ラーマーヌジャにとって、神への礼拝の絶え間ない流れを表明しているのです。
ヴァラッバーチャーリヤは、別の解釈を示しました。彼は信愛の絶え間ない流れと、しずくとなって落ちる信愛とを区別しました。ハートが完全に神への愛で満たされているとき、帰依者は絶え間なく神の御名を唱える。そうした帰依者の心の状態は、「サルヴァダー サルヴァカーレーシュ サルヴァットラ ハリチンタナム」(いつでもどこでも絶え間なく神を憶念し続ける)と表現される、と。
真の信愛は神を友と見なすこと
マーダヴァーチャーリヤは、真の信愛とは神を唯一裏切ることのない友と見なすことであると述べました。他の友人たちは皆、一時は友人であっても、後には敵対するようになるかもしれません。このように、この世の友人は皆、いつかは敵に変わるかもしれません。神は唯一の真の友です。マーダヴァーチャーリヤは、真の信愛とは神を最も偉大な友と見なす神への愛の現れであると定義しました。
ヴェーダは、以上のすべての解釈を超越した真理を宣言しています。ヴェーダは、ニッティヤムとスヴァーガタという2つの言葉を何度も繰り返しています。ニッティヤムとは、あらゆる時代を通じて変わることのないものです。これは、過去・現在・未来という3つの時間すべてにおいて変わらない真理であるとも表現されています。スヴァーガタとは、その光り輝く力のことであり、それはその光を自ら周囲に広げて存在し続けます。
このことは太陽によって例示されています。太陽は変わることなく自らの光を四方八方に広げている存在です。太陽の永続性はニッティヤの属性を示しており、その光の拡散はスヴァーガタの性質を示しています。どちらの性質も一つの実体を源としています。スムルティ〔ヴェーダ以外の聖伝〕は、この性質をスヴァルーパ・スヴァバーヴァ(姿と質の組み合わせ)と呼びました。
太陽には2つの性質があります。一つは光を放つという性質、もう一つは熱を伝えるという性質です。同様に、アートマには2つの性質があります。一つはプラバーヴァ(発散)、もう一つは光を周囲に広げる性質です。あなたの家にあるランプはその例です。ランプは一つでも、その光は家全体を照らします。それと同じように、アートマはその姿においてただ一つです。それは永遠であり、不変です。スムルティはそれを、「サッティヤム グニャーナム アナンタム ブランマー」(至高の自己は、真理であり、英知であり、無限である)と表現しています。グニャーナ(霊的英知)をあらゆる場所に広めるのは、アートマの本質です。
スムルティは、アートマはアヌ(原子)の姿をしていると明言しています。ここには、宇宙には原子を持っていないものは存在しないという意味が含まれています。すべての物質は原子でできています。経典は、神はアヌスヴァルーパ〔原子の姿〕として遍在していると宣言しています。神はまた、大宇宙としても存在しています。
ダルミーとダルマ
神のアヌスヴァルーパ〔原子の姿〕はダルミーと呼ばれています。この姿をとって、ダルミーはすべての被造物の中に存在していますが、すべての被造物はダルミーの中には存在していません。宇宙に存在するすべての物体は互いに異なるように見えますが、それらすべてに内在している神聖原理は一つであり同じです。その神聖原理は、すべての物体の根底にある単一性を明示するものであり、ダルミーと呼ばれています。これは、ダルミーは一見多様に見える物体すべてを一つにするものであるということを意味しています。
ダルマは物体の姿における多様性を表しています。そうしたすべての物体の単一性を明らかにする根本原理がダルミーです。ダルミーは、ヴェーダにおいて、ムーラーダーラ・パダアルタム、つまり、万物の根源にあるもの、と説明されています。この原初の根本的な実体は他のすべてのものの基盤です。今、このダルミーの重要性が忘れ去られつつあります。また、ダルミーはすべてに浸透しているということも忘れられています。
すべてに浸透しているダルミー(神性)は、微細な原子としてすべての物体の中に存在しているので、人はダルマ・スヴァルーパ、すなわち、ダルマの化身であると見なされています。人間は何のために肉体を与えられているのでしょうか? 何のために存在しているのでしょうか? 経典は、「シャリーラム アーディヤム カル ダルマサーダナム」(体はまさしくダルマを達成するための第一の道具である)と述べています。体はダルマを実践するために人間に与えられているのです。今、人々は自分が存在するようになった目的を忘れがちです。人々は、自分の義務を無視しています。無意味な空想を追い求めています。そのため、自分の本質を理解することができずにいます。
祝祭の役割
祝祭は、人々に本当の神聖な性質を理解させるために意図されています。今日はヴァイクンタ・エーカーダシー〔内なる天国の扉が開くとされる日〕です。ヴァイクンタ〔天国〕とは何でしょうか? 主の住まいは、ヴァイクンタ、カイラーサ、スヴァルガなど、さまざまに述べられています。これらはすべて想像上の名前です。
神の住まいとは何でしょうか? 主はナーラダ仙に言いました。「どこであれ帰依者が私の栄光を歌う所に私は住む」、と。主は帰依者のハートの中に住んでいます。これが主の「本宅」です。他のすべての場所は「別宅」です。ハートに宿る神聖なる者に宛てたメッセージは、必ず神に届きます。神の住まいとしてのヴァイクンタは、変わることのない場所を意味します。人間には多くの変化があるかもしれませんが、ハートは変化しません。エーカーダシーとは何を意味するのでしょうか? それを何か特別な場所や時間と考えるべきではありません。エーカーダシャ・ルッドラ〔11のルドラ神〕の姿は、五つの知覚器官と五つの行動器官と心で構成されています。ルッドラは人体に宿る者であり、人体は多くの潜在力で満ちています。現代の人々は、これらの潜在力と、ハートに宿る神性を忘れています。
新年の日は来ては去っていきます。それらは何の役に立つのでしょうか? サムヴァッツァラ(一年)は主の御名の一つです。一瞬一瞬が新しいのです。自分を変えるのに、なぜ1年も待つのですか? 新年やヴァイクンタ・エーカーダシーといったこの世の祝祭にとらわれているかぎり、神はあなたを避けるでしょう。現象界と肉体意識を忘れて、初めてあなたは神を悟ることができるのです。
人間の3つの行動媒体
あなたの内に生じる愛を神に向けなさい。あなたの体を神に捧げなさい。これは真の信愛の印です。人間には3つの構成要素があります。それは、心(マインド)、語る言葉の力、体です。この3つは、トリカラナ、すなわち、人の3つの行動媒体〔3つの道具〕と呼ばれています。この3つが神聖な目的のために使われるとき、人は神聖化されます。
持っている信条にかかわらず、人は誰もが魂を磨く必要があります。すべての人に信愛が必要です。人のハートと心を浄化できるのは霊性だけです。第二の必要条件は道徳です。道徳はヴァーク(語る言葉)を浄化するのに役立ちます。第三はダールミカムです。体や手によって行われる正しい行いはすべて、人を神聖化します。3つの道具〔心・語る言葉・体〕は、霊性と道徳とダルマによって浄化されます。この三重の清らかさを達成した者だけが、神を悟ることができるのです。もしこれらの道具のどれかが不浄であれば、神を悟ることはできません。
神を理解するためには、人間は宇宙全体に浸透している微細な原子の原理を理解しなければなりません。神を理解することの難しさは、ゴーピカー〔牧女〕たちによって認識されていました。ゴーピカーたちはこう明言しました。「どうすればあなたを知ることができるでしょう、おお、クリシュナ! あなたは小さなものの中で最も小さく、宇宙に存在する84万の種の中で最も大きなものよりも大きいのです」
大切にすべき3つの装飾品
人は、神の遍在を信じて、善行に励み、善い思いを抱き、人生を善い修行に捧げるべきです。言葉は真実の言葉であるべきです。大切にすべき装飾品は、語る言葉にとっては真実、手にとっては慈善、耳にとっては聖なる伝承の傾聴です。自分の神性に対する信心を深めなさい。そうすれば、自分の人生を救うことができます。良心に従いなさい。ハートを清らかにしなさい。
世俗の事柄に没頭していては、神を悟ることはできません。知識には2種類あります。ダルメー・ブータ・グニャーナとダルマ・ブータ・グニャーナです。ダルメー・ブータ・グニャーナは姿形に関する知識です。ダルマ・ブータ・グニャーナは名前に関する知識です。この2種類の知識に基本的な違いはありません。名前と姿形は相互に関連しています。この真実を理解しなければいけません。すべての存在の内で輝いている意識は、神の姿であり性質です。この姿形と名前の一体性を正しく理解しなければいけません。こうした概念にはどれも、外的な意味と内的な意味があります。内なる意味を把握しなければなりません。例えば、ここにあるマイクはテーブルの上に置かれています。テーブルが土台です。テーブルは大地の上に立っています。大地が土台であり、テーブルは大地に支えられています。土台はアーダーラと呼ばれ、土台に支えられているものはアーデーヤと呼ばれています。現代人はアーダーラ〔土台〕を忘れがちで、アーデーヤ〔土台に支えられているもの〕のことばかり考えています。
神のサポートがあればすべてのことが成し遂げられる
愛の化身たちよ! 新年は毎年、規則正しくやって来ます。一方、あなた方は何か新しい考えを抱きましたか? あなた方は、古い、間違った考えを捨てていません。そのようなものは捨ててしまい、神聖で、崇高な、新しい考えを持たなければなりません。もしあなた方が、古い考え方や行動の仕方を変えないのであれば、新年を祝うことが何の役に立つでしょう? 貴重であり神聖でもある時間を適切に使いなさい。役にも立たない噂話にふけるのはやめなさい。思いやり、愛、同情といった善い性質を培いなさい。自分の行いを注意深く監視して行動し、自分で自分を罰して行動を正しなさい。さまよう心や怒りは、簡単な方法でコントロールすることができます。そして、神を頼みとしなさい。
あなたを支える神の力をもってすれば、成し遂げられないことは何もありません。カルナとラーヴァナは、背後に神の力がなかったために滅ぼされた強者の例です。パーンダヴァ兄弟が救われたのは、神への信心と団結のおかげです。世界の出来事は、ある一族は団結のゆえに繁栄し、ある一族は一族が分裂したせいで苦しむことになったことを示しています。
今、国家は何よりも団結を必要としています。団結を促進することができるのは、神への信心を通してです。この会場にいる人々の多様性を見てごらんなさい。彼らは異なる信条を持ち、異なる国籍を持っています。その全員が、スワミへの共通の忠誠で結ばれています。神を信じるというたった一つの気持ちによって、団結を達成することができるのです。分裂の原因となっているのは、この信心の欠如です。
あなた方は皆、神の化身です。あなた方は皆、愛と平安の化身です。あなた方は人間の姿をした神です。このことを確信できるようになりなさい。神の愛に浸りなさい。その愛を神に捧げなさい。そうすることで、あなたはすべてを愛するようになります。この愛の原理を身につけたときにのみ、あなた方はこのような祝日の意味を知ることができるようになるでしょう。自分の父親や母親のために立ち上がるのと同じように、神への信仰のために立ち上がりなさい。
社会への奉仕をしなさい。社会がなければあなたは生きていけません。あなたの幸福は、社会の幸福と密接に結びついています。すべての人を神の一つの家族の一員として愛し、すべての人との一体感を育みなさい。
1998年1月1日
サイ クルワント ホールにて
Sathya Sai Speaks Vol.29 Ch1
自分のササーダナに集中する
親愛なるバクタ〔バクティを持っている人/帰依者〕へ!
あなたとあなたの家族を祝福します。
あなたの手紙と、同封されていた新聞の切り抜きを受け取りました。世界は、あらゆる類いの人々、あらゆる類いの考えを抱えています。これは世界の特質です。私たちは、そうした人々や、その人たちの活動に注意を払うべきではありません。帰依者は、自分の領域の外で起こっていることを心配する代わりに、自分自身の向上のためにサーダナに集中しなければいけません。
機関誌で、あなたが読者と分かち合うために寄せた文章を見ました。それは取るに足りない問題を扱っています。私たちは、価値のあるものとないものを識別しなければいけません。読者やメンバーが霊的なサーダナにおいて進歩すること、そして、スワミの教えを理解すること、実践することを、常に助けようと努めなさい。
スワミが霊的な成功のために与えた、とても多くの建設的でポジティブな指示があります。書くとき、話すときには、それらに重点を置きなさい。瞑想は五感を超越します。人は、そうした瞑想によって穏やかになった心を携えて、勇敢に人生の活動に入っていくことができます。
地元のすべての帰依者に私の祝福を伝えなさい。
愛と祝福と共に
シュリ サティヤ サイ
1982年5月20日
Prema Dhaara Part2 No.54
人は、神の遍在を信じて、
善行に励み、善い思いを抱き、人生を善い修行に捧げるべきです。
言葉は真実の言葉であるべきです。
大切にすべき装飾品は、
語る言葉にとっては真実、
手にとっては慈善、
耳にとっては聖なる伝承の傾聴です。
自分の神性に対する信心を深めなさい。
そうすれば、自分の人生を救うことができます。
良心に従いなさい。
ハートを清らかにしなさい。
神はどこでみつかるか
73歳御降誕祭のババの御講話
神の愛の化身たちよ! 神は完全な愛の化身です。その愛はどの人の中でも等しく輝いています。花の香りは、花を右手に持っても左手に持っても変わりません。それと同じように、神には、受け入れる者、排除する者といった区別はありません。さまざまな人が、自分の好き嫌いから、自分の心の中にある区別を神にも当てはめようとします。神には、善悪、好むものと好まないもの、邪悪なものと高潔なものといった、区別意識はありません。白檀の木は、自分に当てられた斧(おの)にさえ香りを与えます。それと同じように、神はいつでも分け隔てなく、万人を平等に愛し、育て、守る心積もりでいます。しかし、心の狭い人々は、神の平等心を簡単には理解できません。実際のところ、魚売りにダイヤモンドの価値が分かるでしょうか? 誰もが自分の限られた理解力と経験を頼りに、神の力と属性を理解しているのです。
人間の視野が狭い理由
このような狭い観念を取り除くのにまず必要なのは、愛を育てることです。愛はどのようにして育めばよいのでしょうか? 人は「与えることと許すこと」によって、自分の中に愛を育みます。神との関係においては、それは、いつも自分のハートを神に捧げるという姿勢でいることを意味します。今日、私たちが目にしているのは、そのような神聖な態度とはほど遠い、「得ることと忘れること」という習慣です。
今日、人は神の愛と恩寵と恵みを受けていながら、何の感謝も示さずに、自分の利己的な追求に没頭しています。これが人の視野が狭くなっている原因です。
ギーターの最後に、サンジャヤは、ヨーガの主〔クリシュナ〕とパールタ〔大地の子であるクンティー妃の息子〕すなわち勇敢な射手〔アルジュナ〕が共に立つところ、そこに勝利はある、と宣言しました。人は繁栄や成功や至福を得るためにさまざまな努力をします。しかし、人がそれらを達成する手段は、自らバガヴァンの側に立つことです。パールタとはプリティヴィ(大地)の息子という意味です。それはすべての人間に当てはまります。サンジャヤの宣言は、人が神の側にいるか、神が人の側にいるかのどちらかであれば、勝利は確実である、ということを意味しているのです。現代ではそのどちらも起こっていません。人は神から離れた生活を送っています。
まず始めに、人生の目的は何かを認識しなければなりません。あらゆる国の求道者たち、さまざまな宗教の信奉者たちは、この、人生の目的という問題を探求してきました。その結果、さまざまな宗教が生まれました。イエスはキリスト教の創始者です。キリスト以前の世紀には、ユダヤ教がユダヤ人の宗教として存在していました。ユダヤ人は、イスラエルの民を守るメシアの到来を信じていました。
イエスが生まれたとき、東方から三人の王がやって来て、ベツレヘムの幼子を祝福しました。最初の王は、幼子を見て、この子は神を大いに愛する者となるだろうと言いました。二人目の王は、神はこの子を愛してやまないだろうと言いました。三人目の王は、イエスは神であり、神はイエスであると言いました。これらの声明の内的な意味は何でしょうか? 最初の声明は、神を愛する者は誰もが神の使者である、という意味です。神がその人を愛するとき、その人は神の子となります。その人が二元の感覚を手放して、自分の意識を神に融合させると、その人は神と一体となります。
イエスの生涯と使命
子供のころにエルサレムを訪れたとき、イエスは群衆の中に迷い込んでしまいました。マリアは必死に捜し回り、ようやく神殿で祭司の話に熱心に耳を傾けているイエスを見つけました。マリアがイエスに彼を捜すのに苦労したと話すと、イエスは言いました。
「お母さん! 私が父の家で父と共にいて安全であるのに、どうして心配する必要があるのですか?ここは神の神殿です。ここは私の父の館です。ここでは何も失われません。この永遠なる神聖な家では、私は完全に安全で、しっかりと守られているのです」
この出来事は、イエスは12歳にしてすでに神の資質に満ちあふれ、自分の周りの人々に神のメッセージを伝えていたことを示しています。キリストは、世間の人々に三つの重要なことを明言しました。それは、1)神は一つである、2)神は全能である、3)誰も傷つけてはならない、というものでした。神はすべてに宿る者です。キリストは自らの使命に着手して、人々に、神への愛を育むことによって神の愛を獲得するように、と呼びかけました。
それぞれ異なる信仰を公言する人々は、神をヴィシュヌ、シヴァ、ガネーシャ、アッラー、キリスト、その他、異なる名前で崇拝しています。神は一つであるというのが真実です。現代人は宗教の中に神を見出そうとしています。しかし、神は宗教(マタム)の中にではなく、心(マティ、マインド)の中で見つかるものです。心を制し、浄化したときにのみ、神は認識されるのです。
主は人に宿っている
神はどこにいるのかを知らずに、人は神に捧げものをすると主張します。すべてをブラフマンに捧げると主張していても、人々はブラフマンがどこに宿っているのか知りません。主は宣言しています。「私はヴァイシュワーナラの姿であなたの内に住み、あなたが供える物をすべてたいらげる。私はすべてを消化して、あなたの体に栄養を与える」
主は常に人間の側にいるというのに、人は神を世界中で探しています。外側を探しても、内側を浄化することはできません。不可欠なのは、意識を変えることです。あなたは自分の行いを正さなければいけません。というのも、すべては自分の行いしだいだからです。清らかなハートで正しい道を貫いて、あなたの人生を神聖なものにしなさい。すべての霊的な規律はすべて、この目的のためにこそ考案されたものなのです。捧げる祈り、ジャパ、プージャーはすべて、ハートを浄化することを目的としています。
教育、科学、他のどの分野でも、偉大な業績を残した人は皆、ひとえに行いによってそれを為すことができました。体力も、富も、知力も、人に尊敬や名誉を受けさせることはできません。尊敬と名誉をもたらすものは、その人の生き方です。ですから、神を悟るためには、もっぱら行いを通じて努力することです。正しい行いに欠けていれば、他のすべての霊性修行は何の役にも立ちません。ですから、帰依者は皆、神を悟る努力を増進するために、善良で神聖な資質を身につけるべきです。
あなた方は皆、サイの王国にいます!
あなた方は皆、サイの家にいます!
あなた方は皆、サイの光の中にいます!
あなた方は皆、サイのハートの中にいます!
私はあなた方を祝福します。
この聖なる夜に、私はあなた方を祝福します。
これはあなた方の権利です
もし正しい考えを抱くなら、あなた方は皆、神の家にいることに気づくでしょう。全宇宙は主の家です。ひとたびこの真理を認識したら、区別意識が生まれることがあるでしょうか?
神の道を理解する
人は、神は怒っているとか、無関心だなどと想像します。そのような想像をする人は。神性を理解していません。胃に腫瘍があったら、外科医はメスを使ってそれを取り除きます。その手術は患者に対する悪意から行われるのですか? そんなことはありません。手術は、その人を回復させるために、その人のために行われるのです。それと同じように、誰かが何か悪い性質を募らせたら、その悪徳を取り除くために手術が行われるのです。それが神によって行われると、神は、神が怒った、神の機嫌が悪くなったと言われてしまいます。そんなことを言うのは小心者の印です。神の愛の原理を理解している人は、そのような間違いを犯すことはありません。
今日は偉大な宗教の創始者の誕生日です。キリスト教徒は、イエスは神のメッセンジャー〔使者〕であり神の子であると見なしています。アナンタプルにあるサティヤ・サイ女子大学のOG〔女性の卒業生〕たちは、メッセンジャーズ・オブ・サティヤ・サイと呼ばれる団体を結成していて、年に一度、この神聖な日にその記念日を祝っています。「私たちを教育してくれた母校、あまりにも多くのためになることを授けてくれた母校に、どのように感謝を示せばよいのでしょうか?」というのが、OG会の会長からの質問でした。「私たちはどうやってバガヴァンに感謝を示したらよいのでしょうか?」と彼女は問いました。
献身的に社会に奉仕する
親愛なるOGの皆さん! どこにいようとも、神への信仰と無私の精神を胸に、社会に出て、あらゆる可能な方法で社会奉仕をしなさい。彼女が言ったように、女子は結婚後、義理の両親や夫から課せられるさまざまな束縛に耐えなければならない、というのは事実です。確かに、バーラタの文化と伝統は女性の自由を制限しています。一方、男子はより大きな自由を享受し、好きなように行動できます。どんな仕事に就こうが、どんな商売をしようが、どの国に行こうが、かなりの自由があります。束縛する人は誰もいません。社会奉仕をしたければ、多くのことができます。残念ながら、彼らは社会奉仕をしたいといった高潔な考えであふれているわけではありません。一方、社会奉仕をしたいという神聖な気持ちに駆られている女性たちは、ハンディと束縛に苦しんでいます。サイの教育機関で学んだ若き男女は、少なくとも今日からは、社会奉仕に従事すること、そして、自らの献身的な生活によって、人々の理想となることで、母校に感謝の気持ちを示すことを私は望みます。単に学位を取得するだけでは、教養人になることはできません。
目先の利益のためだけに学歴を利用するのは愚かなことです。自分の知識は、人々の生活を向上させるために使うべきです。もしあなたが人間としての真の幸福を得ることができないのであれば、山のような書物の知識は何の役に立つでしょう? 神は、神に信仰を置く人の面倒を見てくれないのでしょうか? いつも生計を立てることにばかり熱心で、遍在の主を忘れているなら、何が得られるというのでしょうか?
誰もが「私は平安が欲しい」と言って平安を切望します。しかし、平安は(peace)断片(piece)で満ちている外の世界で見つけることができるでしょうか? 平安は、「私は」と「~が欲しい」を取り除くことによって、自分の中で見つけるものです。平安は、エゴと飽くなき欲望によって破壊されています。欲望を抑えなさい。人間は、さまざまな種類の尽きることのない心配事に悩まされています。悩みは、心を神に向けることによってのみ、取り除くことができます。人々は、欲望を抑え、無執着(ヴァイラーギャ)を養わなければいけません。そうすれば、真の心の平穏を得ることができます。
サイの教育機関で10年あるいは12年過ごした学生が、受けた教育から得た恩恵の証しとして示すことができるものとは何でしょう? 彼らの行いや実践が、ある程度の証しとなるはずです。もし人生の貴重な時期であるその期間に、自制と自己規律を実践することを身につけていないなら、せっかくのチャンスを無駄にしたという罪を犯すことになるでしょう。教育の真髄は、善良な資質を培い、有意義な人生を送るための正しい価値を身につけることにあります。
私は、あなた方が人々への奉仕に献身し、それによって主の恩寵を得ることができるよう、あなた方学生全員を祝福します。
サティヤ サイババ述
1989年12月25日
クリスマス
プールナチャンドラ講堂
Sathya Sai Speaks Vol.22 Ch38
主の威風
親愛なる人へ!
何世紀にもわたってインド文化を通じて響き渡ってきた、2つの根本的なメッセージがあります。それは、「母を神として敬いなさい。父を神として敬いなさい」というものです。これらは神聖な指示です。親が子に避けられ、反抗されて傷ついているなら、きっとすぐに神も避けられ、反抗されるようになるでしょう。あなたの息子があなたをそこにいない者のように扱っているとき、どうしてそのような息子が私を敬っていると主張できるでしょう? その主張は明らかに偽りです。
主は外面の威風は求めません。主は内面の清らかさがあるかどうかを調べます。悪しき生活を送る人生は、命の宿っていない体のようなものです。肉体は、サンスクリット語で「デーハ」と呼ばれる、「荼毘(だび)に付さなければならないもの」です。内面の清らかさを得るために努力しない人と同一視される〔その人の〕肉体は、自らの名を正当化するその終焉のためだけに生きています。その肉体は、それ以外の目的のために仕えることはなく、主の恩寵を得ることもありません。
教育の価値は、その教育が植え付ける徳の観点から測られなければなりません。というのも、徳だけが平安と喜びを確実にしてくれるからです。徳がなければ、人は死んでいるも同然か、さらに悪いものです。教育は人に鋭い識別力を授ける必要がありますが、あなたの息子にとって、それを得ることは、みっともない、下等なことなのです!
サティヤ〔真理、真実〕は私が教えるものであり、ダルマは私が生きる道、シャーンティ〔平安〕は私の人格の印であり、プレーマ〔愛〕は私の本質そのものです。
ババ
Prema Dhaara Part2 No.26
あなたのハートを高潔な気持ちで満たしなさい
73歳御降誕祭のババの御講話
我々の母国は、すべての大陸で
名高い高潔な魂たちを世にもたらした
この国は、外国の支配者たちを追い出して
自由を獲得した国
このバーラタは学問で評判の国であり、
音楽、文学、神聖な伝承の分野で
模範である神聖な国
ああ、帰依者たちよ!
母国の栄光と繁栄を育むことは、
すばらしい芸術と自然の美しさで知られる
バーラタの地に生まれたあなた方の義務
(テルグ語の詩)
神性は、太陽よりも輝かしく、
純粋な雪よりも清らかで、
風元素や空元素よりも繊細であり、
すべての生き物に内在している
神性は、小宇宙と大宇宙に浸透している
神はすべてのものの中に存在しているが、
何にも属していない
あなたはブラフマンの中にいて、
ブラフマンはあなたの中にいる
実に、あなたとブラフマンは一つ
これ以上、何を伝えることがあろうか?
(テルグ語の詩)
愛の化身たちよ! バーラタは、霊性、正義、慈善、非暴力、そして、平安が生まれた場所です。バーラタで見られる、これらの特性への忠誠心は、他のどこでも見られません。バーラタは、サプタ リシ(七聖仙)と最初の詩人ヴァールミーキが生まれた場所です。ここは、ダルマの体現者であるラーマが統治する神聖な国であり、クリシュナによって神の歌であるギーターが歌われた国です。バーラタは、個々の魂と普遍の魂は一つであると宣言した国です。神聖さと正義と平安の国であるバーラタのような国は、他にありません。バーラタの大気には真実が浸透しています。バーラタの土には思いやりが浸透しています。バーラタのガンジス河には愛が満ちてます。この国の人のハートには寛容さが宿っています。これほど高潔で、神々しい、無類の性質は、バーラタだけに現れているものです。
神の磁力
神は全能であり遍在です。
サルヴァム カルヴィダム ブランマー
(まさにこの一切はブラフマンなり)
科学と霊性を探求すると、どちらも同じ真理を肯定していることが分かります。神の存在は、科学によって、電気、磁気、レーザー、ラジオ〔放射〕、熱、光波といった形で可視化されており、これらは遍在です。これは、神の存在を示す直接的な証拠です。神性は、あなたが食べるもの、飲む水、吸う空気の中に存在しています。この世には、磁気のない場所はありません。磁石とは何でしょう? 鉄の含まれた物を引き寄せる物だけが磁石なのではありません。この世に存在するすべての物は磁力で満ちています。母は子を引き付ける磁石であり、子は母を引き付ける磁石です。同様に、夫と妻はお互いに引かれ合います。草は牛にとっての磁石です。花はミツバチの磁石です。このように調べていくと、すべてのものに磁気の原理が適応していることがわかります。ヴェーダーンタは「ラーマヤティ イティ ラーマハ」(引き付けることはラーマの原理なり)と明言しています。哲人たちはそれを「神の磁力」と呼び、科学者はそれを「バイオ コズミック パワー」または「スーパー パワー」と呼んでいます。ですから、ヴェーダーンタの支持者も科学者も、同じ神の力をさまざまな名前や形で経験しているということです。
遍在する神性の体験
目に見える、このはかない世界には、人間の知らない多くの神秘的な力が存在します。それらは超越的な力や隠れた力と呼ばれています。誰もがそれらを理解できるわけではありません。どの創造物にも神の力が備わっています。だからこそ、私はいつも皆さんに「ディヴィヤートマ スワループラーラ」(神なる真我の化身たちよ)と呼びかけているのです。
医者たちは人体の秘密や神秘を理解できていません。例えば、舌を見てみましょう。舌には4万個の味蕾(みらい)があります。熱を発する舌の蕾(らい)は2万5千個あります。眼球は1インチ〔約2.5cm〕にも満たない大きさですが、1万3千種類の光線を認識することができます。あなたの体には無数の細胞がありますが、細胞の一つひとつは神であり、各細胞にあなたの姿全体が入っています。畏敬の念を覚えませんか? これは誰の創造物でしょうか? これこそが神性の超越的な力です。
神性が存在しないと考えるのは愚かなことです。この超越的な力を理解できない人は、神の存在を否定します。実際には知らないのに知っているふりをしてはいけません。神の存在を否定する権利は誰にもありません。「ムンデー ムンデー マティル ビンナハ」(考えは人それぞれ)です。どの人にも自分の信念があります。
「No」と言う人への返答は「No」
「Yes」と言う人への返答は「Yes」
「No」と「Yes」はあなたに付随する
しかし、サイはいつでも
「Yes」、「Yes」、「Yes」
(テルグ語の詩)
すべての力は人間の中に潜んでいる
人は形のないものの存在を否定する傾向にあります。目に見えないからといって、ラジオの電波が存在していないわけではありません。デリーのラジオ局から放送される番組は、ラジオをその局の周波数に合わせれば、どこでも聞くことができます。人の体はラジオに例えられます。神を体験するには、形なき神に周波数を合わせる必要があります。人の体はコンピュータでもあり、そこにはとても多くの秘密が潜んでいます。心(マインド)はテレビのようなものであり、たくさんの名前や姿形がそこに映し出されます。体は発電機でもあります。これら一切の要点は、すべての力は人間の中に潜在しているということです。
アインシュタインは、物質はエネルギーに、エネルギーは物質に変換できることを示しました。エネルギーはすべてを包含しているのです。ニュートンは、エネルギーは創造も破壊もできないと言いました。しかし、エネルギーは一つの形から別の形へと変換することができます。哲人たちはこれをさまざまな方法で説明しました。
神には誕生も死もない
神には始まりも終わりもない
神はどこにでも存在する
神は永遠の照覧者
(テルグ語の詩)
現代の科学者たちは、この真実を理解できていません。彼らが知り、理解していることは、全体のほんの一部にすぎません。アウェアネス(気づき)とは何でしょう? それは完全な理解です。完全な理解とは、神性の遍在を知ること、経験することです。
先ほどスピーチをしたヴァージペーイー首相〔バジパイ首相〕は、人々がモークシャ(解脱)を得るためにしている努力について言及しました。モークシャとは何を意味しますか? モーハ クシャヤ(完全なる無執着)がモークシャ(解脱)です。これはどういう意味でしょうか? 空気は容易に空気と混ざり、火は火と、水は水と容易に混ざります。それと同様に、神は光の姿そのものです。あなたが光になりなさい。そうすれば、あなたは普遍なる光と一つになるでしょう。神は無形です。あなたが無形の神に融合するには、体との自己同一視を捨てなければなりません。アートマ〔真我〕の原理に集中しなさい。いつも体に執着していたら、どうやってアートマ、つまり普遍なる原理を悟ることができますか? アートマに集中しなさい。そうして初めて、あなたの良心は普遍意識に融合するのです。この融合は、サーユッジヤ(神との融合)と呼ばれています。
ヒーローはただ一人、それは神
エーカートマ サルヴァブーターンタラートマ
(同一のアートマが万物に宿っている)
一つのものしか存在していませんが、それにさまざまな名前と姿形があるのです。一つのものだけが存在しているのです。「0」(ゼロ)はその前に数字がある場合〔例:10〕に、価値を得ます。世界も生命も太陽も月も空も、すべてはゼロ〔zero/無価値〕です。一なるものだけがヒーロー〔hero/英雄〕であり、それは神です。人間(本来は神である者)は、神を忘れるとゼロになります。
愛の化身たちよ! 神はあなた方と別のものではありません。あなた方は神です。この真実を探究し、理解しなさい。一生を研究や実験に費やしていたら、いつあなたは実践するのですか? 個々人は、名前や姿形や態度は違うかもしれませんが、アートマ〔真我〕は変わることなく内在しています。水は言語によって異なる名前で呼ばれます。テルグ語ではニール、ヒンディー語ではパーニー、タミル語ではタンニー、サンスクリット語ではヴァーリと呼ばれます。名前はさまざまですが、水に変わりはありません。
それと同様に、神にはさまざまな名前と姿形がありますが、アートマの原理は同じままです。アートマはすべての人に共通しており、良心と呼ばれています。良心は意識〔普遍意識〕から生じたものです。有神論者であれ、無神論者であれ、有神論者と称する無神論者であれ、無神論者と称する有神論者であれ、すべての人がこの事実を認めなければなりません。ボーギ(世俗的な快楽の人)であろうと、ローギ(病気の人)であろうと、ヨーギ(平常心の人)であろうと、ヴィイラーギ(離俗の人)であろうと、アヌラーギ(執着の人)であろうと、アートマの原理は誰においても同じです。
体は色の付いた風船に例えられます。風船の大きさや色は違いますが、風船の中の空気は同一です。同じ空気が風船の中にも外にも存在しているのです。風船の中の空気は良心に例えられ、あらゆる所に遍在している空気は意識に例えられます。風船にどんどん空気を吹き込んでいくと、最終的には破裂して、中の空気(良心)は外の空気(意識)と融合します。同様に、あなたの愛を拡大しなさい。そうすれば、体への執着という風船が破裂して、あなたの内なる良心は外の意識と融合します。良心と意識の違いは、質ではなく量でしかありません。
愛の吸引力は神性
引き付ける力は神性です。小さな例を挙げましょう。今日は何万人もの人がここに集まっています。誰かがあなたを招待したのですか? 誰かがあなたに招待状を送ったのですか? 招待状は送られていません。では、どうしてあなたはここに来たのですか? スワミへのあなたの愛が主な原因です。誰も強制的にあなたをここに連れてきたわけではありません。皆さん全員がこのことを知っています。政治的な会合には、人々がトラックで連れてこられます。来ないようにと私が何度も言っているにもかかわらず、あなた方は依然としてここに来ています。愛の吸引力は神性です。それは神の磁石です。
ラーマーヤナにも同じような話があります。ジャナカ王は、娘のシーターと同じようにシヴァ ダヌス(シヴァの弓)を持ち上げることのできた者とシーターを結婚させようと考えました。シーターはブージャーター(母なる大地の娘)であったため、生まれつき磁気の力が備わっていて、シヴァ ダヌスを難なく持ち上げることができたのです。シヴァの弓を持ち上げて弦を張ることができたのは、神の磁石であるラーマだけでした。こうした神聖な磁石は誰の中にも存在しており、違うのは強さの度合いだけです。その強さは愛によってのみ増すことができます。私とあなたは一つであるという一体感を養いなさい。一体感の至福を体験しなさい。神はあなたの中にいます。あなたは神です。あなたがこの真実を認識した時、いかなる種類の疑念の余地もなくなるでしょう。
誤りは、創造物にではなく見方にある
称賛と非難は内にあるものの反映です。高潔な人は決して他人を批判しません。そのような神聖でない行いにふけるのは、卑しい者だけです。あなたが見る色は、あなたがかけているメガネの色によります。愛のメガネをかけなさい。そうすれば、周囲のすべてに愛が見えるでしょう。間違いは、創造物にではなく、あなたの見方にあるのです。批判を重視してはいけません。もし誰かが大声であなたを批判したら、その声は空気の中に消えてしまいます。もし誰かが心の中であなたを批判したら、それはその人自身に戻ってしまいます。その人はあなたの体を批判しているのですか? 体は不活性です。その人はアートマを批判しているのですか? 同じアートマがあなたにもその人の中にも宿っているのですから、その人は自分の自己〔アートマ〕を批判していることになります。この事実に気づいた人は、真の真理の探求者です。
人は自分の中にある何百もの欠点をわかっていないのに、他人の最も些細(ささい)な欠点を指摘する傾向があります。自分の中の悪いところは、他人の中の悪いところとして反映されます。まず自分を正しなさい。そうして初めて、あなたの心は清らかになるのです。ですから、神聖な思考を育みなさい。人間の内には多くの力が存在しています。小さな例をあげてみましょう。私が東アフリカに行った時、偉大な信者であるパテル医師が、鉄製のヘアブラシをプレゼントしてくれたのですが、私が髪をとかすと、髪が自然とヘアブラシに引き寄せられます。それは男子学生たちも目撃しています。今日、私がそのことを公表しているのは、私の内に神聖な磁力が存在することを皆さんに理解してもらうためです。その磁力が、ここにいる皆さんを引き付けたのです。私の愛は、私の最大の財産です。
Love is My form――愛が私の姿
Truth is My breath――真実が私の呼吸
Bliss is My food――至福が私の食事
My life is My message――私の人生が私のメッセージ
Expansion is My life――拡大が私の人生
No reason for love――愛に理由はなく
No season for love――愛に時季はなく
No birth, no death――誕生もなく、死もない
愛は与えることによって生きる
神の力は生まれることも死ぬこともありません。私は褒められても嬉しくありませんし、責められても落ち込みません。私は人生のこうした二元性を平静に扱います。私は苦楽のどちらにおいても幸せです。私の中には愛しかありません。私の愛は、与え、与え、与えることで生きています。愛は決して受け取りません。これが、私の愛と、受け取ることだけを考える世俗の愛との違いです。だからこそ、私の愛はずっと拡大し続けているのです。小さな種が、多くの枝と実をつける巨大な木になります。その木の一切は、小さな種に起源があります。それと同じように、被造物は愛から生まれました。愛は神です。愛の中で生きなさい。愛を育みなさい。すべての人を心から愛しなさい。愛が現れて、初めてあなたは自己実現〔真我顕現〕を達成するのです。
まず、自信を身につけなさい。自己信頼が土台です。自己満足が壁であり、自己犠牲が屋根です。自己実現がその家(人生という大きな館)です。すべては自己に包含されています。自己とは、アートマ、神霊のことです。このアートマの原理を用いて霊的な知識を得なさい。霊性の中にある力は無限です。愛の力は、原子爆弾の力をはるかに上まわっています。愛の力は、憎しみを抱いている人をも変えてしまいます。そのような神聖な愛を育みなさい。そうして初めて、バーラタ人の間に調和が生まれるのです。先ほどスピーチをしたチャバンは、至る所で暴力が横行していると述べました。人々の悪い思考がその原因です。ひとたび愛が芽生えれば、共同体に憎しみはなくなるでしょう。だからこそ、私は学生たちに繰り返し言っているのです。
一日を愛で始めなさい
一日を愛で満たしなさい
一日を愛で過ごしなさい
一日を愛で終えなさい
それが神への道
同じ神の力がさまざまな名前と姿形を持っている
神は、創造、体系化〔維持〕、破壊の原因です。同じ神の力がさまざまな名前と姿形を持っているのです。例えば、アーンドラ プラデーシュ州の首相は一人しかいません。すべての部署は大臣たちが管理しており、大臣たちは首席大臣の直接の監督下にあります。
それと同様に、全世界は3つの基本的な活動である創造、体系化〔維持〕、破壊の上に成り立っています。創造の面はブラフマーが、体系化はヴィシュヌが、破壊はシヴァが司っています。こうした権限の分散は、世界を円滑に機能させるために不可欠です。この3つの力を統合したものがGod、神です。Godという単語はG・O・Dという3つの文字で構成されています。GはGeneration「生成」、OはOrganisation「体系化」、DはDestruction「破壊」を意味します。このブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラの3つの側面が神を構成しているのです。誰も神の存在を否定することはできません。もし誰かが「神はいない」と主張するなら、その人に「あなたには、私の確信に疑問をはさむ権利はありません」と言いなさい。神の存在を否定する人には神は存在しないかもしれませんが、神を信じている人には神は存在します。「God is nowhere――神はどこにもいない」と言う人がいるかもしれません。nowhereのwhereからwの文字を取ってnoにつなげると「God is now here――神は今ここにいる」となります。これらはすべて、言葉の組み立てです。
神の原理を理解しなさい
人は心の狭い感情によって人生を無駄にしています。人は自分と家族のことしか考えていません。これは愛の収縮です。全世界を一つの家族と考えなさい。それが愛の拡大です。さまざまな国は、世界という大きな家のさまざまな部屋のようなものです。それらの部屋に住んでいる人たちすべてを自分の兄弟姉妹と考えなさい。そのような関係を人類同胞と築けば、あなたは誰も憎まなくなるでしょう。
愛の化身たちよ! 神性の原理を理解するよう努めなさい。この世界には、神以外、何一つ存在しません。この世界は物質とエネルギーから成り立っていると言う人がいるかもしれません。実際は、エネルギーだけがあり、物質はありません。あなた方が目にするどんな物質も、時間が経てばエネルギーに変わります。これは布です。布は糸でできています。糸は綿でできています。ですから、綿と糸と布は同一です。それと同様に、名前と姿形はさまざまですが、根本原理はただ一つであり、それは神性です。現代では、善いことをしている人を批判する人はたくさんいますが、善い行いに携わる人はほとんどいません。
学生諸君! 少年少女たちよ! あなた方はバーラタと世界の解放者です。あなた方は未来のリーダーであり弁論者です。リーダーシップの資質を身につけなさい。
ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ
(世界中が幸せでありますように)
ヴァージペーイー〔バジパイ首相〕は、「サルヴァ ブータ ヒテー ラタハ」(すべての生き物の幸福を願う)と言いました。誰もが健康で幸せであるべきです。それが私の本当の誕生日です。多くの人が私に「ハッピー バースデー」(幸せな誕生日でありますように)と願います。その願いを、幸せでない人たちに伝えなさい。私はいつも幸せなのに、私のために願う必要がどこにありますか?
プラフラーダは、父親は息子が社会的に良い評判を得て初めて喜ぶのであって、息子が生まれた日を喜ぶではないと言いました。マーナヴァ〔人間〕とは何者ですか? マーナヴァは、まさしく神の化身です。「マ」は「無知」、「ナ」は「~がない」、「ヴァ」は「自分を律する」を意味します。ですから、「マーナヴァ」とは、「無知をなくして自分を律する者」という意味です。あなた方は気づきが化身した存在です。自分に付いている名前にのっとった行動をしなさい。あなたにティヤーガラージャ〔犠牲の王〕やラーマ〔喜びを与える者〕という名前が付いていたとしても、それだけでは不十分です。それらの理想に沿って生きるべきです。
私たちが口にする食べ物には、神の力が宿っています。どの学生も、バランスのとれた食事をしなさい。オレンジジュース、トマトジュース、ライムジュース、リンゴジュースは、酸が多く含まれているので、とても健康に良いものです。葉野菜は、ビタミンも鉄分も含まれているので、栄養価が高いです。体は健康でなければなりません。健康な体があれば、どんな仕事でも引き受けることができます。
私の誕生日のメッセージ
どこかに神を探しにいく必要はありません。神はあなたの体の隅々に、毛の一本一本に、内在しています。だから、シーターが感謝の印として真珠の首飾りを差し出した時、ハヌマーンは首飾りの真珠を噛んで捨てたのです。それらの真珠にはラーマの御名が鳴り響いていなかったからです。なぜそんなことをしたのかとシーターに問われたハヌマーンは、こう答えました。「あなたは真珠の価値で判断なさいますが、私は主の御名の神聖な響きに耳を傾けます。私にとって、ラーマの御名の伴わない宝石は石ころ同然です。私の体毛にはどれもラーマの御名が染み込んでいます」
このように、神性はバーラタ人のすべての細胞、すべての毛に浸透しています。だからこそ、マックス・ミューラーをはじめとする多くの外国人は、この聖なる地に生まれて死ぬことを望んだのです。ヨーガ〔神との合一の行/自制〕とティヤーガ〔犠牲〕の神聖なこの国に生まれていながら、これらの聖なる価値を支持しないのは残念なことです。真のバーラタ人の人生を送りなさい。他の人々のために身をもって理想を示し、みんなを幸せにしなさい。これが私の誕生日のメッセージです。
今日はこの体の誕生日です。実際には、私に誕生日はありません。皆さんがここに集まったので、私は今日を誕生日として祝っているのです。私には、この誕生日は重要ではありません。あなた方全員が幸せな日が、私の本当の誕生日です。私は何も欲しません。皆さんがプレーマ〔愛〕とティヤーガ〔犠牲〕とヨーガ〔神との合一の行/自制〕を吸収して、それによって神性を経験するとき、私は幸せでしょう。私は、皆さんが平安と安全の中で理想の生活を送ることを願っています。この縁起の良い日に、あなたのハートを高潔な感情で満たし、神の御名を唱えなさい。
1998年11月23日
プラシャーンティ ニラヤムの
サイ クルワント ホールにて
Sathya Sai Speaks Vol.31 C44
決してあきらめない
ババからのお手紙
私の愛する者よ、
瞑想にトライ、心が静まるようトライ、リラックスにトライ。トライし続けなさい。あなたが行う前向きな努力は、どれ一つ無駄にはなりません。レンガを一つ積み上げるたびに、レンガ造りのお寺は完成に近づいていきます。
ですから、トライし続けなさい。すると、ある日、突然、あなたは心の低次の領域を突破して黙想の領域へと入り、「そうだ、分かった、私は理解した、今、自分がいる道が完全に分かった」と言えるようになるでしょう。トライし続けなさい。あなたはどこかで始めなければいけません。あなたが語ることのできない自分、それについて、あなたは、もしあなたがそうしたいと思うなら、ある方法で考えてみることができるでしょう。それは、あなたの心、体、感情を感知して、知ることです。
祝福と共に
ババ
1971年11月12日
Prema Dhaara Part2 No.45
バール・ヴィカス
の生徒たちへ
第一の敵
今日の世界は、恐れ、不安、あらゆる種類の恐怖症に悩まされ、病床でのた打ち回っています。しかし、それを治して健全な状態に戻す治療法がないわけではありません。世界を正すことのできる治療法とは何でしょう? 人間が、自分の高尚な運命、受け継いできた貴重な財産、生まれ持った強さと美徳に気づくことです。そうすれば、今日の病的な状況を引き起こしている、憎しみ、貪欲、猜疑心(さいぎしん)を取り除くことができます。兄弟愛の絆を深めることは、さまざまな実践者が提案している治療法です。しかし、それだけでは十分ではありません。平和と調和は、自分たちは兄弟だと言い合っても確保できるものではありません。私たちは、同じ母親から生まれた兄弟姉妹が互いに争い、互いを信頼し合うことがほとんどないという状況を見ています。彼らは怒りや妬みで心を汚し、人生を惨めなものにしています。子が親を敬う気持ちや、兄弟が協力し合う姿は、今の人類にはほとんど見られません。兄弟で財産の取り合いをし、時間とお金の大半を裁判に費やして、復讐心を燃やしています。
自分の強さや力に対する慢心は、結果として多くの人に傷を負わせることになりかねませんが、その慢心が一番傷つける相手は自分自身です。慢心は、人間に取り憑く(とりつく)悪魔のようなもの(祓うのが難しいもの)です。他者を破滅させ、他者を踏み台にすることを促すそのエゴをサーダナ(魂の鍛錬)によって破壊するまでは、人は自分を人間であると主張することはできません。バガヴァッド・ギーターは、「ニル マモー、ニル アハンカーラハ」(「私のもの」や「私」のない状態)になるべしと、人に説いています。人に内在する神は、「私のもの」や「私」という闇の力が力を失ったときに、初めて現れるのです。
エゴに打ち勝つのは、ほとんど不可能な仕事です。人生のあらゆる瞬間に人間を悩ましている、6つの内なる敵について聞いたことがあるでしょう。しかし、「私」や「私のもの」という感覚は、それよりさらに根深いのです。人間は、情欲、怒り、貪欲、執着、慢心、憎しみという、6つの敵を打ち破ってきました。実際、その勝利を収めた人は大勢います。けれども、自分のエゴを破壊して、エゴの邪悪な衝動から逃れた英雄は、実に稀(まれ)なのです。
エゴは親友を敵に回す
エゴは茨であり、それをハートに植えて育てると、人はその代償を払わなければならなくなります。エゴは、親しい友人を敵に回し、多くの善行や事業を台無しにします。というのも、エゴは二人の人間がいっしょに働くことを許さないからです。悲しみは、影のようにその後に付いてきます。エゴのないところには、喜び、平和、勇気、協力、そして、愛が花開きます。自分を動かしているのと同じ神の意識が、他のすべての人を同じように動かしているということを認識したとき、愛はエゴを後ろへ追いやって、その人の行動と言葉と思考を司るようになります。
エゴが起き上がると知恵は台頭できない
次の出来事を考えてみましょう。ある男が突然息子を亡くし、大きな悲しみに包まれました。そこで、隣人が男のもとへ行き、あれやこれやと論じたり、逸話を聞かせたりして慰めようとしました。「親しき友よ! なぜ人は生まれるのか? なぜ人は死ぬのか? 人が生まれる理由は、人が死ぬ理由でもある。誕生は死を意味する。運命は私たちと奇妙なゲームをしているのだ。私たちは人形劇の人形にすぎない。人が死んで悲しむことに何の意味がある?」。隣人は、自分が知っているすべてのヴェーダーンタ(無執着の哲学)を遺族の耳に注ぎ込みました。けれども、遺族の悲しみは、自分でその真実に気づくまで、変わらずに続きます。
数ヵ月後、その隣人が息子を亡くしました。今度は数ヵ月前にヴェーダーンタの一切を聞き入れた男が隣人のもとにやって来て、自分がされたのと同じ質問を何度も繰り返しました。男は言いました。「人は自分のカルマ(運命付けられている行為とその結果)が残っているかぎり生き続けるものであり、償わなければならないカルマがなくなると生は短くなる。この一切は、古い借金を返済するためなのだ」。しかし、このようなことを言っても、悲しむ隣人を慰めることはできません。というのも、息子を失った当事者は隣人だからです。エゴが起き上がると知恵は台頭できません。「自分の息子」という気持ちが、当事者の悲しみと、そうでない人が平気でいられる、根本的な理由です。
私たちは、自分たちのために家を建て、それが「自分たちのもの」であることを喜びます。家の壁に映画のポスターを貼られると、「自分たちの家」が汚されたと感じ、裁判までしてその犯人を懲らしめます。選挙の時期になると、人目につく不快なスローガンで壁の外観が損なわれ、「自分たちの」壁を汚したとして、あらゆる人と口論になります。しばらくすると、「自分たちの家」を誰かに売って、引っ越していきます。それ以降は、たとえその家に爆弾が落とされても、少しも胸を痛めません。長い間胸が痛んだのは、すべてエゴによるものだったのです。こうしたエゴは、どうやって入り込んでくるのでしょうか? それは、私たちの中に芽生え、私たちによって育てられ、私たちを根こそぎ破壊してしまう雑草なのでしょうか? そうしたエゴは、初めはどこにあったのでしょうか? 私たちが生まれる前はどこにあったのでしょうか? 私たちは死んだ後は、どこにあるのでしょうか?
私たちの考えや推測はすべて、生まれてから死ぬまでの間の産物にすぎません。自分と結婚した女性が子供のころに重い病気にかかったときには、その女性は「自分のもの」にはなっていなかったので、心配することはありませんでした。私たちは、この種の執着を、人生の結合と安定をもたらす要素として育んでいます。ところが、私たちはこの執着を、魂の進歩の妨げとなるほど大きくしてしまうのです。迷妄ではなく、愛を育みなさい。自分の妻や子供を愛し、夫として、父親としての義務を果たしなさい。しかし、常に真の価値を持ち続けていなさい。平衡感覚を失くしてはなりません。
すべての縁戚関係は基本的に身体上のものでしかない
例をあげましょう。細くて背の高い椰子の木が風で揺れています。その下の砂地に長い影ができていて、その影も揺れています。神は実物であり、この世はその影です。あなたは椰子の実が欲しいと思いましたが、影を木と勘違いして、細くて暗い影の線に沿って歩いていって、椰子の実の影をつかみました。これがあなたの迷妄です。そうではなく、実物の木に登りなさい。そうすれば、椰子の実は手に入ります。そうしている時、あなたの影も、暗い影の線に沿って歩いて、椰子の実をもいでいるように見えます。ですから、愛の道、神の道を進んでいけば、あなたは両方の世界を手に入れることができるのです。愛はあなたのハートをとても大きく広げるので、あなたは親類縁者に対する自分の義務から逃げだすことはできなくなるでしょう。〔しかし、〕妻、息子、母――すべての縁戚関係は、基本的に身体上のもの、体に縛られたもの、時間制限のあるものであるということを、常に忘れずにいなさい。
エゴは、次から次へと欲求や願望の波をあなたの目の前に寄せ、それを手に入れるようにとあなたを誘惑します。それは決して終わりのない輪です。ですから、あなたのエゴの輪から解放されるために、欲求を減らし、愛の範囲を広げるよう努めなさい。生きることは、多くの対立、交際や別離、闘争や無視を伴うものです。私たちは、二種類の接触――ヴィヨーガ(不快な分離)とサムヨーガ(快い結合)の両方を手放す必要があります。神に執着すれば、この世の迷妄は自動的に消え去ります。ヒランニャークシャ、ヒランニャカシプ、カムサ、ラーヴァナ、その他の者たちの場合を考えてごらんなさい。彼らは、幸せで平安でいるための富と力のすべてを持っていました。しかし、彼らは自分のエゴに支配され、ついには破滅に至りました。
僧侶にはエゴの詰まった慢心があってはならない
エゴは、賢者、学者、教師、敬虔な求道者を、普通の人以上に攻撃します。彼らのエゴは、彼らに、自分は議論で誰にでも勝てる、自分は一番学識がある、自分は最も神に近い存在だ、と断言させます。エゴが入り込むと、その後をすぐに妬みが追いかけてきて、ハートを占領してしまいます。
宗教団体を傘下に持つグルの中には、あなたが今年のダシャラー祭にプッタパルティに行くと言うと、あなたを笑う者もいます。彼らは、「ということは、あなたもサイババ狂の犠牲者になったのか?」と、あなたをからかいます。それとは反対に、彼らは、「それはよかった! 心の安らぎを得ることができる場所、アーナンダ(神聖な至福)を得ることができる場所、神性を自覚することができる場所には、喜んで行くべきだ。あなたがそのような場所を得たことを、私は嬉しく思う。神は一つであり遍在なのだから」と言って、喜ぶべきでしょう。
黄土色の袈裟(けさ)〔捨離の印〕を着ている僧侶には、エゴの詰まった慢心や妬みがあってはなりません。私は常々、神はどこにでも、誰の中にもいます、すべての名と姿は神のものです、と語っています。私はあなた方に、あなたが静かにサーダナを行える場所、神性の雰囲気を感じられる場所、愛を受けとれる場所、奉仕を通して愛を育める場所に行くよう、指示します。
アルジュナが巨大なカーンダヴァの森を灰にしたときには、エゴが頭をもたげることはありませんでした。しかし、カウラヴァ軍の前に立ったとき、エゴはアルジュナに逃げろと言いました。アルジュナはその戦いのために膨大な準備をし、長年にわたる苦行と冒険の末に特別な武器を集めていました。クリシュナは、自分がカウラヴァ軍との調停に入り、カウラヴァ軍がパーンダヴァ軍の嘆願を聞いてくれれば、戦争を回避することができる、と申し出ました。アルジュナはクリシュナに異議を唱え、それは失敗するに違いないと言いました。「ジャスミンの花は、火に投げ入れられても香りを放つことができるでしょうか? なぜ、聞く耳を持たない彼らにあなたの優しい説得の言葉を語って言葉を無駄にするのですか? 命を奪う猛毒から命を支える甘露を得ることができるでしょうか? あなたは彼らの中に入っていくことで嬉しいかもしれません。しかし、私は戦いに賛成です。今この瞬間も」
それほど勇敢で好戦的だったアルジュナが、突然、エゴの迷妄に襲われたのです。アルジュナは言いました。「私には、墓地を統治したいという願望はありません。自分の親族を殺すくらいなら、物乞いをして暮らすほうがましです」。するとクリシュナは、ギーターの中でアルジュナにこう言いました。「ニルマモー ニルアハンカーラハ プラシャーンティム アドヒガッチャティ」――『私』や『私のもの』のない状態、つまり、これは『私』である、これは『私』ではない、これは『私のもの』ではない、といった性癖をなくした者だけが、プラシャーンティ(より高次の平安)に到達できるのだ」と。
サティヤ サイババ述
プラシャーンティ ニラヤムにて
1978年10月11日
Sathya Sai Speaks Vol.14. Ch12
バール・ヴィカスの生徒たちへ
ブリンダーヴァンにて
愛しい子供たちよ
私の愛と祝福を受け取りなさい。あなた方の兄弟、姉妹、両親、先生方への祝福も。あなた方のクラスは「バール・ヴィカス」〔子供の開花〕という名前が付けられています。「ヴィカス」の意味は、咲く、花が咲く、というものです。花は私たちを喜ばせてくれます。なぜなら、花は美しく、よい香りがして、活きいきとしているからです。子供はみんな、それぞれがサイの庭の花です。子供の柔らかさ、無邪気さ、純真さは、人を子供に引きつけます。子供はたいへん愛に満ちているので、そのお返しに、誰もが子供を愛します。子供は利己的ではありません。子供は他の子供たちと自由に遊びます。子供はいつも本当のことを話します。子供は自分の好きなものを遊び友だちと分かち合います。その分かち合いは子供に大きな喜びを与え、他の人たちにも喜びを添えます。子供たちよ! これらの価値を育てなさい。それから、自分ができるときには、いつでも他の子供を助けなさい。そして、両親が助けを必要としているときには、両親を助けなさい。両親を幸せにしなさい。両親があなたとあなたの善良さを誇りに思うような子供になりなさい。あなた方のグル〔導師〕である先生方の教えをよく学び、先生方があなた方に守るようにと助言する「すべきこと」と「してはいけないこと」を守るよう努めなさい。
あなた方は今、長い人生という旅の第一段階にいます。あなた方の前にはたくさんの大きなタスク〔課業〕があります。あなた方には、母国を幸せで豊かな国にするために果たすべき、たくさんの義務があります。今の少年少女たちは、未来のお医者さん、エンジニア、役人、農夫、商人です。この広大な国を発展させ、守り、何万という家庭に喜びをもたらしなさい。インドと世界には、莫大な物質的資源がありますが、それらの資源を人のために使うことができるよう、あなた方のハートと手は、Will〔意志〕とSkill〔技能〕を提供しなければなりません。自分の準備を整えて、その役目に備えなさい。あなた方が、人々に仕える、強くて、勇敢で、私心のない召し使いへと成長するよう、私はあなた方を祝福します。サイはいつもあなた方と共にいます。サイは子供たちをとても愛しています。なぜなら、子供たちは、規律を守り、献身的で、いつも喜んで自分の義務を行うからです。
愛と祝福を込めて
ババ
Prema Dhaara II No.32
創造の神秘
この世の鳥や獣は
教育を受けていないにもかかわらず
節度ある生活を送っている
人間は知能に恵まれているのに
なぜそのような感覚に欠けているか?
神の愛の化身たちよ! 現代人は、鳥のように空を飛び、魚のように海を泳ぐ方法を身につけました。しかし、地上で人としてどう生きるべきかは、身につけていません。科学は空を飛ぶことや海を泳ぐことを人間に教えることができます。しかし、人は地上で人としてどう生きるべきかを教えることができるのは宗教だけであり、科学にはそれはできません。ですから、もし科学が人間の全面的な発達を促そうとするならば、宗教の助けを借りなければなりません。宗教とは、いくつかの教義に盲従することではありません。宗教は、人が識別力と神聖な価値に基づいて人としての生の最終目標に到達することを、助けるものです。
すべての宗教〔伝統宗教〕は、
善いことだけを教えている
それらを正しく理解して、人生を律するべし
自分の心が善良であれば
宗教の中に悪を見つけることができようか?
ですから、どの宗教も決して悪いものではありません。だからこそ、偉大な科学者アインシュタインは、科学なき宗教は不具であり、宗教なき科学は盲目であると公言し、人類の必要に応えるためには、科学と宗教の分別ある結合が必要である、ということを強調したのです。
すべての宗教は人間的価値を強調している
宗教は、統合的な人格の発達を促進する上で、非常に大きな助けとなるものです。宗教は、多様性の中の単一性を強調しています。真の宗教は、すべての宗教の調和と単一性を説いています。すべての宗教の本質と目的は、マインドとハートの清らかさを達成することです。どの宗教も独自の戒律と原則を持っています。しかし、憎むことや非真や不義を教えている宗教はありません。「真実を語りなさい」、「正義を実践しなさい」――ウパニシャッドはそう指示しています。同様の聖なる指示は他のどの宗教にも見られます。
このように、すべての宗教は人間的価値を強調し、人類の適切な進歩と発展のための道標として役立っています。それらはすべて、人に内在する神性の顕現を促進するものです。ところが、現代人、特に若者は、古くからの文化や神聖な価値を忘れ、現代の科学技術に誘惑されて、神に別れを告げています。
しかし、時が経つにつれ、科学者自身も、宇宙は何らかの神聖な力に導かれている、支配されている、という見解に傾いてきました。宇宙に存在する無数の星や惑星は、とてつもないスピードで回転しています。もし、その軌道や速度から少しでも外れたら、宇宙の大惨事となるでしょう。いったい誰がその速度や軌道を守るよう命じたのでしょうか?
科学者と創造主の違い
現代の科学者は人工衛星を作り、それらは地球の周りを回っています。しかし、それらの衛星は数日か数ヶ月で墜落したり炎上したりしています。一方、神の創造物である惑星は、太古の昔から規則正しく周回し、墜落したり炎上したりすることもありません。光は、秒速18万6千キロマイルで進みます。これだけのスピードがあっても、光が太陽や星団や星座の周りを回るには何年もかかります。天の川には私たちの知らない星が無数にあります。その中には、誕生から長い年月を経ているにもかかわらず、まだその光が地球に届いていない星もあります。科学者でさえ、創造物のこういった側面を完全に理解することにおいては、沈滞しています。創造の神秘のほんの一部を発見しただけで誇らしげに慢心を膨らませる科学者と、何の誇示も慢心もなく、平安に、静かに、忍耐強く、愛情深く全宇宙を動かしている創造主(神)の違いは、どれほどのものでしょう!
これだけではありません。創造物すなわち自然界が機能するための方法は、言葉では表せないほど驚くべきものです。例えば、人間が吐き出した二酸化炭素は植物に取り込まれ、植物が放出した酸素は人間に吸い込まれます。自然界におけるこうした互恵的な取り決めは、誰が作ったのでしょうか? プランダラダーサといった詩聖たちは、全能の主への賛美を次のように歌っています。
山の岩の隙間に生える小さな灌木(かんぼく)や、巨大な樹木に水をやり、
手入れをし、育ててきたのは誰か?
美しい孔雀(くじゃく)の体や尻尾を、
これほどまでに魅力的な色で描いたのは誰か?
緑の体と赤いくちばしという、
オウムのすばらしい配色をデザインしたのは誰か?
科学者は、こうしたことの一切を「自然の法則」だと言い抜けるかもしれません。しかし、科学者は、自然を超越することや、自然界に存在する物質なしで済ますことが、できるでしょうか?
科学者たちの「創造」と言われているもの
科学者が自分たちの「創造」であると主張しているものは、自然界に存在する基本的な物質の組み合わせから得られたものにすぎません。例えば、科学者は水素と酸素を組み合わせて水を作り出します。ですが、では、どこの科学者が水素と酸素を生成あるいは創造したのでしょうか? これらの元素は太陽の光によって生成されます。同様に、科学者が作り出すものはすべて、自然界にすでに存在している物質の順列と組み合わせに基づいているのみです。この事実は、ほとんどの科学者が都合よく無視しています。自然のミステリーや神秘に思いを馳せるとき、愚か者でさえ、それらのすばらしい現象の背後にある、神聖な力の存在を認めざるを得ないでしょう。
別の例で考えてみましょう。世界には50億8千万人近くの人類がいます。しかし、これほど莫大な数の人口の中で、二人が全く同じ顔の人はいない、というのは驚くべきことです。神以外、どのクリエーターがこれほど超絶な業をなせるでしょうか! 現代のクリエーターが製作する品物は、同じ型で作られるため、どれも同じです。なんという違いでしょう! ですから、学生諸君は、創造の神秘を理解するよう努めるべきです。
自然界のバランスを崩す科学者たち
私たちには、被造物を軽く見て、被造物は知覚を有しない自然にすぎない、と考える傾向があります。そのため、それこそが自然を制御し、自然のさまざまな構成要素の間に適切なバランスを与えているものである、知覚を有する原理を無視しているのです。科学者や科学技術者たちは、利己的な興味や名声を追い求め、社会と国家の安全と幸福にはまったく注意を払わず、自然のバランスを崩して、社会全般に災害や損害や苦痛を招いています。例えば、海水には地球で必要とされる10年分以上の空気が含まれています。空の一回の雷は全世界で必要とされる電力のゆうに20年分を放出します。
巨大なダムを建設して大量の水を一ヶ所に貯めることで、その土地の地盤が沈下し、その結果、シーソーのように別の土地の地盤が上昇します。科学者や科学技術者による、鉱物、雲母、石炭、石油、その他のオイルを掘り出すための、さまざまな種類の鉱山など、天然資源を無差別に開発することは、五大元素のバランスを崩し、汚染をもたらし、地震や噴火といった大災害を引き起こします。
産業、工場、自動車などの急激で過剰な増加は、大気汚染と共に、好酸球増多症、喘息、難聴、肺炎、腸チフスなどの増加の原因となっています。しかしながら、科学それ自体は悪くありません。必要なのは、人間が思慮分別を持って科学を正しく使うことです。
学生は神の存在を信じていなければいけない
現代の学生たちは、科学者の言うことを盲信し、疑うことなく信じています。その一方で、どんなにやかましく言われても、神への信心を持ちません。親愛なる学生諸君! 第一に、神の存在を信じることです。その単純な理由の一つに、あらゆる言語の辞書には、他のさまざまな単語に混じって「神」という単語が入っている、ということがあげられます。どんな辞書にも、鳥や獣といった生き物や、無生物など、この世に存在するものを指す単語しか載っていません。この世に存在しないものは、辞書には載っていません。「神」という単語がすべての辞書に載っているという事実は、神の存在を証明するのに十分です。たとえあなたが辞書に載っているもののいくつかを見たことや体験したことがなくても、それを見たり体験したりした人たちは他にいます。
ですから、辞書に記載されているものの存在を、あなたの限られた経験に基づいて否定することはできません。あなたが神を体験していなくても、神を体験した人がいるからこそ、「神」という単語が辞書に載っているのです。「空花(空華:くうげ)」(sky-flower)、「兎角(とかく)」(rabbit-horn)など、この世に存在しないものを指す単語もある、と主張する人もいるかもしれません。しかし、それらは単語ではなく別の2つの単語を組み合わせた複合語である、ということを分からなければいけません。「空」と「花」という単語は、それぞれ存在するものを指しています。同様に「兎(うさぎ)」も「角(つの)」も存在します。しかし、「空花」「兎角」という人工的な造語に当てはまるものは、この世には存在しません。
神の創造物の神秘
ある科学者が、霊性用語で使われているパラマ・ハムサ(至高の白鳥)という単語の意味を知りたがりました。その科学者は、白鳥がミルクの混じった水にくちばしを浸してミルクと水を分けるように、パラマ・ハムサは適切な探究とその結果としての知恵によって、アートマ(真我)とアナートマ(真我でないもの)を分けるのだ、と言われました。科学者が逆に、白鳥にミルクと水を分ける能力を与えたのは誰か、と問われると、科学者は、白鳥のくちばしから分泌される酸がミルクの混じった水に触れると、酸がミルクを硬化させ、ミルクと水を分離させるのだ、と答えました。しかし、であれば、その酸を白鳥のくちばしに入れたのは誰か、という疑問が生じてきます。どこかの科学者が入れたのでしょうか? いいえ、そのようなことをするのは神だけです。これは、まさしく、神の創造物の神秘です!
今から50年ほど前、科学者たちは「原子エネルギーに勝るものはない」と考えていました。もしこれ以上、原子力の核分裂を進めたら、大惨事になると恐れていました。しかし、この50年の研究と実験の後、科学者たちは、原子力よりも大きな力があることを発見することが可能になりました。同様に、今は神の体験がない人も、例えば、10年後には体験するかもしれません。神性はすべてに浸透しています。このことを固く信じることです。神への信心がなければ、人としての生は無駄になってしまいます。物理科学と共に、少なくともスピリチュアル・サイエンス〔精神科学/霊性の科学〕をある程度は理解するよう努めるべきです。
不必要な疑念に余地を与えない
最近の学生は、不必要な疑念に余地を与えるようになりました。ある青年が私のところにやって来て言いました。
「スワミ! シャンカラは、ブラフマンは実在で、世界は幻である、と断言しました。ですが、実在すると言われるブラフマンは、どこにも見えません。一方、私たちは、日常生活の中で、幻の世界と言われるものを、利益と損失、喜びと悲しみの一切と共に、それも1年や2年どころか、何年もはっきりと体験しています。それなのに、どうしてこの世は幻想だと信じられますか?」
それに対して、私はこう答えました。
「私のいとしい青年よ! そのような疑問について考えて、時間を無駄にしてはいけない。なぜ、ブラフマンやこの世の実在性や非実在性について気をもむのですか? その疑問はそれら(ブラフマンとこの世)に任せておけばよいのです。まずは、自分自身の真実を見いだすことです。あなたは、自分は実在すると思っているかもしれません。けれども、実在すると見なされるのは、過去・現在・未来という3つの時間すべてにおいて、どんな変化もしないものだけです。この基準に照らし合わせると、あなたの体は、刻々と変化し、また、いつでもすっかり消滅してしまう可能性もあるのですから、幻であると見なされます。同じことが、この世の他のものについても言えるのです」
現代の若者は、自分は何も変わらないと主張して、自分の体は、生まれた時、幼少期、青年期、成人期、老年期、死ぬ時と、刻々と姿が変わっていくことを免れない、という事実を忘れています。このように、この世のすべてのものは刻々と変化しており、それこそが、この世は幻であるとされる理由なのです。シャンカラは、この世はまったくの非実在である、とは言っていません。シャンカラがこの世は幻だと言ったのは、この世には実在と非実在が混在し、ある時は現れ、ある時は消えるからです。しかし、学生諸君は、幻の世界の根底には実在の基層がある、ということを理解すべきです。これは、今、私のテーブルの上にある銀のお皿で説明することができます。このお皿は、明日にはコップに、あさってにはスプーンに変えることができます。けれども、そういった変化する名前や形態の中に潜んでいる物質は、変化することのない銀であり続けます。それでも、銀とカップ(あるいはお皿)は分離できません。それと同じように、ブラフマンという不変なる実在が、常に変化している幻の世界の根底にある基層なのです。
「疑う者は滅びる」
現代の学生は、いくつもの疑念の犠牲になっています。なぜなら、学生のレベルまで降りてきて物事を明確に説明することのできる有能な教師が少ないからです。この講堂の後ろの壁に掲げられているスローガン、「サムシャヤートマ ヴィナーシャティ」(疑う者は滅びる)と「シャラダーヴァーン ラバテー グニャーナム」(信じる者は英知を得る)の意味を、学生たちに理解させましょう。悟りには、ニシサムシャヤム(疑いからの解放)とシュラッダー(信心/シラッダー)の両方が必要であり、それはちょうど、光が現れるにはプラスとマイナスの電流が必要なのと同じです。したがって、一方には疑念からの解放、もう一方には信心が必要であり、それらが2つの土手を形成し、それらに沿って、あなたの人生という川が流れていくべきなのです。そうすれば、最終的にその川を神の恩寵という海に合流させることができるでしょう。
女性聖者ミーラーは言いました。
「あらゆる苦難を乗り越えて、私は世俗の生活という海の深くに潜り、ついにクリシュナの御名の中にある貴重な真珠を手に入れました。もしもこの真珠を失ったなら、二度と手に入れることはできないかもしれません。ですから、おお主よ! あなたは私の唯一の避難所なのです」
あなた方学生も、このような黄金の機会(夏期講習)は二度と得ることができないかもしれません。ですから、今、あなたの手に届く、貴重な考えといういくつかの真珠を、注意深く保管すべきなのです。そうすれば、それらは生涯を通じてあなたの役に立つことができるでしょう。
サティヤ サイ ババ述
1992年5月26日
ブリンダーヴァンの大学講堂にて
Sathya Sai Speaks Vol.25 Ch18
最終目標に意を定めなさい
私の親しき愛する者よ、
あなたと、あなたの友であるすべてのサーダカを祝福します。しっかりとした信仰心を持って、霊性修行を続けていきなさい。急いだり、あまりに早い結果を期待したりしてはなりません。ゆっくり熟すことで、果物は甘くなるのです。
あなたは主の手の中にある道具であるということを覚えていなさい。しかし、あなたはジャダすなわち自動力のないものではありません。あなたには、知能、識別力、そして、この世に対する自分の執着を解く力があります。この三つは、ヴィヴェーカ、ヴィチャクシャナ、ヴァイラーギャムと呼ばれています。これらを伸ばせば伸ばすほど、あなたは良い道具になります。知能は、感官を服従させることができなければいけません。識別力は、永遠と完全に至る道を示さなければいけません。ヴァイラーギャムは、あなたをより高い目標だけに執心させなければいけません。
道を歩いていると、道の出っ張りにも、くぼみにも、その人の影ができます。道端に茨やゴミがあろうが、影が何に遭遇しようが、その人は気にしません。あなたは本体であって、影ではありません。あなたは体の中に入れられている神の火花であって、体ではありません。
地面に椰子の木が生えているとします。椰子の木の影は、地面の前方に伸びています。影はこの世であり、椰子の木は実在です。椰子の木に登って、てっぺんの椰子の実に手を伸ばしなさい。そのとき、あなたの影も椰子の実の影に手を伸ばします。これはつまり、サーダナをして目標に到達しなさい、そうすることによって、あなたはこの世の幸せと平安にも到達する、ということです。
もし誰かに奉仕するため、助けるため、慰めるため、励ますために手を動かすなら、それは神のために手を動かしているのです。なぜなら、どの人の中にも神がいるからです。体は個人の魂の寺院であり、世界は全宇宙の魂の寺院です。あなたの才能のすべてを、他の人々に奉仕するために使いなさい。それはあなた自身に奉仕する一番の方法です。というのも、人々とあなたは一つのものだからです。
あなたのあらゆる切望が実を結ぶ時が、急速に近づいています。私はどの特定の場所にも属していません。私は全世界のために来ました。すべての人は私のものです。どこに建っていても、病院には私の祝福があります。
本に英語以外の言葉の意味と写真を添えて送ります。
祝福と共に
シュリ・サティヤ・サイ・ババ
プラシャーンティ・ニラヤム
1965年8月11日
Prema Dhaara Part2 pp102-103
アヴァターはなぜやって来るのか
デーホー デーヴァーラヤハ プロークトー
ジーヴォー デーヴァハ サナータナハ
――永遠なる至高者は新たなジーヴァとして
生まれて人体という神殿に宿る
そのために、アヴァター(神の化身)はすべて、人の姿をまとうのです。聖典は、神は信愛に服従する、と明言しています。
ギーターの中で、主は人においては識別力すなわちブッディ(知性)である、と明言しています。人は、あらゆる形態の富を手に入れることで偉大さを得ることはできません。人を尊敬に値するものにさせているのは、知性の存在です。その識別力を発揮しない者は、鳥や獣にも劣ります。
神がアヴァターとなって降臨するのは、人間をより高いレベルに引き上げるためです。アヴァターとは、降りることを意味します。大切に世話をするために身をかがめて子供を抱き上げるため、そして、つまらないものを欲したり追求したりすることにとらわれている人間を引き上げるために、神は人間のレベルまで降りてきて、どうすれば人が自らを神格化できるかを教えます。これはギーターが説いていることです。聖書やコーラン、その他、どの偉大な聖典も、すべて同じ目的のためにもたらされました。聖典それ自体が人間を救済することはできません。聖典は道標としての役割を果たすのみです。聖典は神を悟るために進むべき道を示しています。
巡礼は罪をぬぐい去るものではない
すべてのアヴァターはプールナ・アヴァターであり、神のすべての属性を持っています。しかし、シャーストラ(天啓経典)は、クリシュナ・アヴァターだけが16の側面すべてを備えた完全な化身であるとしてきました。全能であるにもかかわらず、クリシュナは信者にとって容易に近づくことのできる存在でした。クリシュナは信者に服従しました。私たちが信愛に満たされているとき、主はいつでも私たちの下僕として仕えることができるのです。信者を守るため、あるいは助けるためには、主はどんな困難や試練にも身をまかす用意があります。多くの信者が、クリシュナを讃える歌を歌って、自分はクリシュナが降臨した時代に生まれてクリシュナの神聖な音楽を楽しむこと、クリシュナの神聖な御業を目にすることができなかったと嘆いています。つまらない欲を捨てて神への信愛から生じる至福を求めることのできない、鈍い、不信心な者たちを批判している信者もいます。
多くの信者がベナレスやプラヤーグといった聖地を巡礼するのは、そうすれば罪を免れることができるだろうという望みがあるからです。巡礼は罪を帳消しにする手段ではありません。必要なのは、ハートと心(マインド)の浄化です。もしサーダナ(霊性修行)によってマインドが浄化されれば、神性は自ずと姿を現すでしょう。
聖女ミーラーは、これと同じメッセージを、心にガンジスとヤムナーに行くよう呼びかけるバジャンを歌って伝えました。ここでのガンジスとヤムナーというのは、北インドの川のことではなく、私たち一人ひとりの吸う息と吐く息、つまり、イダーとピンガラというナーディ〔霊管〕のことです。眉間がガンジス川とヤムナー川の合流点であるプラヤーグであり、そこに集中することでクリシュナを発見することができるのです。そこをミーラーは、涼やかで、清らかで、平穏な場所であると表現しています。息を吸うことと吐くことは、人が取り込むべきものと拒むべきものを象徴しており、息を止めること(クンバカ)は、人が持ち続けるべきもの、つまり神を意味しています。人は、清らかなものを取り込み、清らかでないものを拒絶すべきなのです。
主は帰依者の切望に応える
ギーターは3つの指示を述べています。それは、困難を恐れない、神を忘れない、偽物を崇めない、です。この3つを守ることによって、昔から数え切れないほどの信者が、サーダナを通じて神を悟ろうとしてきました。
バーガヴァタは、主は信者の切望にいかに応えるか、そして、主との別離によって引き起こされる苦悩をいかに解消するかを示しています。クリシュナがマトゥラーの都に向かった時、ゴーピー(牧女)たちは、別離に耐えられず、悲しみに暮れていました。ゴーピーたちは、いつクリシュナは戻ってくるのかと、ずっとマトゥラーの方を見ていました。ある日、ゴーピーたちは、土煙が上がっているのを見つけ、ついにクリシュナが折れてゴークラムに戻ってくるのだと思いました。そこには一台の馬車と、その中に座っている一人の男が見えました。馬車は止まりましたが、そこにクリシュナの姿はありませんでした。ゴーピーたちは、至高の神にハートを明け渡していたので、その見知らぬ訪問者を見ようともしませんでしたが、その男はクリシュナのとても大切な友人、ウッダヴァその人でした。牧女たちの苦悩を察したクリシュナが、牧女たちを慰め、元気づけようと、ウッダヴァを遣わしたのです。
ウッダヴァは、馬車から降りたそばから牧女たちに長い説教を始めました。
「ああ、牧女たちよ! あなた方はシャーストラを知らないのだ。あなた方には知恵がない。あなた方は、愚かで鈍い人々のようにクリシュナに恋い焦がれている。もしシャーストラを知れば、クリシュナは常に自分と共にあることに気づくでしょう。クリシュナはあなた方のハートの中に住んでいるのです。クリシュナが自分の中に住んでいることを喜ぶ代わりに、あなた方は生身のクリシュナを恋しがっています。それは無知によるものです。クリシュナが私を遣わした目的であるヨーガの科学を、私があなた方にお教えしましょう」
ウッダヴァとゴーピー
牧女たちは、見知らぬ人に直接話しかけるのは適切ではないと考えました。そこで、ウッダヴァに返事をするのに、蜂に話しかけるという方法をとりました。ゴーピーたちは言いました。
「ああ、蜜蜂よ! その言葉(ウッダヴァの言葉)は、クリシュナとの別離のゆえに私たちの中で燃えている火に油を注ぐようなものです。そのような言葉はもうたくさんです」
するとウッダヴァは、クリシュナが牧女によこした手紙を差し出して言いました。
「これはクリシュナからあなた方へのメッセージです。せめてそれを読みなさい」
あるゴーピーがすぐにこう言いました。
「ああ、蜜蜂よ! 私たちは文盲の村人です。私たちは悲しみに打ちひしがれています。私たちにクリシュナを見せてください」
もう一人のゴーピーは泣き叫びました。
「クリシュナがいないことで、私たちは苦悩の炎に焼かれています。もし私たちがその手紙に触ったら、手紙は灰になってしまうかもしれません。私たちは触りません」
さらに別のゴーピーは言いました。
「私たちの目から流れ落ちる涙が、クリシュナお手紙の真珠のような文字を汚してしまうでしょう。私たちはクリシュナのメッセージを見ていられないでしょう」
するとウッダヴァは言いました。
「少なくとも、私のメッセージには耳を傾けなさい。私はあなた方にヨーガの知識をお教えします」
ある牧女が、悲しみを抑えきれずに、蜜蜂に向けてこう答えました。
「ああ、蜜蜂よ、私たちには心は1つしかありません。そして、それはクリシュナと共にマトゥラーに行ってしまいました。もし私たちに4つの心があれば、1つはヨーガに、もう1つは他のことにといった具合に、使い分けることができたでしょう。ですが、私たちが持っていたただ1つの心は、クリシュナに託してしまいました。もはやどんなヨーガの教えも受ける余裕はありません」
ウッダヴァは、クリシュナへのゴーピーたちの一途(いちず)な信愛に気づき、茫然(ぼうぜん)となりました。
すべてのヴェーダとシャーストラの真髄は、一途であることです。一途であることが、神への一意専心の信愛をもたらすのです。自分はゴーピーたちが示したような一途な信愛を培ってこなかった、とウッダヴァは心の中で反省し、クリシュナのもとへ帰ることに決めました。
ラーディカーがクリシュナに伝えた悲痛なメッセージ
ゴーピーたちの中でクリシュナ神の最高の帰依者は、ラーディカー〔ラーダー〕とニーラジャーでした。ウッダヴァは、立ち去る前、二人が鸚鵡(おうむ)をクリシュナ神に見立てて、自分たちの悲しみに打ちひしがれたハートを癒してください、と懇願しているのを聞きました。ウッダヴァは、意識を失って砂地に倒れているラーディカーに、クリシュナに伝えてほしいメッセージがあるかどうか尋ねました。我に返ったラーディカーは、クリシュナだけを思っていました。ラーディカーはこう言って泣きました。
もしあなたがそびえる木であったなら
私は蔦(つた)のようにあなたにからみつくでしょう
もしあなたが野に咲く花であったなら、
私は蜜蜂のようにあなたの上を飛び回るでしょう
もしあなたがメール山であったなら、
私は滝のようにあなたへと流れ落ちるでしょう
もしあなたが限りなく広がる空であったなら、
私は星のようにあなたの中にいるでしょう
もしあなたが底知れぬほど深い谷であったなら、
私は川のようにあなたの中に流れ込むでしょう
どこにいるの、ああ、クリシュナ!
どこに行ってしまったの、クリシュナ!
あなたに憐れみはないのですか、
クリシュナ! クリシュナ!
神への愛が手段でありゴールである
ラーディカーのこの哀れな状態を見て、ウッダヴァのハートは溶けました。ウッダヴァは、クリシュナが自分をゴーピーたちのもとに遣わしたのは、真のバクティ(信愛、神への愛)とは何かを学ばせるためであったのだと悟りました。ウッダヴァは、シャーストラをよく知っている人でも、ゴーピーがクリシュナに対して見せる一点集中の混じり気のないバクティから真のバクティに関する内なる真実を学ばなければならない、ということをウッダヴァに示すために、クリシュナはこのエピソードを上演したのだということに気が付きました。神への愛は、手段であり、ゴールです。これはゴーピーたちによって明らかにされた極意です。ゴーピーたちは、この世を愛で満たして渇いた大地に愛をあふれさせたクリシュナの笛の音の中で、あらゆるものの内に愛を見ました。
神は万人の内にいます。しかし、それを悟るための道はただ一つしかありません。それは、神への熱烈な愛を培うことです。人がそのような神への愛を育てるために熱心に努力する日こそが、クリシュナの誕生日なのです。クリシュナは、どのゴークラアシュタミー(クリシュナの誕生日)の日にも生まれてはきません。クリシュナは、私たちが自分の束縛を克服する手段として聖なる愛を身に付けようと努力する時に、私たちの内に生まれてくるのです。クリシュナの教えに従って生きることこそが、クリシュナの誕生日を祝う真の方法なのです。
サティヤ サイババ述
クリシュナ ジャンマアシュタミー
〔クリシュナ神降誕祭〕
プラシャーンティ ニラヤムにて
1983年8月31日
Sathya Sai Speaks Vol16. C23
小さな「私」を克服しなさい
ババからのお手紙:1974年1月13日
私のいとしい男子諸君、
すべての人に自分自身を作り直させましょう。人が生きているのは、金もうけのためでも、自分の欲求を満たすためでも、学問や知的才能のためでもなく、霊的な成長のためであるということを理解させましょう。
過去のカルマ〔行為〕の影響は、プレーマ〔神聖な愛〕によって裏打ちされたカルマによって消去されるべきです。すべてのカルマにはプレーマという背景がなければなりません。
霊的な進歩は、この世でのみ可能です。エゴの滅却と欲望の消滅は、この世で、今、得ることができます。それまでは、必ずこのはかない世を行き来することになります。食欲、欲望、野心、小さな「私」の衝動、エゴ〔アハンカーラ〕、ヴァーサナー〔過去生から持ち越された潜在的傾向〕、ヴィカルマ〔非行〕、ラーガ〔執心〕、ドウェーシャ〔憎悪〕――これら、マーヤーの世界つまりこの見かけと幻想の世界を構築してきたものすべてを、克服しなさい。
ハートの中にプレーマの光がないために、蝙蝠(こうもり)や夜行性の鳥がハートに侵入し、ハートを汚してしまいます。蝙蝠というのは、憎しみ、貪欲、うぬぼれといった邪悪な性質のことです。
祝福と共に
ババ
Prema Dhaara Part 2 6P
サーダカと学者
生きとし生けるものはすべて、成就に至らなければなりません。それは運命であり、それがどんなに困難で、どんなに長い道のりであっても。それがいつ、どのように達成されるかは、何生にもわたって積み重ねてきた努力の質によって決まります。その結果は、行いによって形づくられるだけでなく、その行いをさせた動機によっても形づくられます。各人の現在の状態は、過去の行いと動機の結果です。現在の行いと動機が未来を形づくります。各人が自分の幸運や不幸を築いているのです。
しかし、他人は不要な存在であり、他者に助けを求める必要はない、他者に助けを求めるべきでないと、断言することができるでしょうか? 霊性の分野で成就を得るためには、その道を極めた人の助けが大いに必要です。その導きは、一人のハートからもう一人のハートへ伝えることができるのです。それは、求道者と聖者の間に親密な親族関係が築かれているときにのみ、可能です。聖典や解説書、手引書や図解は、疑いや不和、議論を生むだけです。理性は、技術や賢さを発達させるだけです。魂〔アートマ〕の領域で有効なのは、直観で得た経験のみです。直観が、明るく照らす光となるためには、エゴとその悪の層を突き破り、破壊しなければなりません。
この冒険には、グル〔霊性の師〕が大きな助けとなります。その力が、貯水池から受け皿へと流れていく必要があります。ゴールに到達した者だけが、巡礼者をゴールへと導くことができるのです。その人がいなければ、求道者は荒野をさまようしかありません。グルの中には、弟子にマントラを教え、それを繰り返すようにと勧める者もいます。しかし彼らは、一瞬たりとも無視できない弟子の生来の神性を強調することをせず、弟子の内にある能力を明らかにするために必要な、道徳の再生を主張することもしていません。
神は最も小さなものの中にも最も大きなものの中にも存在している
マントラを授けるグルは、ディークシャー・グル(手ほどきをする師)であり、人格を作り直すグルは、シークシャー・グル(導く師)です。聖典の中でいくとおりもの方法で敬意を込めて賞賛されているのは、後者のグルです。後者のグルは、見る目の欠陥を取り除き、無知の闇を滅ぼします。後者のグルは、その人にアートマを明らかにし、その人を自由にします。
グル プールニマーは、そのようなグルたちに捧げられるものです。プールニマー(満月の日)は、すべての生命の目標である成就を祝う日です。ヴェーダの格言に「これは満、あれも満、満から満を取っても満が残るのみ」というものがあります。これは、量ではなく質(グナ)の充満を指しています。飴(あめ)とその飴のかけらの甘さは同じであり、一しずくの海の水の味は海全体の味と同じです。神は原子の中にも、宇宙の中にも、満の状態(完全な状態)で存在しています。神は、最も小さなものの内でも、最も大きなものの内でも、サット・チット・アーナンダ(実在・意識・至福)です。どちらも神に満ちているのです。神は、あるものには部分的に存在し、別のものに完全に存在するということはできないのです。神は不可分な存在なのです。
今日という日は、グルに感謝するために捧げられます。なぜなら、今日の月(心の主宰神)は満月で澄んでいて、涼やかで、明るいからです!そこにはその輝きを損なうような傷も、くすみもありません今日は、グルもまた、汚れなく、明るく、愛情深いものとして描かれ、賞賛されます。グルは神への信愛と全託の感覚に満ちあふれています。グルは寛容で、実に安らかです。グルは、私たちが身につけることを望んでいる美徳の生きた手本であり体現者です。
内なる神はグルの中のグル
聖典の研究は、いくつかの間違った観念を取り除き、いくつかの正しい決意を誘発するかもしれませんが、実在を見る目を授けることはできません。瞑想は、個人の真の富であるアートマの宝へと至る鍵です。瞑想の進歩と勝利は、偉大な魂たちの愛情を得て、彼らの指示に従ったときにのみ、得ることができます。
実際、神、すなわち、内なる神は、グルの中のグルなのです。神の恩寵は、盲人を見えるようにし、足の不自由な人を歩かせ、口のきけない人をしゃべらせることができます。ただ一触れするだけで、神は過去の罪を取り払うこと、平安と喜びの土台を築くことができるのです。神は、人が人としての意識を持ち続けている間、そして、人間がこの必然から逃れることができない間は、人間の姿形で崇められ礼拝され、想像され、描かれることができるのみです。人はどうやって自分の限界を超えることができるのでしょうか? 人は神を、超人的あるいは超越的な力や知恵、愛や慈悲を持つ人間としてのみ、視覚化することができます。人は、姿形を持っていないもの、属性を持っていないもの、性質を持っていないものを、説明すること、描写することができません。姿形と属性によってのみ、人は祈ること、崇めること、礼拝すること、存在を感じることができるのです。そして、その姿形は人間の姿形でなければならないのです。狭量で、信仰心のない、ちっぽけな心は、神が人となってやって来ることなどできないと主張するかもしれませんが、実際には、神は人間に人間としてだけ認識されることができるのです。これは、聖典にある「ダイヴァム マーヌシャ ルーペーナ」――「人間の姿をとった神」という言葉を説明するものです。
霊的な体験の要旨は、「自分を知ること」です。これは、自分の能力やスキル、欲求や希望、強さや弱さを知るという意味ではありません。これは、自分が誰であるか、自分が本当は何なのかを知るということです。シャンカラーチャーリヤは、この知識を三行に要約しています――ブランマ サッティヤム(神は真理なり)、ジャガト ミッティヤー(創造世界は幻影なり)、ジーヴァ ブランマイヴァ ナー パラ(ジーヴァ、すなわち個人はブラフマーにほかならない、神にほかならない)。すべてのbecome(~になる)は、being(在る)に源を発しています。「在る」のは神です。神と個人は分化できない存在です。ですから、人間性は聖なるものであり、卑しいものでも低いものでもないのです。人間性は、雲でおおわれ、汚染されてはいますが、神の地位を有しているのです。
ヴィヤーサ仙は人類が平安を獲得するのを助けた
その信念が私たちの心に深く根を張るため、私たちがその信念に定まり続けるためには、グルが必要です。ヴィヤーサ仙は、道とゴールを明確にした最初のグルです。そのため、ヴィヤーサ仙はプールニマーの日(満月の日)と関わりがあるのです。ヴィヤーサ仙というのは、真理、つまり普遍的な永遠のエネルギーについての知識を詳述し、拡大した人物です。ヴィヤーサ仙は、マハーバーラタ、18のプラーナ、バーガヴァタを創作し、人類が平安と幸福を得ること、神への実りある礼拝の方法を学ぶことに貢献しました。さらに、ヴィヤーサ仙は人として化身した主なる神の物語も語っています。サットワ・ラジャス・タマスという3つのグナ〔浄性・激性・鈍性〕は、すべての人を神的な人・人間的な人・悪魔的な人に分類します。人間は知的で、好奇心旺盛で、驚きに満ち、畏敬の念と敬けんな態度で満ちています。人間は自分を知りたいと切望し、そのための努力を実らせる唯一の存在なのです。
真理にまつわる伝説があります。神々がイーシュワラ〔シヴァ神〕のもとに行き、人間と悪魔を真理の知識から遠ざけてくださいと懇願しました。というのも、真理の知識は、人間と悪魔を手におえないものにしてしまう恐れがあったからです。そのため、真理の知識は、手の届くことのないアーカーシャ(天空)の高みに隠されました。悪魔たちは真理の知識への興味を失いましたが、人間たちは真理の知識がないことに苦悩しました。そこで、イーシュワラは真理の知識を海に隠しました。そして最終的に、真理の知識に対する人間の憧れが圧倒的になったとき、イーシュワラはすべての人間のハートの中にそ
を置いたのです。しかし、それは、そこにあってもそう簡単に手に入るものではありませんでした。人間が内在するアートマを見るためには、肉体を構成している五大元素の諸悪、微細体と原因体の鞘(さや)を突き抜けなければなりませんでした。
学者はエゴに汚染されている
神を見るためには、主人になるべきです。なぜなら、主人だけが、すなわち、五感とその他のすべての能力の主人だけが、宝の入った箱に触れることができるからです。人は、五感の召し使い、感情や情熱の気まぐれや空想の召し使いであってはなりません。召し使いが触ることのできるのは、家にある安くて壊れやすいガラクタだけです。宝箱は、エゴや貪欲や妬みで見えなくなっている目や、曇っている目では見ることができません。
グル プールニマーは、あなたがサーダナ(霊性修行)によって自分の五感や知性、情緒や激情、思考や感情の主人になろうと決意する日です。ディヤーナ(瞑想、坐禅)の最中でさえ、エゴはあなたの邪魔をするでしょう。ニヴェーディタ〔ヴィヴェーカーナンダの弟子〕は、ディヤーナ中の一点集中を得ようと、ヴィヴェーカーナンダに助言を求めましたヴィヴェーカーナンダは、「あなたと神の間にマーガレット・ノーブルが入ってくることを許してはな
らない」と言いました。マーガレット・ノーブルというのはニヴェーディタのこと〔彼女が出家する前の名前〕でした。「ニヴェーディタ」には、「捧げる」という意味があります。ですから、ヴィヴェーカーナンダは「自分をすっかり神に捧げるのです」と説明しました。こうした完全なる献身は、学識からは生まれません。学者たちは、エゴに汚染されています。賛否両論を並べることに喜びを感じています。疑念を抱かせ、信仰を乱しています。学者たちは、世俗的なもの、この世のものを、霊的なもの、あの世のものと混合させています。学者たちは、この世の利益を得るために神を礼拝しています。しかし、神への祈りは、霊的な進歩のためのものであらねばなりません。
それゆえ、遅れることなく、先延ばしにすることなく、サーダナに従事しなさい。徳を培い、悪い習慣、悪い思考、悪い言葉、悪い行いがないようにしなさい。愛の中で成長し、愛で自然〔造物主〕を歓迎しなさい。それこそがアーナンダ〔至福〕への道です。これがグル プールニマーのためのメッセージです。
サティヤ サイババ述
グルプールニマー祭
プラシャーンティ ニラヤムにて
1980年7月27日
Sathya Sai Speaks Vol.14 C52
神を思うなら、あなたは神です
ババからのお手紙:1973年10月29日
私のいとしい男子諸君、
あなたの体のあらゆる細胞の中に私がいるのを感じていますか?
神を思うなら、あなたは神です。
ちりを思うなら、あなたはちりです。
まさに思考は物なのです。
あなたが考えるように、あなたはなります。
あなたが蒔いたものを、あなたは刈り取るのです。
霊的な成長は、この世の快楽という土に蒔かれた種からは芽生えません。悪や憎しみといった形をした反応は、どれも心に多大な損失をもたらしますが、あらゆる悪い考えや憎しみの行為、あるいは、どんな反応の思考も、もし抑制されるなら、あなたのためになるように静められることでしょう。こうした自制をすることであなたが損をすることはありません。期待以上のものを無限に得ることになるでしょう。憎しみや怒りの感情を抑えるたびに、多大なエネルギーがあなたのためになるように蓄積されるのです。そのエネルギーは最高のパワーに変換されます。
私のいとしい男子諸君! 非難や賞賛は、単なる空気の振動にすぎません。あなたの中にいる神は、すべての中にいる神です。もしあなたがこのことを知らないのであれば、あなたは何も知らないということです。もしあなたが清らかで強いなら、あなたは全世界と同等です。praise(賞賛 プレイズ)されるより、raise(高く上げる レイズ)されるほうがよいのです。単に賞賛することは、下に落ちるということです。人間のマインド(心)を探求し、マインドを作った者を見いだしなさい。違いのある所では違いを取り除き、誤解のある所では誤解を払いなさい。神の関心を損ねてはなりません。真理は原子よりも基礎的なものです。
私の男子諸君! すべての憎しみと嫉妬を振り払いなさい。その瞬間に、あなたは悟りを得るでしょう。五感の求める対象への執着は、至高なるものからあなたを引き離します。あなたの仕事は、魂を自由にすることではなく、束縛から解放されることです。神だけが永遠です。他のすべては、はかないものです。すべてのものは死にます。肉体よりも上に上昇し、肉体を無に帰して、初めて神性を悟ることができます。自己を悟ることが教育の最高の目的です。
サイはいつも、あなたと共に、あなたの中に、あなたの周りにいます。善良でいて、幸せでいなさい。
祝福と共に
ババ
Prema Dhaara Part2より
北極星
清らかなハートは、完全な輝きを放ちます。甘い愛は、汚れなき喜びを授けます。善は、人類を低下させる病への最も有効な特効薬です。善は、常に豊かな不滅の貯蔵庫です。完全に善と結びついていれば、すべての悲しみを手放すことができます。善は大きな満足を与え、アーナンダ〔至福〕は恐れからの大いなる解放を与えてくれます。実に、人生が神の思いに溶け込むと、人生は北極星〔ひときわ輝く星〕に定まります。
人間は不滅の子です。すべての人は兄弟です。なぜなら、すべての人は同じ神の炎の火の粉だからです。すべての人は根本的にアートマン〔真我/アートマ〕であり、アートマンへの愛と、アートマンを顕現させようと努力することは、個々人すべてが生まれながらに持っている権利です。そこには相互の愛がなければなりません。そして、この相互の愛から生じる普遍的なアーナンダ〔至福〕がなければなりません。
しかし、今日あるのは、その段階とは真逆のことです。人間たちのそうした行動を何と言えばよいでしょう? 日々の口論や問題を何と言えばよいでしょう? 意見の対立や論争についてはどうでしょう? 略奪と殺害についてはどうでしょう? これらすべての原因は何なのでしょう? すべては私たち自身のことであり、すべては私たち自身なのです。私たちは自分自身に刃物を向けているのです。これは、心の清らかさの表れですか? ヴェーダに定められている「サッティヤム ヴァダ、ダルマム チャラ」〔真実を話し、ダルマを行う〕という指示は、どうなっているのでしょうか?
どの人も皆、幸せになりたい、心の平安を得たいと願っています。そのために、それぞれがさまざまな行動をとっています。けれども、幸せも平安も人を避け、人とかくれんぼをしています。しかし、人間は捜すことをあきらめるでしょうか? いいえ、あきらめません。人は幸せと平安を捕まえるために、駒のようにぐるぐると回っています。ですが、まだ捕まえることができません。
お金で共同体のモラルを向上させることはできない
このような状態になる理由は何なのでしょうか? 努力の欠陥なのでしょうか? それとも、カルマの法則そのものなのでしょうか? あるいは、この世の根本的な性質なのでしょうか? それとも、この失敗は、時代の精神によるものなのでしょうか? いいえ、少し考えれば、これらの推測はどれも本当ではないことがわかるでしょう。本当の原因は、「善が勝利することへの信心の欠如」です。その信心は、神への信愛が育つことによってのみ得ることができます。
現在、自分が世の中を改善する、と断言している人はたくさんいます。彼らは改善しようという意志を持ち、懸命に努力しています。彼らは壇上で机をたたき、世界は悪い状態にあり、自分にはいつでも出せる救済策を持っていると叫びます。しかし、彼らは努力の末に、結局、世界をさらに深刻な病気にしているのです。
どうやって講義によって清らかさを得ることなどできるでしょうか? 彼らは、もっとお金を使うことで共同体を清らかにするのだと提案しています。どうやってお金でモラルが向上できるというのでしょうか? 五年計画が次々と実行されていますが、腐敗は続いています。悪が高まっています。ますます空気が汚くなっています。
では、改善するには何をすればよいのでしょうか? 診断が間違っているのでしょうか? それとも、薬がないのでしょうか? 過ちは、間違った診断と間違った治療にあります。この病気は、限度のない自由という病気です。それこそが、制御不能な激情と、破壊兵器に頼る状態をもたらしたのです。自由は、一定の限度内で享受すべきものです。そうでなければ、自由は放埓(ほうらつ)や放縦(ほうじゅう)にさえなってしまいます。自由を制限するものを、規律と呼びます。規律は、すべての行いの分野で行使する必要があります。この規律がないために、今のこの国の悲しい窮状があるのです。
人は遅かれ早かれパラマパダに到達すべし
他人を指導し、世の中を規定しようと決心する前に、自分自身と自分の感情や激情を制御することを身につけて、自分の心にやましいところがないようにしなければいけません。内にいる敵に勝利してこそ、外にいる敵も打ち負かすことができるのです。平和を確立するための努力は、今日、非常に巨大なものになっていますが、その成果、特別な具体的な成果は、ほとんどありません。
この世それ自体、人間には謎です。この世は人知や想像力の及ぶところではありません。そして、人間一人ひとりがその神秘の断片なのです。もちろん、この世の本質を見抜き、その真の姿を悟ることに成功した人たちもいます。しかし、人はそうした賢者たちをないがしろにしています。そんな中で平安に暮らすにはどうしたらいいのでしょう? 食べなさい、そうすれば、味がわかります。入りなさい、そうすれば、深さがわかります。彼らに助言を求めなさい、そうすれば、真の価値がわかります。
時間の車輪は、間断なく回っています。ある日の悪は、別の日の善となって現れ、ある宗派の道徳は、別の宗派の目には不道徳に映るようになります。ある人にとって正しいことが、別の人にとっては間違っています。ある人の敵は、別の人の友です。こうした二元性の罠(わな)にはまって、人は振り子のように揺れ動き、根底にある単一性に気づかずに、何度も転び、何度も盲目的に探し、人生という道をつまずきながらもがいているのです。人の歴史が始まって以来、人は泣いたり笑ったり、喜んだり悔しがったり、立ち止まったり急いだりしています。これが、この世での人間の旅路の物語なのです。けれども、どれほど困難な道であっても、人間は遅かれ早かれ、最高善、すなわち、パラマパダという、逃れられない運命に到達しなければなりません。
人間は、自分の高次の運命を知って、サーダナ〔霊性修行〕の道を着実に歩まなければなりません。そして、その道をふさぐ壁を壊さなればなりません。人間は、愛という、偉大な、一つにする性質を育んで、兄弟愛を持ってすべての人にアプローチしなければなりません。それが人間に最高の幸せと平安を与えるのです。アートマ シャーンティ〔真我の平安〕(心の平安)のためには、ヴィシュワ プレーマ(普遍的な愛)以上の道具はありません。
もう一点あります。模倣は、決して進歩の基礎にはなり得ません。人のまねをして得意がるのは、霊的な転落の第一歩です。模倣は、自分の識別力と推理力を弱めます。模倣は、まさに自由の根源を断つものです。ヒンドゥー〔インド人〕の生き方、ヒンドゥーの文化、ヒンドゥーのために定められた規則の目的は、非常に重要であり、意味であふれています。それは、全意識をより高い価値へ、そして究極的には、神へと向けることにほかなりません。
シュリ サティヤ サイ ババ述
1966年〔月日不明〕
Sathya Sai Speaks Vol.6 C41
一なるものを勝ち得なさい
バーラタ人〔インド人〕は、あらゆる活動について、自他に対する義務のそれぞれについて、「すべきこと」と「してはいけないこと」を定める方法を持っています。制限や制約から得られる喜びを知っているので、規律に快く従い、自制します。また、霊的な真理を「解説」するよりも「体験」することに熱心です。ヴェーダの時代の初めから、「どれだけ学んだか」よりも「どれだけ得たか」に重点が置かれています。バーラタ人は、最終的な幸福は説明できないものであること、感覚や知性、感情、さらには自我をも超えた段階があり、その段階では最高の法悦が得られることを知っています。
聖賢たちは、知りえる世界を構成している3つのカテゴリーを定義しています。それは、「神」(イーシュワラ)と「自然」(プラクリティ)と「私」(ジーヴァ〔個々人〕)です。「自然」という鏡を通して「神」を見ると「私」に見えます。「鏡」を取り除くと、そこには「神」だけがあり、「鏡」に映っていた像は本体に融合します。人間は神の像にほかなりません。自然ですら神の現れであるのみであり、実在は神だけです。多の顕現であるかのように惑わしている見かけの原理はマーヤーです。マーヤーは神の外に存在するものではなく、神に本来備わっているものです。それは、あらゆる力は神に本来備わっているのと同じです。
「私」の像は別個のものだと考えるとき、それはドワイタ(二元論)です。「私」の像は実在ではないと認識しても、本体に関連するものとして像に何らかの関連性を与えている場合、それはヴィシュタ アドワイタ(条件付不二一元論)です。「私」の像も鏡も両方とも幻影であると認識し、幻影として退けたとき、そこにはただ一つのものが残ります――これがアドワイタ ダルシャナム(不二一元論)です。不二の一なるものを探すことは、昔からのインドの探求です。努力は常に、「一なるもの」を発見することへのものであり、それを知れば他のすべてを知ることができます。価値のある知識とは、多様性の知識ではなく唯一性の知識です。多様性は、疑い、不和、意気消沈を意味します。見る者と見られる者は異なりますが、すべての人に内在している見る者は同一です。
神はどの宝飾品にも存在する金のようなもの
サーダナ〔霊性修行〕には4つの段階があります。最初の段階は「サーローキャ」〔絶えず神を想っていること〕です。そこでは、あなたは神の王国にいます。あなたは王の命令に従い、王に忠誠を誓い、王の最もささいな願いも尊重し、王に誠実に仕え、一つ残らず明け渡さなければなければなりません。
次の段階は「サーミーピャ」〔神の近くにいること〕です。そこでは、あなたは宮殿の中にいて、伝達人や廷臣、侍女や召し使いの一人として過ごします。あなたは以前より王に近くなり、神聖な性質を身につけます。
次の段階は「サールーピャ」〔神と自分は一つであることを認識すること〕です。そこでは、サーダカ〔霊性修行者〕は神の姿を心に刻みます。言い換えると、あなたは王の兄弟や側近のようになり、王室のローブや所有物を身につけることができます。
そして最後は「サーユッジヤ」〔神と一つになること〕です。そこであなたは皇太子として王位を継承し、自らが王となります。臣民は手足として存在し、王は心臓として存在します。
一なるものを知らない心は、風が吹くたびに枯れ葉のように舞い上がり、風が収まると落ちていきます。しかし、一なるものの存在をしっかりと認識している心は、岩のようにどっしりと安定していて、疑念に影響されず、安泰です。容易に礼拝や黙想をすることのできる存在としての神は、ヒランニャガルバ――黄金の胎、創造の起源、顕現して多になろうと意志した内在の原理――と呼ばれます。黄金という語は理にかなっています。なぜなら、黄金は職人が身に着ける人のニーズやイメージ、奇抜な嗜好(しこう)や流行に合わせて、さまざまな宝飾品をこしらえる元だからです。同様に、神も人間の想像力、知力、好みによって、壮大な姿、グロテスクな姿、恐ろしい姿、魅力的な姿と、さまざまな姿に形作られます。人間はそうした像をこしらえて、置き、その御前に自分の恐れ、空想、欲望、恐怖、夢をぶちまけます。人間は、その時々に応じて、その像を主、同志、君主、師と見なします。しかし、人間が神をどう扱おうとも、神は影響を受けません。神は、すべての宝飾品の中に存在し、宝飾品を通して存在する、金なのです。
神を悟るために体との同一視を手放す
神はあなたの中にいます。そして、あなたの感情のほとばしりに耳を傾けて、あなたに安らぎを与えるために神をこの像やあの像として外界に投影するようにあなたを促したのは神です。神が内から授けるインスピレーション、慰め、喜びがなければ、あなたはまるで、錨(いかり)を失って嵐の海で舵が取れずに翻弄されている人のごとく、狂ったようになるでしょう。ハートの中で神にしがみつき、神が静寂の中で助言と慰めの言葉をささやくのを聞きなさい。神と会話し、神が指示するとおりにあなたの足を踏み出しなさい。そうすれば、あなたは無事に、すぐ目的地に到達します。あなたが絵姿の御前に座ること、花を供えること、讃歌を唱えること、あなたが自分に課す誓い、あなたが果たす徹夜の行――
これらは、あなたが内なる神に気づくための浄化行為であり、邪魔なものを取り除く行為です。
実際の話、あなたは神なのです。あなたは、自分の家である殻を背負ったカタツムリのようにあなたが持ち歩いている、肉体ではないのです! 肉体に魅了されている状態から脱すれば、内なる神の光が輝き、あなたの思考と言葉と行いを照らすでしょう。クリシュナはギーターの中で、あなたがサルヴァダルマ――あらゆる責務や責任、権利や義務、「私から」や「私に」といった感情――を手放した瞬間にあなたを束縛から解放する、と言っています。つまり神は、自分は体であるという考えを手放すことを求めているのです。
それが、クリシュナが教えるためにやって来たダルマ、最高の義務です。人間には自分自身に対する義務があります。それは、自分は神であり、神以外の何ものでもないということを認識することです。人間がそれを怠り、道を踏み外すと、神が化身して人間を再び正しい道へと導くのです。
あなたの心の中に出没する6匹の悪魔と戦いなさい
必要が最初に来て、それから、その必要に適した教えと、教えを伝えるための形があるのです。天界の聖仙であるナーラダが心の動揺に悩まされ、心の平穏を取り戻させるためにサナートクマラ仙は彼にヴェーダを教えたと言われています。ですから、ヴェーダには始まりがないとは言えません。ヴェーダの讃歌にはたくさんの聖仙や詩聖の名前が出てきますから、讃歌はそれらの人物が生まれた後に作られたものです。
ヴァールミーキがラーマーヤナを作り上げ、それをまず、ラーマの双子の子供に教え、双子は後に王の謁見の間において、神なる英雄である父の前でその叙事詩全篇を歌ったと言われています。あなたが、器である体、電球を強調し、中身である魂、電流を強調していないとき、あなたはこの神やあの神、創造主ブラフマー、守護神ヴィシュヌ、破壊神シヴァの話をします! しかし、実際には、この体も、私の目の前にあるたくさんの体も、すべて同じです。電流の量が違うだけで、電流は同じです。
6匹の悪魔――カーマ(色欲)、クローダ(怒り)、ローバ(貪欲)、モーハ(執着)、マダ(慢心)、マーッツァルヤ(憎しみ)――があなたを追いかけ、あなたを間違った道に向け、あなたを何でも言うことを聞く愚かで悲しい存在にしています。断固として悪魔と戦いなさい。それは、あなたがしなければならない生涯にわたる戦争です。それは七年戦争でも三十年戦争でもなく、もしあなたが百年生きれば百年戦争になるかもしれません。その闘争には休息がありません!それは内戦であり、絶えず警戒していることだけが、実を結ばせてくれるのです。アルジュナはクリシュナに、「心の中に悪魔たちが出没し、一時も休めません」と祈りました。クリシュナは、「それを私によこしなさい!」と言いました。簡単ではありませんか? 花にたどり着いて蜜を吸いはじめるまでブンブンと羽音を立てている蜂のように、心も主の蓮華の御足の上に落ち着くまで騒いでいるでしょう。ひとたび蜜を見つければ、もうふらふらと動き回ることはなくなります。
聖賢は古代王国の君主たちを導いた
神に自分を捧げなさい。スダーマは、主から「何が必要か私に言いなさい!」と尋ねられました。彼は「私にはあなたが、あなただけが必要です」と答えました。なぜなら、そこにはすべてが含まれているからです!! 幼い息子は、本やシャツ、ボールやペンを父親に求めます。父の愛を勝ち得さえすれば、息子は自分が必要とするもののことを考える必要すらありません。父親が息子に必要なものを予測して、その品を与えてくれるでしょう。
こうした考えから、古代インドの王国の君主たちは聖仙たちに助言を求めるようになりました。聖仙たちは、ひいきも偏見も持っておらず、それゆえ、どんな危機においても最善の方法が分かりました。彼らは、人類への愛にあふれ、苦しんでいる人を思いやり、悪いことをする人の動機を理解している人たちでした。聖仙には5つの霊的な等級がありました。それらは、パンディト〔学僧〕、リシ〔聖仙〕、ラージャリシ〔王仙〕、マハリシ〔大聖仙〕、ブラフマリシ〔神仙〕です。聖仙たちには、土地や富、名声を得ようとする野心や貪欲さはありませんでした。皇帝ダシャラタの助言者であり師であったヴァシシュタ仙は、ラーマに「アーディッティヤフリダヤ」、すなわち「太陽のハート」と呼ばれるマントラを伝授し、勝利が手からすべり落ちそうになった時にはいつでもそれを唱えるようにと指示しました! そうした助言者たちが安全に王国の舵を取っていたのです。油(カルナ)と風(シャクニ)〔パーンダヴァ兄弟をサイコロ賭博に誘い、負けさせ、森に追放した悪人〕を燃料としていた邪悪な従兄弟〔カウラヴァ兄弟〕の炎を鎮火するには、雨が必要でした。そのため、クリシュナはクルクシェートラで矢の雨を降らせることを計画したのです。
もし統治者が、神はすべての人の中に存在し、すべての個人はそのような存在として尊重されるべきである、という信心に基づいて統治を行うなら、不満も不和も生じないでしょう。これはヴェーダーンタの基盤であり、その上に生活の諸相を構築しなければなりません。仏陀はその源を認めていなかったかもしれませんが、仏陀もヴェーダーンタの上に自らの宗教を築き上げました。源は当然のものであり、決して議論されることはありませんでした。それは避けられないものでした。
霊的なものだけが幸福と喜びを与えてくれる
霊的なものだけが、幸福を授けること、永続的な名声と喜びを与えることができます。例えば、数年前のインドには、ラール、バール、パールという3人の愛国者の名が響き渡っていました。その中で、バール・ガンガーダル・ティラクの名は、ラーラー・ラージパト・ラーイ〔ラール〕や、ビーピーン・チャンドラ・パールの名よりも長く残るかもしれません。というのも、ティラクはバガヴァッドギーターの注釈書である『ギーター ラハッスヤ』を書いたからです。
あなた方の体は神を悟るために手に入れたものであり、ただ神を探すこと、神に仕えること、神を支持することに身を尽くすだけで、あなたの心の奥底にある渇望を満たして、うずくまっている不満を取り除くことができるのです。
サティヤ サイババ述
ダシャラー祭(ナヴァラートリ祭)
プラシャーンティ ニラヤムにて
1969年10月21日
Sathya Sai Speaks Vol.9 C29
深みのある趣味
親と教師は模範を示すべし
この世での生は はかない
富と若さは 永遠のものではない
妻や子も 永遠のものではない
ただ真実と評判だけが 永続する
人のためになることと真理を教えることだけに
関心がある教師は
子供のために苦い薬を与える母親のように
折檻(せっかん)し、叩くこともある
この真理を忘れてはならない
食べ物の贈り物よりも偉大な贈り物が
あるだろうか?
親より偉大な神がいるだろうか?
公共の利益を促進すること以上に
偉大な道徳があるだろうか?
同情よりも優れた正義があるだろうか?
善人との付き合いに優る利益があるだろうか?
憎しみより悪い障害があるだろうか?
この世に悪名を得ることよりも
ひどい死があるだろうか?
永続する名声よりも価値あるものがあるだろうか?
主を憶念することよりも
役に立つものがありえるだろうか?
内なる喜びよりも高位の天国はあるだろうか?
神我の化身たちよ! 子供たちが善い人格の、善い行いをする人間になるには、両親が善い人格で、模範的な行いをしている必要があります。
偉大な師であったアーディ・シャンカラーチャーリヤは、大変高潔で気高い行いをする両親の子供でした。ラーマクリシュナ・パラマハンサとスワミ・ヴィヴェーカーナンダが得た偉大な名声は、それぞれの両親のおかげです。多くの偉人は、自分の両親の足跡をたどることによって名声を得ました。
少年ガンディー(ガンジー)が学んだこと
並の人間だったガンディーが偉業を成し遂げ、世界的な名声を得たとすれば、それは母親から学んだ善行の教えのおかげです。母親は、朝カッコウが鳴いてから食事をとるという誓いを立てていました。ガンディーが少年だったある日、母親がカッコウの鳴き声が聞こえるのを長い間待っていたことがありました。それを見ていたガンディーは、外に出てカッコウの鳴き声の真似をして、家に入って母親に言いました。
「カッコウが鳴いたから、ご飯を食べてもいいよ」
息子の策を見破った母親は、ガンディーの頬を叩いて言いました。
「この悪人、お前のような息子を産むとは、私はいったいどんな罪を犯したのだろう?」
母親は、自分がそんな子供を産んでしまったことを悲しく思いました。その悲しみはガンディーの心の琴線に触れました。その時、ガンディーは二度と再び嘘はつかないと固く決意したのでした。
子供時代のガンディーは、恐怖心でいっぱいでした。家にはランバーという女中がいました。ガンディーは、自分はいつも恐れているということをランバーに打ち明けました。ランバーは言いました。
「坊ちゃん、いつもラーマの御名を唱えていることです。ラーマの御名を唱えることで恐怖心はどこかに行ってしまうでしょう」
その時から、ガンディーはいつもラーマの御名を唱えていました。少年時代から始まった、ラーマの御名を唱える習慣は、ガンディーが逝く瞬間まで続きました。それだけではありません。忠実にラーマの御名を唱えることで、ガンディーは非暴力によって国の自由を勝ち取るという目的を達成することができたのです。これほど清らかで徳のある人生は、何にもまして両親のおかげです。
現代では親自身が純化された性質を欠いている
残念なことに、今日では親自身が人格に清らかさがなく、純化された性質を欠いており、規則正しい生活をしていないために、世界中で悪習や不正が増えています。両親がののしり合いながら寝床から起きれば、子供たちもののしり合いながら寝床から起きます。カリの時代(カリユガ)の弊害のために、両親はけんか腰になりがちです。父親たちはヒランニャカシプのように振る舞っています。そうした両親のせいで、バーラタは不義と悪しき慣習のまん延を目の当たりにしています。
昔のバーラタ人は、高潔で神聖な生活を送ることによって名声を得、世界の模範となっていました。今の子供は親に似てしまっているのです。木は種に基づいたものであり、種が木の性質を決定します。今の子供の非行や悪い行いは、親こそが非難されるべきです。真実を語り、正しく行動し、良い評判を得るようにと子供に言い聞かせることを選ぶ親はわずかです。悪い親たちのせいで、国は評判を失いつつあります。非行や悪い行いをする子供なら、生まれてこないほうがましです。そんな子供は親にとっても国にとっても恥ずべき存在です。今の子供たちの教育や職は、権力や地位や富をもたらすのに役立っているかもしれませんが、思いやりや優しさや犠牲といった美徳を促進するには役立っていません。彼らが得たものは永続するものではありません。
どんな強さを持っていても、神の強さを持っていないなら、その人は弱い人です。カルナほどの勇敢な人が、最後にはどうなりましたか? カルナは、身体能力、知力、そして、大変な博識がありましたが、神の支持がなかったために、哀れな結末を迎えました。
正しい道を教えないという教師の怠慢
今、国家が抱えている病はすべて、両親と教師に責任があります。教師は(生徒が過ちを犯しても)生徒を罰しません。生徒は自分が過ちを犯しても罰を受けないので、好き勝手に行動します。生徒の罪は教師に責任があります。教師が生徒に正しい道を教えていないのです。教師たちは、ただ本の知識だけを伝えるだけで、正しい知識、賢明な生き方、高尚な価値を教えていません。もしモラルや人間的価値を持っていないなら、人は悪魔になります。
体と心(マインド)とアートマを生活の中で調和させる人だけが、真の人間です。体と五感に基づいた生活は、動物の在り方です。心の思考や気まぐれにすっかり支配されている人は、悪魔です。体と心の呼びかけは無視してアートマの呼びかけに従う人は、神です。人間には、動物性、悪魔性、神性が内在しています。ですから、体だけを重視して五感の思わくに従う人は、動物に匹敵します。動物には行動に「季節と理由」があるので、ある意味で、動物のような人よりも優れていると考えられるでしょう。一方、人間の姿をしていながら五感の快楽だけを渇望する人は、動物にも劣ります。
富よりも人格が大切
以上の三種の行動も、親と教師に責任があります。生徒の行いの善し悪しは、親と教師に責任があります。子供を最高のレベルに導くのも、最低のどん底に落とすのも、親なのです。
親たちは子供の物質的な幸福だけに関心があり、子供の道徳的、霊的な幸福には関心がありません。子供が生まれると、親はわが子に教育を受けさせて、その子が海外に派遣され、どんな手段を使ってでも可能な限り多くのお金を稼ぐよう仕向けられることを望んでいます。親が子供に教えるのはこのようなことばかりです。現代人は、物乞いから強盗まで、実にさまざまな方法でお金を稼いでいます。大切なのは富ではありません。人格が第一です。親たちは、善い性質を養うようにと子供に教えていません。親たちは、道を踏み外した子供を制止しません。親たちは、子供の過ちを容認し、しばしばその悪い習慣を助長しています。そうした子供たちは、ドゥルヨーダナ〔カウラヴァ兄弟の長男〕が父親から励まされたように、間違った道に入っても励まされてしまいます。そのような親のせいで、今の子供たちは間違った道に進んでしまうのです。
ドリタラーシュトラは、物が見えなかっただけでなく、知恵の目も欠いていました。彼は全くの盲目だったのです。現代の親たちも、同じく盲目である傾向にあります。今の親たちは、わが子の間違いを正すことも、わが子を厳しく叱ることもしません。子供が家出したり自殺したりすることを恐れているのです。親には、子供に注意して正す権利があります。なぜそうすることを恐れなければならないのでしょうか? そんな悪い子供がどうなろうと、何か問題がありますか? そんな子供は、親にとっての腫れ物であり続けるよりも、いなくなったほうがましです。悪名よりも死が好ましいということです。名声より大きな富もありません。長生きの悪名高い息子より、短命の高名な息子を持つほうがよいのです。
神の愛を得て世界平和を確かなものとしなさい
今、人が獲得しなければならない最も重要なものは、神の愛です。神の愛は、世界の平和、社会の平和、家庭の平和を確かなものとします。個人の愛と道徳によって、家庭にも平和と安全がもたらされます。個人が神の愛を得ることによって、社会は平和と秩序を確保します。人々が神の愛を得たとき、世界全体が平和と幸福を享受するのです。
幸福と平和は、富や地位や権力の中で見つかるものではありません。これらはどれも恐怖と不安を生 み出すだけで、平和と幸福は生み出しません。今日では、高度な教育を受けた人でさえこの真理を認識しておらず、信者を装いつつ親のすることを真似ています。ヒランニャカシプは、息子プラフラーダの信愛をそぐために、ありとあらゆる方法を試みました。プラフラーダは、ありとあらゆる拷問と試練を受けました。象に踏まれそうになり、コブラに噛まれそうになり、海に沈められそうになりました。しかし、主への信愛がプラフラーダを救いました。ねじけた父親を無視して、プラフラーダは主にしっかりとしがみついていました。
現代では高貴で神聖な感情が欠落している
父親であることは何も立派なことではありません。息子が生まれたというだけで喜ぶことのできる父親はいません。人がその子の徳を褒めて、初めて父親はその子の誕生を喜ぶのです。正しき息子は自分と家族を救います。まさに、そのような徳の高い子を育てる者だけが、親と呼ばれるにふさわしいのです。
プラフラーダは、「息子に神を悟れと言う父親だけが父親であり、弟子を神に導くグルこそが真のグルである」と明言しました。そういった教師と親は、最近では珍しくなってしまいました。過去にこの国に名声と栄光をもたらしたものは、道徳的価値観と行動の低下のせいですべて無駄になっています。教育制度は全く荒廃しています。人間的な性質を高めようとする試みが全くありません。高貴で神聖な感情が欠落しています。自分を人間と呼ぶ者たちが神への信愛を欠いた動物のような振る舞いをしているのは、まったくもってふさわしくないことです。
「Bhagavaan」〔「バガヴァン」のサンスクリット原形である「バガヴァーン」〕という語は何を意味しているのでしょうか? それは名目上の称号ではありません。「ブランメーティ、パラマートメーティ、バガ イティ サッ」とヴェーダは述べています。つまり「Bhagavaan」(バガヴァーン)は至高の絶対者であり大霊〔パラマートマ〕です。「Bhaga」(バガ)という語は、サムバルタとバルタを意味します。サムバルタは宇宙の創造の原因である者です。バルタは宇宙を維持し保護する者を指します。これはつまり、「Bhagavaan」(バガヴァーン)は創造と保護の力を有している者であるということです。「Bha」(バ)は「カーンティ」(光輝)と「シャーンティ」(平安)を意味します。「Ga」(ガ)はすべてのものに浸透している者、「vaan」(ヴァーン)は能力を持つ者という意味です。したがって、「Bhagavaan」(バガヴァーン)とは、宇宙を照らして平和をもたらす者を指しているのです。
現代人は神性の内的な意味を理解しようとしません。この世界に神とは別のものは存在しません。現象界で見られるものには、すべて神が浸透しています。人に自分が行為者であり享受者であると感じさせているエゴに満ちた思い上がりが、人間の破滅の原因です。そのようなエゴは根絶されねばなりません。人間は自分の神性を顕現させようと努めなければなりません。そうして初めて、世界に平和と安全が確立されるのです。
子供に対する親の責任
神の愛と純粋さを経験するために、あらゆる努力をすべきです。愛を確実に手に入れた人は、何でも成し遂げることができます。その人には、手の届かないものは何もありません。ですから、神の恩寵にふさわしい者でいるべきです。神の恩寵がなければ、人間は動物にとどまります。人間は、自分の五感をコントロールし、善い性質を身につけ、理想的な人生を送るよう努力すべきです。そうした理想的な人生を歩む子供を育てる責任は、第一に親にあります。したがって、親自身が自分を改める必要があります。
今、国中の親たちは、わが子の行いを憂い、まったく幸せではありません。親たちは、わが子の行いを嘆いていますが、その責任は自分にあるということに気づいていません。もし親が子供を正しい方針に沿って育てていたら、子供は道を踏み外すでしょうか? 親が子供をいろいろと甘やかし、野良犬のように通りをうろつくことを許しているのです。そんな子供をどうやって更生させることができるでしょう? 無理な話です。富が増えると傲慢さが増し、道徳は低下します。
神の愛がなければ人間の存在はまったく価値がないということを、人は悟るべきです。ジャターユのような鳥が神の恩寵を得て、シャヴァリーのような素朴な老婆が神の愛を得ましたが、現代人は、学識や科学的知識はあっても、神の愛を確保しようとしません。そのような教養や科学に何の意味があるでしょうか? 真の科学は、国家の進歩を促進するために努めるはずです。ところが、今、科学の名の下に世界が破壊されつつあります。
教育は、他者から搾取する寄生虫の階級を生み出してはなりません。教育は、善良な性質を促進するのに役立つものであらねばなりません。
勝利は神の恩寵によってのみ得ることができる
学生諸君は、かつてこの国は人々が真実の正しい生活を送る土地として知られていたことを思い出すべきです。クリシュナは、神とダルマを最も重視するようにとアルジュナに言いました。パーンダヴァは、ダルマを守り、神を固く信じていたからこそ、最終的にすべての繁栄と幸福を享受することができたのです。神への愛があったからこそ、不屈の精神ですべての問題と困難に耐えることができたのです。神を無視したカウラヴァの運命はどうなりましたか? ドリタラーシュトラの百人の息子のうち、生き残った者は一人もいませんでした。あらゆる資材があり、勇敢な指揮官を味方につけても、神は彼らの味方ではなかったのです。真の勝利は、神の恩寵によってのみ勝ち取ることができるのです。
学生諸君! 神の愛を確実に得るために努力しなさい。今、愛は五感を満足させるために悪用され、嘆かわしい結果になっています。
(スワミはここで聖賢ヤーグニャバルキヤとその妻マイトレーイーの間で交わされたこの世のものへの執着をめぐる対話に言及し、マイトレーイーは聖賢同様に世俗の財産を手放す準備ができていたということを指摘なさった)
今、そうした夫婦は希有(けう)です。徳の高い子供を産む、そのような夫婦がいなければいけません。徳の高い子供だけが、国に名声をもたらすことができるのです。
手を善い行いをするのに使わない息子、舌を主の御名を唱えるのに使わない息子、心に真理と慈悲を抱かない息子が、何の役に立つでしょう? これらは人間の生活を崇高なものにする三重の清らかさです。
学生諸君は、人生を人のために捧げるべきです。愛を育みなさい。アヴァターを世に送り出した過去の偉大な母たちを思い出しなさい。今日を母の日とすることの内的な意味は何でしょうか? それは、女性はそのような立派な母親になるべきであるということです。父親は模範的な行動をとるべきです。父親が正しい模範を示していない場合、子供は父親を正す勇気を持つようにすべきです。しかし、残念ながら、模範的な親も、模範的な子供もいません。学生諸君! あなたのハートを愛で満たしなさい。
サティヤ サイ ババ述
1992年5月6日
イーシュワランマデー
ブリンダーヴァンのカッリャーナ・マンダパムにて
Sathya Sai Speaks Vol.25 C11
深みのある趣味
昨今では、人はふと自分の心に浮かんだことをそのまま行い、話すことを習慣にしています。良心や道徳感や礼儀による規制がなくなっています。あまりにも邪悪な人、自らの凶運へと堕ちることに決めた人には、忠告の必要はありません。薬は病気の人のためにあるのであって、すこぶる健康な人やすでに死んでしまった人のためにあるのではありません。忠告は、疑念、心配、動揺に苦しんでいる人のためにあります。その忠告はシャーストラ〔経典〕や聖典の中にあります。
手紙は、ひとたび内容を心に留め、手紙が伝えている指示を把握したら、捨てることができます。それと同じく、シャーストラや聖典は、ひとたびそれを読み、理解し、従ったなら、脇に置くべきです。シャーストラや聖典は何度も何度も読み返すことを目的としているものではありません。
聖典は、あなたはラーマイアフでもカルミアフでもビーマイアフ――あなたが自分のものだと誇示している、今あなたに付いている名前――でもなく、本当のあなたはすべての創造物を動かしているアートマと同一の存在であると断言しています! ギーターはまさにこの真理を教えています。このことを知っている者が「アルジュナ」で、知らない者が盲目の王「ドリタラーシュトラ」です! 「ドリタ」は「固執する」を意味し、「ラーシュトラ」は「国家」を意味します。盲目の王、ドリタラーシュトラは国家に固執し、王国の半分の正当な所有者〔パーンダヴァ兄弟〕に5つの村を譲ることさえ拒みました! ドリタラーシュトラは執拗(しつよう)に貪欲でした。ドリタラーシュトラは「自分」ではないものに執着し、それが破滅を招きました。
あなた自身を愛するように、すべてのものを愛しなさい。あなたがそれ以上愛することはできません! なぜなら、器にはその器の容量しか入らないからです。容量以上を入れることはできません。あなたは「自分」を一番愛しています。つまり、本当のあなたである「神」を、です!
惑わされている人は泥棒を主人にしてしまう
門番は、泥棒が家に入らないように警戒しなければなりませんね? 人間の体は寺院であり、そこには神が祀られています。その警備員は、シャマ〔寂静(じゃくじょう)〕とダマ〔感官の制御〕、つまり、感官と感情のコントロールです。もし警備員が無能であったり怠けていたりすると、色欲や貪欲、怒りや妬み、憎しみや慢心が寺院に忍び込み、寺院中に広がって寺院を支配するようになります。人はあまりにも惑わされていて、そうした泥棒を盗みに入った家の主人であるかのように礼遇しています! 自分の心(マインド)の主人でありなさい。目を覚ましなさい。泥棒があなたの宝物をつかむ前に、立ち上がって泥棒と対決しなさい。
その宝物とは、すべてものの内にある、神の意識です。もし家に泥棒が入らなければ、主人はその宝物を自分のために利用することができますが、泥棒が入ったら、主人は「創造物との親しい関係」から利益を得ることはできなくなります。主人は、自分は体である、自分は異なっていて独りである、自分の周りには友人や敵がいて自分を傷つけようとする陰謀に悩まされている、と感じています。主人は他人を強く愛しておらず、恐怖や好意に苦しんでいます。
性格や行動の欠点を生み出す根本的な愚かさとは、自分のすることは常に正しく、正当であると信じていることです! これは、知らない間に作用している「エゴ」というウイルスの影響です。ある時、農夫が商人の飼っていた凶暴な犬に噛まれてしまいました。農夫は自分の身を守るために、その時に持っていた頑丈な棒で犬の頭を一撃しました。凶暴な犬は死に、怒った商人は農夫を警察署に連れていって農夫を告訴しました! 判事の前で、商人は、「農夫は一番ダメージを受けやすい頭部以外を殴ることができたはずだ」と主張しました。その犬は自分のペットだったからです! 一方、農夫は、「犬は歯で噛んできました。もし尻尾で噛んできたら、尻尾を叩くこともできましたが!」と答えました。人は自分に有利なことが正しいことのように見えるものであり、相手の立場に立って物事を考えることはあまりありません。これは、終わりのない厄介ないざこざへとつながります。
それぞれの場所には固有の波動がある
食べる物は、食材を集める人と、料理を作る人と、給仕をする人が放つ、微妙な悪とは無縁の、清らかなものでなければなりません。そうです、サーダカ〔霊性修行者〕は、これらすべてに注意深く気をつける必要があるのです。生活する場所も、住む人の性格や理想に知らない間に影響を与えています。ラーマクリシュナ・パラマハンサは、マトゥラー〔クリシュナが統治した都〕やヴァーラーナシーといった聖地で得られる平安についてよく語っていました。ガンジス川は、海までの長い旅の間中どこでも、聖河であることに変わりありませんが、リシケーシュ、ハリドワール、カーシー、プラヤーグといったいくつかの川岸の場所は、特別に霊的な波動で満たされており、サーダカが自分の意識をすべてのレベルで浄化するのに役立ちます。
それぞれの場所には特有の波動があり、それが住む人に影響を与えます。ある悪名高い強盗殺人団の一員が、密林の奥地に隠れ家を作りました。夫婦二人がひどい雨に降られ、そこに雨宿りをしに行きました。その夫婦がその小屋の残酷で貪欲な波動に汚された空気に影響されることは、さほどありませんでした。しかし、密林を歩いていて雨から逃れるために数分後にその家に走っていった僧侶の清らかな心は、たちまち黒く染まってしまいました! 清らかな心は、すぐにその黒い塊を吸収してしまったのです。僧侶は、夫婦を殺して身につけている宝石を奪ってしまおう、そうすれば自分の道場を立派なものに建て直し、世界中の人にヨーガを教えることができるだろうと考えている自分に気がつきました。僧侶は自分を恥じて、再び雨の中に飛び出していき、自らを破滅から救いました!
これこそが、霊的な志を持つ人に、サットサンガ(善い仲間)や敬けんな仲間を強調する理由なのです。敬けんな人たちは利己心がなく、自分のことしか考えないということはありません。彼らは求道者の最高の友であり、求道者以外の人の友です。サットサンガの中にいる時、あなたの耳にはフィルターがかかります。あなたは、ためにならない害のあることは決して聞かず、ためになることだけを聞くでしょう! 雨をもたらす厚い雲のように、それらは低迷している人や弱い人の間に垂れ込めて、喜びと勇気の雨を注ぎます。果実がたわわに実った枝のように、それらは飢えた人の手の届く所に枝をしならせます。
詩人の役割は人間社会の君主の役割
今日の夕方、私たちは何人もの詩人が自作の詩を朗読するのを聞きました。詩人は「カヴィ」と呼ばれますが、それは私たちの古来の言語であるサンスクリット語では最高の価値を含んだ語なのです。
カヴィム プラーナマヌシャースィターラム
――カヴィ(詩聖)は「時間を超越した」存在、
人類の進歩のための法則を作る者
カヴィ(詩聖)は、高められた直観的な能力によって、始まりも終わりもない時間の広がりを認識し、神は自分の中にも他人の中にも宿っていることを体験し、主体と鏡と反映を知っています。それはまさしく、君主の役割であり、人間社会における真の詩人の役割です。
自分の才能をはした金や安っぽい名声と交換する詩人は、韻を踏んでいるだけで、それすらもできないことが多いものです! 彼らは、自分たちの食卓からパンくずを放ってくれる――いくらかのイドリー〔インドの蒸しパン〕や一杯のコーヒーを与えてくれる――パトロンや寄付者を、賛美しはじめます。そんなことをする人は腰抜けであり、社会の汚点です。詩人は、高い理想を持っていなければなりません。国民の文化への熱烈な愛で自らを満たしていなければなりません。詩人は、一粒のちりの中に、一瞬の光の中に、一滴の雨の中に、一吹きの空気の中に、すべての詩人の中で最も偉大な詩人である神の御業(みわざ)を見なければなりません。詩人の内なる喜びは、平安から至福への道に沿って押し寄せてくるものでなければなりません。詩は、蜂蜜のように甘い響きで耳を満たすもの、軟膏(なんこう)のように胸の痛みを癒すものであらねばなりません。
過去の詩はこうした性質を備えていたので、それらのインスピレーションは永遠のものです。それらは人間の根源的な永遠の渇きを扱っており、渇きを癒す甘露が豊富に含まれています。それらは人を満足させ、力をつけてくれます。霊性修行、自分の意識を拡大すること、自分の思いやりの心を広げること、すべての人の中に見え、すべての人を通して見える、自分自身との接触を深めることをしないなら、詩を書くことは無益な趣味にすぎません。
詩を書くことに取り組む前に、平静と等しい見方を培いなさい。
サティヤ サイ ババ述
ダシャラー祭(ナヴァラートリ祭)
プラシャーンティ ニラヤムにて
1969年10月20日
Sathya Sai Speaks Vol.9 C28
人生を実りある有意義なものにさせなさい
ブラフマーナンダム、パラマスカダム、
ケーヴァラム グニャーナムールティム、
ドヴァンドヴァーティータム、
ガガナ サドルシャム、
タットワマッスヤーディ ラクシヤム、
エーカム、ニッティヤム、
ヴィマラム、アチャラム、
サルヴァディー サークシブータム、
バーヴァティータム、トリグナラヒタム、
サッドグルム
〔神は、ブラフマンの至福の体現者であり、
この上ない歓喜を与える者、
究極なる叡智の具現であり、
二元性を超え、大空のようであり、
タットワマスィという大格言によって示され、
一つであり、永遠であり、
純粋であり、不動であり、
理知のあらゆる働きの目撃者であり、
あらゆる心の状態を超越し、
三つの属性を持たない、
真のグルである〕
愛の化身たちよ! 人はヴェーダの神秘と内的意味を理解するために高潔な性質を養うべきです。ヴェーダで使われている用語は時間と空間の壁を越えています。
「ブラフマーナンダム」(ブラフマ アーナンダ)という言葉を考えてみましょう。これは永遠の至福を意味します。こうした言葉は、物質的な快楽から得られる喜び(ローカ アーナンダ)と比較することによって理解することはできません。「ブラフマ」という語は、広大さを意味する語根「ブリハト」から派生したものです。ブラフマ アーナンダは、変わり得ないものです。それは真の無限の至福です。それはまた、一つであるという体験から生じる至福を意味する、アドワイタ アーナンダ〔不二の至福〕と呼ぶこともできます。それはまた、ニルグナ アーナンダ(姿形を超越した至福)やニラーカーラ アーナンダ(属性を超越した至福)とも表現されることもあります。
「パラマスカダム」とは、至高の幸福を意味します。これは世俗的な幸福や五感の快楽とは何の関係もありません。それは永遠の至福の体験と同じものです。
「ケーヴァラム」とは、時間と空間と状況の制限を超越したものという意味です。
「グニャーナムールティム」は、英知の人という意味です。ここでのグニャーナとは、一つであるという体験のことです。それは体と心(マインド)と知性を超越しています。「アドワイタ ダルシャナム グニャーナム」(不二一元の体験は真の英知なり)。
人間がこうした類いまれな英知を理解することなどできるでしょうか? ヴェーダには、こういった神聖な意味に満ちた言葉がたくさんあります。神という、無属性で、古来よりの、永遠で、常に新しく、清らかで、汚れていないものだけが、ヴェーダの原理の内なる意味を説明することができます。
「ドヴァンドヴァーティータム」とは、幸せと悲しみ、善と悪、功徳と罪など、あらゆる二元性を超越したもののことです。
「トリグナラヒタム」とは、三属性であるサットワ〔浄性〕、ラジャス〔激性〕、タマス〔鈍性〕を超越したもののことです。属性は姿形と結びついています。ですから、姿形のないものには属性がありません。ヴェーダには4つの大格言(マハーヴァキャ)が含まれています。それらは、プラグニャーナム ブランマー(智慧はブラフマンなり)、アヤム アートマ ブランマー(このアートマはブラフマンなり)、タットワマスィ(汝はあれなり/汝はそれなり)、アハムブランマースミ(私はブラフマンなり)です。無属性の原理は、これら4つの宣言さえも超越しています。
「エーカム、ニッティヤム」とは、永遠で、無二のもののことです。ヴェーダは、「エーカム エーヴァ アドヴィティーヤム ブランマー」(神は唯一無二である)と宣言しています。「オーム イッティエーカ アクシャラム ブランマー」(一音節のオームはブラフマンなり)。
「ヴィマラム、アチャラム」は、清らかで、安定しているもののことです。この宇宙では、太陽、月、惑星などの天体は常に移動しています。映画館のリール〔フィルムの一巻き〕は1秒間に16コマという高速で動いているということを現代の学生たちは知っていると思いますが、心(マインド)の動きの速さは推し量れないほどです。それほどまでに揺れ動く心には、神という、安定し、変化せず、無属性であり、最高の至福と幸福を体現しているものを理解することは不可能です。だからこそ、古代の聖賢たちは、「究極の幸福の権化であるお方に敬礼いたします」と祈ったのです。体や心と結びついた幸福は、まったく幸福ではありません。内なる幸福(ニヴリッティ)こそが、真の幸福です。
神だけが永遠の至福を与えることができる
神の原理を理解することは非常に困難です。神性を経験するためには信仰心が非常に重要です。信仰心があるところには、愛があります。愛があるところには、平和があります。平和があるところには、真理があります。真理があるところには、神性があります。神性があるところには、至福があります。ですから、神性だけが永遠の至福を与えることができるのです。世俗の幸福は一時のものです。これに関連して、アーディ シャンカラ〔初代シャンカラ〕はこう述べました。
マー クル ダナ ジャナ ヤンヴァナ ガルヴァム
ハラティ ニメーシャート カーラハ サルヴァム
(若さ、お金、子孫を誇ってはならない。
それらは一時のものにすぎない)
世俗の幸福は惑わしであり、五元素や五感と結びついています。それは外への道(プラヴリッティ)に通じるものです。
人間の体は5つの鞘(コーシャ)でできています。食物の鞘(アンナマヤ コーシャ)、生気の鞘(プラーナマヤ コーシャ)、心(マインド)の鞘(マノーマヤ コーシャ)、理智の鞘(ヴィグニャーナマヤ コーシャ)、歓喜の鞘(アーナンダマヤ コーシャ)です。体は食物の鞘です。体を動かしているのは生気の鞘です。生気の鞘の先には心の鞘があります。人間が調べられるのはこの3つの鞘だけです。人間には理智の鞘と歓喜の鞘を理解することは不可能です。なぜなら、人間は五感に縛られているからです。
五感には究極の真理を理解することができない
ブッディ グラーヒャム アティーンドリヤム、すなわち、五感には究極の真理を理解することができない、と言われています。どんなに知的であっても、内なる道を歩まなければ真理を理解することはできません。同一の体が、起きている状態、夢を見ている状態、深い眠りの状態という3つの状態すべてにおいて存在していますが、ある一つの状態であなたが見たものは他の状態では見ることができません。なぜなら、それらは外への道につながっているからです。真理を理解するためには、外への道を捨てて内への道をとる必要があります。
この体が7歳のとき、プッタパルティの小さな村で、コレラやペストといった恐ろしい伝染病が猛威を振るいました。恐れをなした親たちは、子供が家の外に出るのを許しませんでした。けれども、子供たちは、私を愛するがゆえに、親に告げずに私のところにやって来ました。全員が6歳から8歳の年齢層の子供たちでした。
ある日、12人近い男子が私の周りに集まってきて、不安そうな口ぶりで言いました。
「ラージュ、僕らの村でコレラやペストが流行っていることが分かったんだ。とても危険で、命にかかわるんだって。僕たちはどうなるの?」
私は言いました。
「どんなに予防したとしても、体はいつか滅びるものだ。だから、死ぬことを恐れてはいけない。神さまを黙想して、病気に打ち負かされないように気をつけるんだ」
少年たちは、どのような神の姿を思い浮かべたらいいかと私に尋ねました。彼らは皆、とても純真無垢(じゅんしんむく)でした。当時、ここは人口106人のとても小さな村でした。彼らには自分たちはどのような神の姿を崇拝すべきなのか、考えもつかなかったのです。
スワミが病気を追い払った方法
ランプを灯し、それを夕方6時にバザールに置いてバジャンをするようにと、私は少年たちに言いました。彼らはどんなバジャンを歌えばいいのか分かりませんでした。そこで、私は彼らのためにバジャンをいくつか作りました。私は彼らに言いました。
「外に神さまを捜す必要はない。神さまは僕たちの中にいるんだ。黄土色の服を着て、足に鈴輪を付けて、手に持ったターラムをたたきながら村を回って、怒りと欲望という悪い性質を取り除くんだ」
当時は、夕方5時を過ぎると誰もサティヤンマ寺院の先に行く勇気はありませんでした。なぜなら、その先は村から遠く離れていて、寺院の敷地の境界を越えた所には幽霊が出ると信じていたからです。
私は、幽霊も魔物もいないと言って自信を与え、神の御名を唱えることでコレラやペストの病気を追い払うようにと助言しました。私たちは、足に鈴輪を付け、ターラムを鳴らしながら、チットラーヴァティー川の川床までバジャンを歌いながら歩いていきました。3日間という短い期間でコレラやペストを根絶してくれたのは、神の御名でした。
両親は子供たちを私のところに連れてきて、疫病から救ってくれたことに感謝の意を表しました。彼らは言いました。
「ラージュ、君が子供たちに勇気と自信を植え付けてくれたことに恩を感じている。子供たちは学校ではなく君のところに行かせる。どうか子供たちが幸せになるのに必要な教育を与えておくれ」
毎日、夕方6時になると、子供たちは私の家に集まり、夕食をとった後、授業を受けました。子供たちは、私を「授業の達人」と呼んでいました。彼らの両親は、グル ダクシナー〔師への謝礼〕として3パイサの月謝を出したがりましたが、私はきっぱりと断りました。子供たちは毎夕、数字やアルファベットを学ぶために私のところに来ていました。それらの学びを全面に出しながら、私はその中に価値教育を組み込んでいました。悪い仲間に入らない、批判や中傷にふけらない、良い習慣と良い性質を身につける、親を敬い親の言うことをきく、といったことを私はよく助言していました。以降、子供たちの行動や考え方に明らかな改善が見られました。
スワミのバジャンを作る才能
月夜の晩には夕方6時にチットラーヴァティー川へ行き、ようやく戻ってくるころには夜の11時になっていました。年長者も数人付いてきて、カバディ〔南インド発祥の国技〕などをして過ごしていましたが、子供たちはやりたがりませんでした。私が何度言っても、子供たちはそうしたゲームに加わろうとしませんでした。それよりも、バジャンや私のそばにいることに興味があったのです。子供たちは、私にバジャンをリードしてほしいと頼むこともありました。このようにして、私たちはチットラーヴァティー川でバジャンを歌って過ごしたものです。子供たちはよく、新しいバジャンや歌を作ってほしいと頼んできました。彼らは私をべた褒めしました。私は子供たちに、何か望みがあれば言ってほしいけれども、私を褒めるのはやめてもらいたいと言っていました。
ある日、コッテ・スッバンナという名の薬剤師が、カマラープラムからプッタパルティにやって来ました。彼は私の作曲の才能についていろいろなことを聞き、新しい薬の宣伝になるような歌を書いてほしいと頼みに来たのです。彼はスッバンマのところに行って私のことを尋ねました。スッバンマは言いました。
「ラージュのことはよく知っていますよ。彼は村一番の良い子です。性格も行いもお行儀も良い子です。それだけでなく、他の子たちにも良いことを教えています」
ある日、スッバンマはコッテ・スッバンナを昼食に招きました。昼食をとっている時、彼は私の作詞作曲の腕前について疑問を口にしました。私のような小さな子供が市場で新薬が売れるような歌詞を書くことができるというのは信じがたいと、彼は言いました。そこで私は、ならば誰か自分が信用できる人のところへ行ったほうがいいと言って、彼を追い返しました。
私は子供たちに大きな愛を注いでいました。ケーシャンナ、ランガンナ、スッバンナ、ラマンナは、私が毎晩河原に連れて行っていた子供たちです。彼らの純真無垢、清らかさ、そして、私への愛は、言葉ではとても表現できません。ある7歳の少年は、とても疲れているように見えるから少し休んだほうがいい、自分がひざ枕をするからしばらく横になってほしいと、私に言いました。その様子を見て、他の子供たちもひざ枕をする特権を得たがりました。そこで彼らは、全員平等にチャンスが与えられるような方法を考え出しました。それは、全員が一人ずつ順番に私の頭を膝に乗せ1から50まで数を数え終わったら次の子供に交代するというものでした。全員が私に奉仕する機会を逃すことなく、私は全員を満足させました。
スワミは薬を宣伝する歌詞を書く
ある日、コッテ・スッバンナが再び私のところにやって来て言いました。
「ラージュ、この子たちはみんな君の指示に従う心積もりだ。みんな歌がうまくて、声もいい。どうか私の新しい薬を宣伝する歌をいくつか作って、この子たちにそれを歌って村中を回るように言ってくれないか。報酬を払う用意はできている」
私は彼に言いました。
「僕はギブ・アンド・テイクの商売は好きではありません。この子たちもそれを認めません。とにかく、その薬はどんなものかを正確に教えてください。それに応じた歌を作りますから」
彼は、その薬はバラ・バースカラという名前で、いろいろな病気を治すことができると説明しました。私はその薬の効能をテルグ語のきれいな歌にしました。
さあ、子供たち、おいで、
新しい薬、バラ・バースカラが出たよ。
胃の痛み、消化不良、栄養失調、手脚のむくみ、
いろんな病気に効くすごい薬だよ。
その薬はコッテ・スッバンナの店で手に入る。
かのシュリ・ゴーパーラチャルヤ先生が作ったすばらしい強壮剤だ。
コッテ・スッバンナはこの歌詞をとても気に入り、広告用にそれを大きな紙に書かせました。彼は運がよかったのか、私は5学年と6学年の授業をカマラープラムで受けることになりました。コッテ・スッバンナは、私のカマラープラム滞在を薬の宣伝のために最大限に活用しました。
アーンジェネーヤはスワミが寺院でプラダクシナーをすることを止めた
私は、幼いころから、子供たちにとってインスピレーションの源でした。他人を傷つけることは避け、自分の義務を誠実に遂行するようにと、私は子供たちに力説したものです。マーガ月〔西洋の暦の1月から2月〕には、朝4時に子供たちをアーンジャネーヤ(ハヌマーン)寺院に連れていきました。中には幼い子もいて、そんな早い時間には起きられませんでした。そこで私は、その子たちを近くの池まで連れていって沐浴をさせ、それからお寺に連れていっていました。子供たちがプラダクシナー(御堂の周りを時計回りに歩く礼拝)をしている間、私はお寺で座っていました。
ある日、子供たちが、私も一緒にお寺を回るべきだと言い出しました。私はとうとう彼らに負けて寺院を回りはじめました。すると、信じられないかもしれませんが、アーンジャネーヤがやって来て、こう言って私が寺院を周るのを止めたのです。
「おお、主よ! 私のほうがあなたの周りを回らなければならないのです! そんなことはなさらないでください」
一方、子供たちはアーンジャネーヤを普通の猿だと思いました。私は子供たちに、アーンジャネーヤがやって来て、私がお寺を回ることを許してくれないのだと言いました。
この事があってから、子供たちのハートに大きな変化がありました。子供たちは、アーンジャネーヤ寺院で目撃したことを村中の人に話して回りました。そのニュースはカラナム・スッバンマにも届きました。
翌日、彼女はこう言って私を家に招きました。
「ラージュ、今日はドーサをこしらえたので、食べに来なければいけませんよ」
当時、イドリーやドーサといったものは、お金持ちの食べ物だと考えられていました。私はスッバンマは子供たち全員のためにドーサをこしらえてくれました。
サットウィックな料理の必要性
村人たちは、私に相当な尊敬の念を持ちました。プッタパルティの人々が生まれて初めて神のことを考えるようになったのは、サティヤ・サイ・ババのおかげです。それはしだいに他の村にも広がっていきました。私はよく村人たちに、非菜食、お酒、喫煙を控えるよう、熱心に勧めていました。そして、サットウィック・フード〔浄性の食物〕の必要性を強調しました。
エーカーダシーのお祭りには、チットラーヴァティー川の河原で牛車(ぎっしゃ)レースが行われていました。速く走らせるために牛を鞭(むち)で打つのが常でした。私は子供たちに、自分の父親に牛を鞭打つのをやめるよう要求するようにと言いました。今だけでなく、当時でさえ、私は非暴力の原理を説いていたのです。
当時、村では闘鶏が盛んでした。雄鶏(おんどり)の脚に小さなナイフをくくり付け、どちらかがが死ぬまで闘わせるのです。その過程で、もう一羽の鶏もひどい怪我(けが)をしていました。私は村人たちに、人は善行を競うべきであって、そのような残酷な行為を競うべきではありませんと言いました。
いつも良いことをしている人は決して評判が悪くなることはない
ある日、この体の父親であるペッダ・ヴェーンカマ・ラージュが、村のことには口を出さないようにと、私を叱りました。彼は、年長者のほうが物事をよく知っているのだから、度を越してはいけない、と言いました。私は、もし動物が殺されたり、不当に扱われたりしたら、黙っているわけにはいかないと言いました。彼は、私を納得させることができなかったので、この体の母親に助言をさせました。食事を出している時、彼女は私に言いました。「サティヤ、お父さんの機嫌を損ねるようなことをしてはいけません。お父さんの言うことを聞かないと、村で悪い評判が立ちますよ」
私は、自分は良いことをしているのだから人の言うことは気にしないと言って反論しました。私は、いつも良いことをしている人は決して評判が悪くなることはない、と強調しました。この体の祖父であるコンダマ・ラージュも、私の主張を支持してくれました。彼は村人たちを呼び、私のやっていることは村のためになると言ってくれました。彼も、暴力や賭博を慎むようにと村人たちに助言しました。そして、まとまりがないと村は険悪になる、と戒めました。こうした教えのせいで私への憎悪を募らせた人たちもいました。
私は、学校の授業に出るために朝7時までにブッカパトナムに行く必要がありました。先生方は私をとても可愛がってくれました。どの先生も、教室に入ってくると開口一番、「ラージュは来ているか?」と尋ねました。当時の私はどのようだったか分かりますか? 私たちの家は貧しい家でした。今の子供たちのように何十着も服を持っているわけではありませんでした。シャツと膝下丈のズボンが一組あるだけでした。学校から帰るとすぐに服を脱いで洗濯し、腰にタオルを巻いて服を干しました。そうやって、一組の服で一年間やりくりしていたのです。
平安が私の本質、愛が私の本性
学校で質問されたときには、私はいつもうまく答えることができました。他の生徒の多くは、質問に答えるのが苦手でした。同級生の中には25歳近い大人もいて、ほとんどがドーティーを着ていました。私はクラスで一番年下でした。ある日、私が問題にうまく答えると、メーブーブ・カーン先生に、怠けている生徒たちを叩きなさいと言われました。彼らのほっぺたに手が届くようにするには、机の上に登らなくてはなりませんでした。私は彼らのほっぺたを優しく叩きました。すると先生は、「私は君に、顔にターメリックを塗れと言いましたか? どうやればいいか、私がやって見せよう!」
プッタパルティに戻る途中、何人かの生徒が私を押して川の砂地に転げさせ、私の両足を引きずりました。彼らは私のシャツを裂き、私を泥の中に投げ込みました。そのようないじめを受けていた間、私はずっと平静を保っていました。平安が私の本質です。愛が私の本性です。平安はスワミの姿です。至福は私の決意です。
私はハヌマーン寺院にたどり着き、服を洗って着直しました。学生諸君はその時の私の状態を容易に想像できるでしょう。シャツが破けていても、布を留める安全ピンすらありませんでした。それを買うお金もありませんでした。誰かに頼む気もありませんでした。私は誰にも何も求めません。この決意を、私はその日から今日までずっと守り続けています。私はサティヤンマ寺院に行ってサボテンのとげを抜き、それをピン代わりにしてシャツの裂け目を留めました。もし、本気で自分の決意を守り続けていれば、どんなことでも成し遂げることができます。
あるとき、スッバンマが私に言いました。「ラージュあなたは弱ってきています。よく食べて、丈夫になりなさい」。友人たちは、家でこしらえたものを何でも私のために持ってきてくれました。でも、私はこう言っていました。「君たちの家では肉や魚を料理して食べている。そういう家からは何も持ってこないでほしい」。このようにして、私はプッタパルティの非菜食を減らしたのです。同じようにして、私は闘鶏や牛車レースといった動物への虐待を抑え、賭博の習慣も妨げました。
私たちが真実を守れば真実が私たちを守る
あるとき、私に敵対する者たちが、私が寝ていた部屋に火を放ちました。その時、外のベランダでは6歳から9歳の子供たちが10人ほど寝ていました。悪党たちは私の部屋に外から鍵をかけ、屋根に火を放ちました。子供たちは大声で、「ラージュ! ラージュ!」と叫んでいました。私は小さな窓から笑顔を見せて言いました。
「怖がることはないよ。ダルマ エーヴァ ハトーハンティ、ダルモー ラクシャティラクシタハ(ダルマを滅ぼせば滅ぼされ、ダルマを守れば守られる)。僕たちが真実を守れば、真実が僕たちを守ってくれる。この教訓を固く信じるんだ」
子供たちは目を閉じて、「ラージュ! ラージュ!」と、それがあたかもマントラであるかのごとくに唱えました。屋根は藁(わら)でできていたので、大火事になりました。すると突然、大雨が降りだして、火はすっかり消えてしまいました。土砂降りになったのはその小屋の上だけで、他の場所には降りませんでした。子供たちの喜びようといったらありませんでした。「ラージュ、ラージュ、すごい奇跡だ!」と子供たちは叫び続けました。「君がいなかったら僕たちは生きられないよ」。私は彼らを家の中に呼び入れて、グアバとバナナをあげました。子供たちは、この果物はどこから持ってきたのか尋ねました。私は言いました。「どうして気にするの? もらったものを食べればそれでいいんだよ」。大きな屋敷であろうと、道端の避難所であろうと、それは問題ではなく、眠れればよいのです。それと同じように、お腹がいっぱいになれば、それでよいのです。
スッバンマのスワミへの愛
スッバンマは翌日この出来事を知りました。スッバンマは偉大な魂の持ち主でした。スワミは彼女の命そのものでした。スッバンマは犯人を見つけるために綿密な調査に乗り出しました。犯人は捕まりました。スッバンマは彼らを村から追放するよう命じました。村の財産はすべてスッバンマが所有していました。スッバンマはとても裕福でした。すべての土地はスッバンマが所有していました。だから犯人たちに、自分の土地から出て行くようにと命じたのです。そこで、私は彼女の両手を握って言いました。
「どうか私のために彼らに危害を加えないで。知ってか知らずか、彼らは過ちを犯してしまいました。どうか許してあげて。どうか追い出さないで」
スッバンマが犯人たちにそのことを話すと、彼らは皆スワミのところにやって来て、スワミを肩に担ぎました。スッバンナやラマンナといった人たちでした。彼らはとてもプライドが高い人たちでした。そんな彼らが、私を肩に担いで言ったのです。
「君は前世でどこかの偉人であったに違いない。そうでなければ、これほどの気高さはありえない。君のおかげで、この村は次第に高い評判を得るようになるだろう」
スッバンマは言いました。
「彼を小さな少年だと勘違いしてはいけません。彼の力は落雷と同じです。どうしてあなた方に彼の本性を理解できるでしょう?」
その日から、スッバンマは私が外出するのを許しませんでした。私はスッバンマの家にいて、そこかから学校に通いました。スッバンマは立派な女性でした。当時、彼女は60歳でした。彼女はいつも私を探していて、「ラージュはいる? ラージュはいる?」と聞いていました。スッバンマは私が無事でいるのを確かめてから眠っていました。スッバンマは村の悪人から私を守ろうとしていたのです。
毒入りの食べ物でスワミの命をねらう
ある日、一人のブラフミンの女性がやって来ました。彼女はスッバンマに、家でスナックをごちそうしたいのでラージュを来させてほしいと頼みました。
スッバンマはその提案をあまり快く思いませんでした。スッバンマは不審に思い、この招待の裏には何か邪悪な意図があるのではないかと勘ぐりました。スッバンマは申し出を断り、私に言いました。
「ラージュ、私の承諾なしにはどこにも行ってはいけませんよ」
私は言いました。
「スッバンマ! どうしてあの人の願いの邪魔をするの?」
スッバンマは答えました。
「この招待の裏には何か悪い目的があるのよ」
しかし、私は反対して言いました。
「僕はあの人の願いをかなえなければ」
私はその場所に行きました。その女性はヴァダ〔豆粉の生地をドーナツ形にして揚げた南インドのスナック〕を作っていました。それは毒入りでした。私はそれを食べました。5分も経たないうちに、血液に毒が周って全身が真っ青になりました。それを知ったスッバンマが私を捜しに走ってきました。スッバンマが私を見つけたとき、私は言いました。
「心配しないで、あの人たちは、自分がしたかったことをしたのです。僕の面倒は僕が見ます」それから私はスッバンマに、コップに水を入れて手渡してほしいと頼みました。その水を飲むと、すぐに青みは消えました。スッバンマの怒りは限界に達していました。
「このような女たちはプッタパルティの評判を落とします。この村にはそんな人たちの居場所はありません。ここには正しくて気立ての良い人だけが住むべきです」
スッバンマはスワミの仲間たちの母親を呼んで言いました。
「〔今日から〕この子たちは皆さんの子ではありません。皆、私の子です。この子たちは、いつもラージュと一緒にいるべきです。すべての時間を一生ラージュと一緒に過ごすべきです」
最近まで、彼らは生きていました。諸君は皆、ブッカパトナム・サティヤナーラーヤナを知っているかもしれません。彼もそのうちの一人で、今も私たちと一緒にここにいます。彼は六年生の時の級友でした。その子たちは皆、スワミの所にやって来ました。スワミに対する彼らの汚れなき愛情、信愛、愛着を説明するのは難しいことです。カリユガは子供たちの心をむしばんでいます。
当時、スワミが眠くなって伸びをすると、その子たちの間で、誰がスワミの膝枕をするか競争が始まったものです。彼らは言いました。
「ラージュ、君が僕の膝の上で眠ってくれたおかげで、僕の体はどこも痛くない、僕は何だか喜びでいっぱいだ」
現代の子供たちも同じような気持ちになるとよいのですが。
「私は何も求めません。私はギブ アンド ギブのみです」
今、子供たちの心は正しくない感情でいっぱいです。「ヤッド バーヴァム タッド バヴァティ」(心のありようが、その人のありようとなる)。当時の子供たちは、とても清らかで純真無垢でした。スワミはその時、村人たちのためにそれらの性質を広める決意をしました。
単なるバジャンや、「ラーマ」、「ゴーヴィンダ」と唱えることは、偉大なことではありません。良い習慣を身につけなさい。模範的な性質を身につけて、良い評判を得るべきです。スワミは、学生諸君があの学生は良い性格だという評判を得たら、嬉しく思います。子供たちの振る舞いは、スタートから良いものであるべきです。だから私は、「早くスタートし、ゆっくり運転し、安全に到着しなさい」と言うのです。もし、幼い年齢から神聖な習慣を身につければ、模範的な人間に成長します。私と一緒にいた人たちは、今でも村々の輝く手本であり続けています。スワミがバンガロールから戻る途中に私を見ると、彼らは沿道一帯で「スワミ! スワミ!」と言って大喜びで挨拶をします。車で私の後を付いてくる人たちは、彼らが瓶に水をくんで運んで持ってきて、道路を洗っている様子を知っています。彼らは言います。
「スワミ、あなたは私たちのために水を運んでくれました。私たちはあなたに水をお返ししなければなりません」
私が彼らに「元気ですか」と尋ねようものなら、彼らは歓喜に満ちます。私が一銭もお金を蓄えないのは、この変容のためです。私は1パイサの財産も持っていません。私の全財産は私の学生です。私は何も求めません。私はギブ アンド ギブ、与え、与えるのみです。スワミのギビング(与えること)に限界はありません。帰依者は、何かを与えることによって、幸せにならなければいけません。スワミの唯一の関心事は帰依者たちの福利です。誰も私の福利について心配する必要はありません。私の福利は私の手の中にあります。ですから、真実と正義から離れることなく人生を送るなら、その人の人生は実りある有意義なものとなるでしょう。
1999年10月17日
プラシャーンティ・ニラヤムにて
Sathya Sai Speaks Vol.32 part2 C10
本当の時間割
人は「創造されたもの」に捕らわれて、自分は神聖な創造主の一部であるという事実が見えず、自分が包まれている肉体の鞘と自分を同一視して、すべての存在は一なる普遍的な絶対者の中で万物と一体であるということが見えていません。人は、霊的な規律や発見について無数の文章を書き、研究していますが、弁証法的な対立や議論に興じて混乱を悪化させてきました。しかし、そうした書物の少なくとも1ページか2ページを実践した人は、名声や勝利への欲望を持つこともなく、沈黙しています。その人は自分の奥底で幸せを感じています。その人は内なる畑を耕して愛の種を蒔き、それが不屈の花を咲かせてシャーンティ(平静)〔平安〕として結実します。これはこの国〔インド〕のリシ〔聖仙〕たちのメッセージです。
どの人にも、修正すべき3つの誤りがあります。それは、「垢」(あか、マラ、汚れ)、「注意散漫」(ヴィクシェーパ)、「覆い」(アーヴァラナ、隠蔽)です。「垢」というのは根本的な無知(アグニャーナ)のことで、それが10人目の人に10人目の人はいないと言わせるのです。(自分以外の他の9人だけを数えて自分が10人目であることがわからないこと) こうした無知すなわち「垢」は毒気であり、それが「覆い」を生み出します。「注意散漫」とはその無知の影響のことであり、それが、見当たらない人〔10人目〕を10人全員に川の中で探させるのです。
「垢」は現世と前世のカルマの結果〔行為の応報〕です。「垢」はニシカーマカルマ〔無欲の行為〕(行為の結果として生じる利益や損失に執着せずに行為をすること)によって取り除くことができます。「覆い」の影響は、サハナ(寛容)とアンニョーニャヤタ(互いのものであるという感覚)を培うことで克服できます。10人が相互の連帯感で結ばれていれば、誰も行方不明だとは思われなかったでしょう! 同様に、「注意散漫」もプレーマ(愛)によって克服することができます。愛は、一人ひとり全員を本人以外の人に明らかにすることができ、誰も「見逃される」ことにはならなかったでしょう。これは、アーナンダ(至福)を身につけるための方法――愛と献身と奉仕の方法です。
決して人に火傷を負わせたり傷つけたりするような表現を用いてはならない
完結へと導くために、他にもできることがあります。例えば、真実に忠実であることです。
マナッ サッティエーナ シュッダヤ テー
真実によって心(マナス、マインド)が清められる
真実は偉大な浄化装置です。真実は、汚れも罪も、欠陥も偽りも認めません。偽りは、嘘を語る人の舌、それを聞く人の耳、そして、それを舌から耳の鼓膜まで運ぶ空気を汚します。音には有益なものと邪悪なものがあり、それらは空気中にその反響音を生み出します。神への信仰心とそれが育む謙虚さから発せられる言葉は空気を清らかにしますが、虚栄心から発せられ、ニヒリズムや無神論によって罵倒する言葉は空気を汚染します。
空気をきれいにするような音声だけを使いなさい。辛辣であってはなりません。決して人に火傷(やけど)を負わせたり傷つけたりするような表現を用いてはなりません。そのような表現は憎悪と慢心の悪しき産物です。主を讃え、主の栄光を語りなさい。それはあなたと他の人々に課せられた義務です。
このヤーガ〔供犠〕が存在する理由は、ヴェーダの音はすべて神を讃えるものであり、ヴェーダが伝統的な学派で定められているとおりに正しい調子〔スワラ〕で唱えられるとその場の空気は確実に著しい変化を遂げ、その空気を吸った人の中に存在する悪が以前よりは少し減るからです。神への信仰心は、自分自身と他の人々に徐々に信仰心を染み込ませ、それによって世界はもっと幸せになるでしょう。
アメリカ人は月面を歩き、ロシア人は火星でピクニックをするかもしれませんが、両者とも共通の故郷である地球に戻らなければなりません。ラーマーヤナで、シーターにラーマとの再会の望みを捨てさせるために、あるときシーターの前にラーマの首が差し出されたのを皆さんは知っていますね。同様に、ラークシャサ(羅刹/悪鬼)たちはシーターの首をラーマの前に掲げ、ラーマに生きたシーターを取り戻す望みを捨てさせようとしました。首はどちらも相手をだますために用意された偽物で、本物ではありませんでした。それと同じように、人は、死んでいる衛星ではなく、生きている星、つまり、チャンドラ(月)ではなく、ラーマチャンドラという主――内なる衛星、内なる惑星、内なる動機や動揺を支配する主――に到達して、初めて真の勝利を主張することができるのです。
人の活動の本当の時間割り
人の内面の反応や動揺が神聖なものに変換されると、人が感官と心(マインド)と知性を通して経験するすべてのことが神聖な輝きを帯び、それらの神聖な核心が明らかになって、その人は愛の姿に形作られます。このヴィジョンが得られれば、人は世の中にいながら世の中に影響されずにいることができます。そうなると、すべての行いは、全能の神のために、神の恩寵によって、神の意志を通して行われるようになります。
家で、料理人や使用人や子守などに仕事をしてもらってはなりません。女性は、子供の世話や夫の世話を彼らに頼ってはいけません。そうした使用人のおかげで瞑想(ディヤーナ/坐禅)のための暇を得たとしても、霊的に得るものはありません。神への礼拝の行為として、すべての家事を行いなさい。そうすることは、家事という貴重な仕事を、お金を払って雇うお手伝いさんに任せることで手に入れる瞑想の時間よりも、実り多いものなのです。
男性も、一つのむなしいものから別のむなしいものへと飛び回り、昼夜を過ごすためのさらに意味のない方法を探して貴重な時間を浪費するのは、人生の主な目的にとって害であると感じなければなりません。喜びを広げ、力を与え、勇気を配り、悩んでいる人を慰め、足の不自由な人の歩行を助け、目の見えない人の目となる――これが人間の活動の本当の時間割りです。母なるインドは、子供たちがこれらの理想を捨て去り、礼拝される神としての権威の座をエゴに与えたために、物乞いの国に成り下がってしまいました。
私たちはここで、サティヤ・サイ・オーガニゼーションの役員の全インド大会を開催していますが、それは、彼らワーカーたちがこのメッセージをもう一度思い出すためです。ペトロマックス〔圧力式灯油ランタン〕のランプが暗くなったら、中に空気を送り込むと明るくなります。ここにいるランプたちは暗くなりがちなので、私たちは彼らをサットサンガ〔善人との親交〕のためにこの場所に呼び、彼らの内にインスピレーションと指示を送り込むのです。そうすると、彼らのバッテリーはさらなる奉仕のために再び充電されるのです。
インドは、常に高潔な人格者の側に立ち、警戒心を持って完璧に維持されています。そうした揺るぎのない強固な人格を伴わない学識やシッディ(ヨーガの力による技能/スィッディ)などの成果は、喜びを生むことのできないプラスチックの果物のような、まやかしの模造品です。心(マインド)が神の栄光と神の御名を唱えることに従事しているときには、狂った欲望の坂道に迷い込ませる誘惑は存在できません。1日2回、朝と夕に時間を割いて、舌が甘さを味わう時のそれぞれの御名の深い意味を十分に認識しながら、同じような考えを持つ人たちと一緒に全員で声を合わせて神の御名を歌うなら、自分の内にも外にも神は常に存在しているという気持ちを定着させるのにすこぶる役立つでしょう。
サティヤ サイ ババ述
ダシャラー祭(ナヴァラートリ祭)
プラシャーンティ ニラヤムにて
1969年10月19日
Sathya Sai Speaks Vol.9 C27
救いの御名
ラーマの物語を聞いたことのないバーラタ〔インド〕人はおらず、ラーマの寺院のないバーラタの村はありません。太古の昔から、バーラタの誰もがシュリ・ラーマの生き方を理想とし、その理想に従って生きることで人生のあらゆる瞬間を聖化しようとしてきました。バーラタは常に、霊性を欠いた人の生涯はまったく価値がないと考えてきました。
シュリ・ラーマチャンドラ〔月のごときラーマ〕は、惑星シュクラ(金星)がミーナ(魚座)に入る日に生まれました。ラーマが降臨した月は、ヴァサンタ・リトゥ(春)の始まりに当たります。それは太陽がメーシャ・ラシ(牡羊座)に入る時です。シュリ・ラーマが人間として化身したのは、この世の平和と幸福を促進するためでした。
ラーモー ヴィグラハヴァーン ダルマハ
(ラーマはまさしくダルマの化身)
それはあたかもダルマそのものが地上に化身したかのようでした。ダルマとラーマは切っても切れない関係です。
ラーマの生涯は前期と後期の2部に分かれています。前期では、ラーマはパラシュラーマやヴァーリやラーヴァナといった強大な人物を打ち負かした英雄戦士として描かれています。ラーマは肉体的な強さだけでなく、知性と人格においても優れていました。ラーマの美徳のすべてを述べるのはとうてい不可能です。
すべてのアヴァターは、6種類の力を持っています。それは、すべてを包含する繁栄、正義、名声、富、英知、放棄(無執着)です。神はこの6つの特性の持ち主です。シュリ・ラーマはこの6つの特性すべてを等しく持っていました。どの時代、どの場所でも、神のアヴァターは皆、この6つの特性を有しています。
真理とダルマの重要性
ラーマーヤナでの最も重要な概念は、サティヤ(真理/真実)とダルマです。バーラタ人が自分たちの命の息吹と見なしているヴェーダは、こう宣言しています。
サッティヤム ヴァダ、ダルマム チャラ
(真実を語り、ダルマにかなった行いをせよ)
父の誓いの言葉を尊重するために、ラーマはアヨーディヤーの都を離れて森に行くことを選びました。真実はすべてのダルマの基盤です。真実に勝る宗教はありません。ラーマは、父の約束を果たすため、イクシュヴァーク王朝の伝統を守るため、王国を守るため、そして、世界の幸福のために、真実を守る者として立ち上がりました。人間を名乗る者は皆、ラーマと同じように真実のために立ち上がるべきです。マハートマ(高潔な魂の持ち主)は、自分が話すこと、考えていること、行うことが完全に一致していると言われています。悪人の場合は、考えも言葉も行いもバラバラです。この定義によれば、ラーマはマハートマ(高潔な魂の持ち主)であり、ラーヴァナはドゥラートマ(邪悪な魂の持ち主)です。
3つのグナを象徴する3人の女性
ラーマは、生涯の最初の12年間に3種の女性に遭遇しました。供犠を守るために聖仙ヴィシュワーミトラと一緒に出向いた時、ラーマは女羅刹(おんならせつ)タータキーに出会いました。ラーマは何の葛藤も嫌悪も抱くことなく、タータキーを亡き者としました。ヴィシュワーミトラ仙の供犠が完了した後、ラーマは聖仙と共にミティラーの都に向かいました。その途中、ラーマは石に変えられていたアハリヤーに遭遇しました。ラーマはアハリヤーに生気を与え、彼女の悔い改めによって罪を赦(ゆる)し、夫のもとに連れ戻しました。ミティラーではシーターに出会いました。ラーマは何のためらいもなくシーターの求婚に応じました。この3つの出来事の内的な意味は何でしょうか? これらの出来事は、ラーマが少年時代から並外れた資質を示し、世の中の模範として際立っていたことを表しています。
ラーマが最初に遭遇した女であるタータキーは、タマス〔鈍性〕の性質の象徴です。ラーマはタマスの性質を破壊しました。アハリヤーはラジョーグナ〔激性〕の象徴です。ラーマはアハリヤーに正しい教訓を与え、清め、無事に元の場所に送りました。ラーマは、サットワの性質〔浄性〕の象徴であるシーターを自分のものにしました。バガヴァン〔宇宙のすべてを有する者〕は、サットワ〔浄性〕の側面だけをよしとして受け取ります。バガヴァンはサットワの性質に価値を置きます。バガヴァンはそれを守り、育てます。
今日では、3グナ〔属性〕であるタマス〔鈍性〕・ラジャス〔激性〕・サットワ〔浄性〕のすべてが、さまざまな割合で人間の中に存在しています。タモーグナ〔鈍性〕の存在は何を意味するのでしょうか? 鈍性の人にとって、真実でないものを真実と見なし、間違ったものを正しいものと見なし、悪を善と見なすのは当然のことです。現象界は無常であり、実体のないものですが、鈍性の心の持ち主は、現象界を永遠であり、実体のあるものと見なします。
激性の人は、識別力がなく、好き嫌いに左右され、無節操に行動します。衝動的な行動は、ラジョーグナ〔激性の属性〕が優勢な人の特徴です。性急で衝動的な行動のために、彼らはあらゆる種類の困難にさらされます。その過程で、彼らは人生を無駄にします。人は急いて(せいて)行動するのを避けるようにすべきです。急くと無駄が生じ、無駄は心配を生みます。ですから、急いてはいけません。神の探求においては、急くことがあってはなりません。神の顕現には、清らかさと平穏が必要です。平安のない人に幸福はあり得ません。
聖ティヤーガラージャは、ある自作の歌の中で、「平安がなければ幸福はない」と述べています。ティヤーガラージャはラーマの偉大な帰依者でした。帰依者として、ティヤーガラージャは多くの経験をし、歌を通してそれを世に伝えました。
Ramaという御名の持つ三重の力
Rama(ラーマ)という御名の内なる意味は何でしょうか?「R」「A」「Ma」という3つの音節は、人間が生まれてくることになる3つの原因、すなわち、「パーパム」(犯した罪)・「ターパム」(経験した苦悩)・「アグニャーナム」(自分の無知)を示しています。「Ra」はアグニ〔火〕の語根を表しています。「Aa」は月の語根です。「Ma」は太陽の語根です。アグニ〔火〕とは何を意味するのでしょうか? アグニ〔火〕はすべてを破壊して灰にします。「R」という文字は、人間が犯したすべての罪を破壊する力を持っています。「Aa」(月の象徴)という文字には、人間を苦しめる熱を冷まして安らぎを与える力があります。「Ma」は、無知の闇を払い、知恵の光を与えてくれる太陽を表しています。したがって、Ramaという単語には、罪を滅ぼし、平安を与え、無知を払拭するという、まさに三重の力があるのです。
Ram(ラーム)という単語を発するときには、まず口を開きながら「Ra」(ラー)という音を出します。口を開けている時、あなたのすべての罪が外に出て行きます。口を閉じて「m」(ム)と発声すると、出ていった罪が再び入ってこないよう、口がふさがれます。
誰もが、Rama(ラーマ)の御名に秘められた甘さ、神聖さ、神性を認識すべきです。それゆえ、ティヤーガラージャはこう歌いました。
「ああ、心よ! ラーマの御名の力をよく自覚して、ラーマの御名を憶念せよ」
ラーマの御名の意味するものをすべて完全に理解した上でラーマの御名を口にするのは善いことです。けれども、たとえその理解がなくとも、ラーマの御名の唱名にはあらゆる罪を破壊する力があるのです。
春の栄光
私たちは、ラーマという甘い御名を、清らかで汚れのないハートで、無私の信愛の精神で唱えることを身につけなければいけません。人間の心(マインド)には、月と太陽を象徴する神々が宿っています。知性は太陽から授けられたものです。しかし、心には2種類の鳥が入り込んでいます。1羽は、「私」、「私のもの」という感覚を育て、心をエゴで満たします。これは破壊的な力です。もう1羽は、執着や憎しみから解放される感覚を育みます。これは、心の中にある太陽の力を意味しています。太陽王朝に属するラーマは、後者の道を堅持しました。
ラーマの原理とヴァサンタ・リトゥ(春の季節)には意義深い関係があります。春になると、木々は新しい葉と花をつけてこの世を喜びで満たします。太陽の光が新緑の葉に当たると、葉は黄金色に輝きます。春になると、世界中が装いも新たに輝きます。新しい年の始まりは、さまざまな地域において、ニームの花〔苦味がある〕とマンゴーの実〔甘味がある〕を入れた特別な料理をこしらえて祝われています。この料理は、人生は苦しみと喜び、得ることと失うことの混合物であり、どちらも平常心を持って扱うべきであるということを、人に思い出させます。
春になると、マンゴーの花の香りが漂い、コーキラ(カッコウ)の鳴き声が聞こえます。吸う空気に喜びがあります。ヴァサンタ(春)ほどコーキラの鳴き声が甘美な時期はありません。コーキラの歌は耳に甘く響きます。私たちは、カラスが屋根に止まっていると追い払いたくなりますが、コーキラの歌は歓迎します。なぜそれほどの違いがあるのでしょうか? カラスは私たちに何も求めませんし、コーキラが私たちに冠を与えてくれたわけではありません。違いはその声にあります。カラスの鳴き声は耳ざわりです。コーキラの歌は耳に心地よいものです。発言が甘美であれば、話し手は慕われるということです。
神はすべての帰依者のハートの中にいる
ですから、人々は、甘く、心地よく話すことを身につけるべきです。甘美な発言は安らぎを与えます。それは真我を顕現させる方法です。シュリ・ラーマが好んで住む場所は、甘美に話す人のハートの中です。
あるとき、聖仙ナーラダが主ヴィシュヌの前に現れて言いました。
「ああ、主よ! 私は三界を往来し、過去・現在・未来を知っています。もし、私があなたに何か特別な情報を伝えたくなったら、どの住所に送ればよいのでしょうか? 仮の住所は欲しくありません。本籍はどこですか?」
ヴィシュヌは答えました。
「ナーラダ! 私の本籍を書き留めておきなさい。マドバクターハ ヤットラ ガーヤンティ タットラ ティシュターミ、ナーラダ(どこであれ私の帰依者が私の栄光を歌う所、私はそこに住むのだ、ナーラダよ)」
人々は、主にはさまざまな住所があると見なしています。ヴァイクンタ〔ヴィシュヌ神の天界〕、カイラーサ〔シヴァ神の住む山〕、バドリーナート〔ヴィシュヌ神の寺のある聖地〕、ケーダールナート〔シヴァ神の寺院のある聖地〕などなどです。これらはどれも、「~様方」と記す、立ち寄り先の住所にすぎません。直接の住所は、あくまでも帰依者のハートです。ギーターにあるように、「主はすべての生き物のハートの領域に宿っている」のです。主は遍在であるため、すべての人のハートに等しく存在するのです。それゆえ、ハートは「アートマ ラーマ」――主の存在によってアートマを喜ばせるもの――と描写されるのです。
ハートを神に捧げなさい
何をするにしても、他の人を喜ばせるためではなく、あなたのハートの中に住む者を喜ばせるため、あなたの内なる満足のために行いなさい。これは、あなたの良心の命じるままに行動することを意味します。そうした行為はすべて、神を喜ばせることになります。あなたの行いから自己〔アートマ〕の満足を得るためには、信仰心を養わなければなりません。満足があるときには、犠牲を払う心構えがあります。犠牲によって、神は顕現するのです。あなたの信仰心は、シュリ・クリシュナに対するパーンダヴァ兄弟の信仰心のように揺るぎないものであるべきです。
霊性を志すティヤーガラージャのような帰依者たちは皆、多くの試練と苦難を経験しなければなりませんでした。テルグ語のバーガヴァタム〔ヴィシュヌ神とその化身の物語集〕の著者、ポータナでさえ、地元の有力者に作品を捧げるようにと強要する多くの圧力と試練にさらされました。ポータナはシュリ・ラーマに対する強い信仰心のゆえに、断固としてそれに立ち向かいました。ポータナには、自分の作品をただの人間に捧げるよりも、自分のハートと魂をラーマに捧げるのだ、という覚悟があったのです。ポータナは完全にシュリ・ラーマに全託しました。ポータナはこう宣言しました。
「私が持っているものはすべてあなたのものです。私が受け取るものも捧げるものも、すべてはあなたからのものです。私は何も自分のものだと主張することはできません」
人々はさまざまな聖地に巡礼に行きます。巡礼者は、ベナレス〔ヴァーラーナスィー〕では主の御名を唱えながらガンジス河の水をガンジス河に捧げます。そういった捧げものには、どんな特別な価値があるのでしょうか? それは、あなたは主があなたに与えてくれたハートを主に捧げなければならない、ということです。これが真の全託です。ラクシュマナは、シャラナーガティ(全託)という教義の最高の模範です。
「私は、私の富、家族、すべてをあなたに捧げます、ああ、ラーマよ! あなたに帰依している私をお守りください」
この完全な全託こそが、ラクシュマナがランカーの戦場で倒れた時、ラーマにこう言わせたのです。
「妻や親類はどこの国でも得ることができる。しかし、血を分けた弟をどこで手に入れることができようか?」
このようにして、ラーマは兄弟愛の深さを体現しました。ラーマとラクシュマナの間の相互愛は最高位のものでした。
ラーヴァナが倒れた後、スグリーヴァとヴィビーシャナたちはラーマのもとへ行き、恵み豊かな国であるランカーを統治してほしいと訴えました。ラーマは、母親や母国を手放すことはできないと言ってその要求を断りました。ラーマは人類の手本としての役割を果たしたのです。
神への信仰心を持って困難に立ち向かいなさい
今日、誰もが「ラーム」「ラーム」と口にしています。けれども、ラーマが示した手本に従う人はごくわずかです。手本に従わない人は本当のラーマの信者ではありません。せいぜい「パートタイムの信者」と言われるのが関の山でしょう。真の信愛とは、主の御名を永続的に憶念し、その御名を常に瞑想し、ラーマの御姿をハートに抱いていることを意味します。
神への固い信仰心を身につけて、人生の浮き沈みに立ち向かう覚悟をすべきです。困難な時ほど、神を思い起こすものです。信仰心を身につけて困難に立ち向かうことは、それ自体が霊性修行です。ラーマは、ダシャラタ王の息子であり、ジャナカ王の義理の息子であったにもかかわらず、ダルマを守るために生涯において多くの試練に立ち向かわなければなりませんでした。パーンダヴァ兄弟は、正義を守るために多くの困難を経験しましたが、それゆえ、彼らの名前と名声は永遠に残ることとなりました。あなた方は、どんな問題や困難にも耐えられるだけの強さをお与えくださいと、主に祈るべきです。もしあなたが、ほんのわずかでも主の恩寵を手にすることができれば、山ほどの問題も乗り越えることができます。チャイタニヤ(チャイタンニャ)は断言しました。
「もしも、富や食べ物、妻や子、友人や仕事について思い悩んでいる時間のほんのわずかでも神の御足の黙想に充てるなら、人は恐れることなく死の使いと対面し、サムサーラ〔輪廻〕の海を渡ることができる!」
何時間も祈りに費やす必要はありません。心の底から神を思い、ほんのわずかな間でも自分を捧げることができれば、それで十分です。一本のマッチ棒でも、火を灯せば、何年も閉め切っていた部屋の暗闇を追い払うことができます。綿の山も火の粉一つで全部燃えてしまいます。同様に、たった一度でも心からラーマの御名を唱えることで、山のような罪も帳消しにすることができるのです。レコードをかけるように機械的に唱えるのはいけません。心の奥底から発せられるべきです。このバーラタという聖なる国に生まれたからには、自らの前にラーマ・アヴァターの理想の手本を据えて、ラーマの理想にかなった生活を送り、それらの理想を世に公言することによって、あなた方の人生をまっとうしなければなりません。この幸運に報いることができるような人生を送ろうと努力しなければなりません。愛を込めてラーマの御名を憶念しなさい。神は愛によってのみ顕現させることができるものであり、それ以外の方法ではできないのです。
シュリ サティヤ サイ ババ述
1989年4月14日
ラーマ神降誕祭
コダイカナルのサイ・シルティーにて
Sathya Sai Speaks Vol.22 C9
兵士と大将
神はあなたに、この素晴らしいチャンスを、この素晴らしい世界を与えました。この世は、心の平安を育むためのジムとして、そして、あなたの卑金属〔希少価値が高くない金属〕を価値ある通貨へと変えるための造幣局として使われるべき場所です。ですから、あなたは恩寵を注いでくれた神に感謝を捧げるべきなのです。昆虫でさえ感謝の気持ちを持っています! 一匹の蟻(あり)が氾濫した川を流れる枯れ葉の上に落ち、小さいハートで神に助けを求めました。すると、川の上を飛んでいたトビがその川めがけて急降下し、その葉っぱをくちばしに挟んで上昇しました。トビが葉っぱを魚や蛙と間違えるようにと神が仕向けたのです! トビはひどくがっかりしましたが、蟻は固い地面に降りることができて大喜びでした! 「神様がトビになって僕を助けてくれたんだ」と蟻は思いました。「僕はあのトビに、そして、すべての鳥に感謝しなくては」と蟻は決意しました。ある朝、その蟻がいつものように這い回っていた時、猟師が鳥を狙って矢を向けているのを見かけました。自分の命が一羽の鳥に助けられたことを思い出した蟻は、猟師が矢を放とうとした瞬間に猟師のかかとをチクリと噛みました。的は外れ、鳥は飛び立ち、救われました。蟻は恩返しをしたのです。
同様に、人も恩返しをしなければなりません。人は、あらゆる善と真と美を授けられていることに対して、神に大きな恩があるのです。講話を聞いたら、そのことに対して恩を返さなければいけません。それは、言われたことを反すうし、勧められた生き方のうち少なくともいくつかを実践することによって返すことができます。食べた食事は消化しなければなりません。そうすることで、血流が強化され、それが勇気や技能や体力へと変わるのです。生まれてきた世界は、注意と識別を持って見て学ぶべき場所です。「世界」という語は、私ではないすべてのもの、私が私のものと呼ぶすべてのもの、すなわち、身体や感官や心(マインド)や知性を意味しています。
霊性は愛のないハートでは育たない
神はどこにでもいます。神は万物です。そのせいで、神はどこにも、何の中にもいないように見えてしまうのです! というのも、神を知るためには、人は神を異質なもの、無類なるものとして認識する必要があるからです。私たちは、万物は自分にとって異質であり、すべてのものにはそれぞれ独自の無類性があることを忘れています!何を根拠にあなたは否定するのですか? 何を根拠にあなたは受け入れるのですか? 愛や真理や英知を否定することはできません。神は愛であり、力であり、真理であり、英知であり、美です。あなたが愛を受け入れるとき、あなたは神を受け入れているのです。霊性の若芽は、愛という野原でのみ成長することができ、愛のない人のハートの乾いた土壌では成長できません。
あなたのハートから塩分をすべて取り除き、主の御名という肥料を土壌に加え、信仰心という水を撒きなさい。それから、神性という苗を植え、規律という柵で囲い、不動という殺虫剤を散布しなさい。そうすれば、英知(グニャーナ)という豊かな収穫を得ることができます。それは栽培の作業からあなたを永遠に解放してくれるでしょう。バジャンをしたり、寺院を訪れたり、神聖な講話を聞いたりする人を笑う人たちは、その甘露を味わったことがなく、そのために偏見を持っているのです。彼らを不憫(ふびん)に思いなさい。というのも、彼らは自分が何を見逃しているかをわかっていないからです。
しかし、そういった人たちは、志を妨げることによって、志を持つ人を助けているのです! 人々は私に、「ババ! 不信心な者たちの策略に終止符を打ってください!」と祈ります。しかし、私はそうした中傷者たちがどれほど役に立つか知っています。黍(キビ)がある程度の高さまで成長すると、農夫が先の尖った農具で茎の周りの土を掘っているのを見かけたことがあるでしょう。そんなことをしたら根に傷が付いて黍がだめになってしまうと、あなたは心配になるかもしれません。そんなことはありません。その作業をすることで、黍はより良く、より丈夫に育つのです! ある種の果樹は、頻繁に剪定(せんてい)しなければなりません! 本物の信仰心を確認し、強固にし、増進させるためには、反対や批判、さらには真っ向からの非難さえ必要なのです。試練があって、初めて確信が深まるのです。くしゃみをしたら折れて落ちてしまうような鼻を持っていても、何の役にも立たないのではありませんか?
体の中に住まう者を見たいと切望しなさい
苦しいときにだけ神に助けを求める人がいます。テルグ語の諺(ことわざ)に「サンカタムヴァステー ヴェーンカタラマナ!」(困難が訪れるとヴェーンカタラマナ神を呼ぶ!)とあるとおりです。最近まで、ヴェーンカタラマナの霊場へと続く7つの丘の階段を上っていく巡礼者たちは、大声で「ゴーヴィンダ! ゴーヴィンダ!」〔クリシュナ神の御名〕と言っていました。そうすれば足が痛くならないことがあったからです。しかし今では、寺院の入り口まで道路が整備され、車やバスが巡礼者を神前まで連れていってくれます! そのため、近ごろの人々の痛みといえば、食べ過ぎと運動不足による胃の痛みだけです!
求道者が大型車に乗ってスムーズに神前に行き、ぜいたくな日常生活を押し通しているとき、神はどうやって自らを現したらよいというのでしょう? 自分の体という寺院に住まう者を見ることを切望しなさい。お金をかけた快適な環境で体を安全に保ち、整え、甘やかすことを切望してはなりません。超近代的なサーダカ〔霊性修行者〕(!)の中には、自分の家の敷居をまたぐことも、一パイサ〔一銭〕を使うことも、一つの筋肉も動かしたくない人たちがいますが、それでも、真我顕現は自分が説得したり操作したりすることができるはずのグルや神から容易に自分の膝の上に落ちてくるべきだ、と要求する人たちがいます! そして、そんな人々(!)に便宜を図って一もうけするグルたちもいるのです!
神は祈りに応えず、絵姿にしるしを示さず、どこからともなく明瞭な言葉で話して安心や保証や助言を与えることもしてくれないので、神は厳しくて無情だと、あなたは訴えるかもしれませんが、私に言わせるなら、神は愛であり、愛は神です。神の姿(アーカーラ)は愛(プレーマ)であり、神の本質(スワバーヴァ)は至福(アーナンダ)であり、神の活力のもと(ラクタ)は真理(サティヤ)です。石でできた崖でさえ、あなたが泣けばあなたの声をこだまさせて反応するのですから、最も柔らかく、最も甘く、愛に満ちたハートである神のハートも、反応するのではありませんか? 反応がないときは、その泣き声に何か足りないものがあるのだと推測されます。もしかしたら、その泣き声は空虚で、不誠実で、単なるお芝居で、パターン化されていて、あなた自身とは別の誰か、専制君主や厳しい監督といった、遠く離れた人に届いているのかもしれません。
より大きな利益のために、ささいな事柄は無視しなさい
神はあなたにとって最も親密で身近な存在であり、あなたのハートと同じくらい親密で身近であることを分かった上で、神に祈りなさい。そうすれば、必ずや、神の答えはたちどころに与えられるでしょう。そのような人が100人いれば、地球全体が徐々に変わっていくでしょう。
軍隊に大人数の兵士がいても、兵士たちを率いる数人の大将が自分たちはどこにいるのか、どこに進むべきなのか、敵の強さと弱さを理解した上でどのようにして敵に打ち勝てばいいのかを知っているときにのみ、兵士たちは役に立つのです。大勢の人が歌い、唱え、崇拝し、礼拝し、賛美し、ひれ伏しますが、彼らは兵士です。信じる者、信念のある者、規律を実践する者――彼らは、主が信頼する大将です。
この聖地の未来は、霊的規律を実践し、それらの方法によって得られる至福を他の人々に手本として示す少数の人々に委ねられています。彼らだけが、プラシャーンティ〔大いなる平安〕を確立し、アシャーンティ(不安と落ち着きのない状態)を打破することができるのです。私は、揺るぎない信仰心と規律を実践する必要性を、毎日のように説いています。皆さんの中にはこれを不快に思う人もいるかもしれません。私は、もう十分に話したのだからそろそろ休ませてあげようかと思うこともあります。しかし、それはすぐに憐れみに打ち消されてしまいます! そうして、私はここでまた皆さんに語りかけているのです! 私の信念は、音楽の大家の言うところの、「メロディーをマスターするには、それを完全にコピーするための絶え間ない努力が必要であり、それ以外にはない」ということです。私がアドバイスしたことの少なくとも一部が何人かの人のハートの片隅に留まり、そこからそれがその影響を受けた人の日常生活、態度、感情を変えることになるに違いありません。
雨が降ると、多くの人は惨めな気持ちになります。天気が悪い、動けない、と彼らは言います! しかし、雨がもたらす永続的な恩恵を考えてごらんなさい! この3日間、よく雨が降りました。ある人は私にこう言いました。「スワミ! なぜあなたは雨がここでの活動の平穏な流れを妨げるべきではない、とはお考えにならないのですか?」と。しかし、それはささいなことであり、そのためにより大きな利益が脇に置かれるべきではないのです。実のところ、今回行われたヤグニャ〔供犠〕は、雨を降らせるよう神々を説得するためのものでした! そして、その目的はかないました! 雨は収穫と繁栄を増進します。ここでのヤグニャは僧侶によってヴェーダの教えに忠実に行われるので、供犠が行われている最中にも、風が雨雲を集めてくるのです!
サティヤ サイババ述
ダシャラー祭(ナヴァラートリ祭)
プラシャーンティ ニラヤムにて
1969年10月18日
Sathya Sai Speaks Vol.9 C26
真我の鞘
愛の化身たちよ! 同じアートマ〔真我〕がすべての人に内在しているという真理を認識した人は、世俗を捨てた修行者であれ、家族生活を営む人であれ、あるいは、行為の道をたどる人であっても、そうでなくても、神との一体感を体験し、神の至福を味わっています。アートマの原理は、ただ単にヴェーダや聖典を学んだり、講話を聞いたりするだけでは理解できません。巨大な樹木が小さな種子から生まれるように、全字宙の起源はアートマの原理の中にあるのです。
愛の化身たちよ! まことに皆さんは、歓喜と幸福の化身なのです。歓喜と幸福は皆さん自身の中にあるというのに、それらを外の世界に探し求めるのは全くの無知と言えるのではないでしょうか? 真の霊的変容は、自分自身の本当の性質を理解することにあります。
私たちの教育機関の現副学長と前副学長たちが(先のスピーチの中で)、真我の5つの鞘(パンチャ・コーシャ)の概念を詳しく説明してほしいと私に懇願しました。純粋なアートマは5つの鞘(さや)に包まれていて、それぞれの鞘と結び付くことによって、アートマはその鞘の特性を得ます。肉体は食物の鞘(アンナマヤ・コーシャ)と呼ばれます。目が覚めている状態の粗大体〔肉体〕と結び付いているアートマは、グニャーネーンドリヤ(知覚器官/グニャーナ・インドリヤ)とカルメーンドリヤ(行動器官/カルマ・インドリヤ)を授けられていることから、「ヴィシュワ」〔全世界/すべて〕と呼ばれます。粗大体はさまざまな外的活動に関わっているので、「ヴィヤヴァハリカ」とも呼ばれます。このように、ヴェーダは粗大体(ストゥーラ・シャリーラ)を構成している肉体の鞘に、さまざまな名前を付けています。
生気の鞘(プラーナマヤ・コーシャ)、心(マナス/マインド)の鞘(マノーマヤ・コーシャ)、英知の鞘(ヴィグニャーナマヤ・コーシャ)は、肉眼では見えない微細体(スークシュマ・シャリーラ)を形成しています。心はこの微細な姿をとってすべてに浸透しています。だから、「マノームーラム イダム ジャガト」(心は全世界の基盤である)と言われているのです。
歓喜の鞘(アーナンダマヤ・コーシャ/至福の鞘)は、原因体(カーラナ・シャリーラ)です。至福を体験するためには、人は5つの鞘すべてを超えていかなければなりません。その段階は、トゥリーヤと呼ばれ、熟睡している状態(スシュプティ)を超えた段階です。それは至高の原因の相(マハーカーラナ・スワルーパ)です。これは究極の霊的原理(パラマールティカ)です。この段階で経験する至福が本当の至福です。この至福は、五感や心や知性では得られません。
この至福を体験するのを邪魔する5種類の障害物(クレーシャ〔煩悩〕)があります。それらは、無知という障害(アヴィッディヤー・クレーシャ)、未熟という障害(アビナヴァ・クレーシャ)、留まることという障害(アスティタ・クレーシャ)、執着という障害(ラーガ・クレーシャ)、憎悪という障害(ドウェーシャ・クレーシャ)です。人間は、この5つのクレーシャのせいで、アートマのビジョンを得ること、アートマの至福を経験することができずにいます。
体に執着しすぎる人は、無知という障害(アヴィッディヤー・クレーシャ)に苦しみます。それはさまざまな欲望や病気を引き起こし、人生を惨めなものにします。未熟という障害(アビナヴァ・クレーシャ)は、自分の心をコントロールできないときに生じます。人は、過度に肉体を重視し、心の気まぐれに流されて、その結果、苦しみに置かれるのです。留まることという障害(アスティタ・クレーシャ)は世俗的な快楽への興味から生じます。執着という障害(ラーガ・クレーシャ)は、富と物品への執着から発生します。憎悪という障害(ドウェーシャ・クレーシャ)は、人の期待がくじかれ、欲望が満たされないときに生じます。
肉体の執着を手放す
帰依者の中には、見返りを期待して神を礼拝する人がいます。彼らは自分の欲望が満たされれば満足し、そうでなければ神をも憎みはじめます。彼らは自分が手に持っている幸運を楽しみません。それどころか、もっともっと、と自分が得るに値しないものを欲します。その結果、彼らはストレスにさらされます。現代では、母と子、夫と妻、兄弟同士の関係さえも、憎悪(ドウェーシャ)によって損なわれています。
歓喜の鞘(アーナンダマヤ・コーシャ/至福の鞘)以外の鞘は、人間を束縛し、障害物(クレーシャ〔煩悩〕)に服従させます。パラマールティカの原理(究極の霊的原理)を理解するには、心(マナス/マインド)を取り除くか、少なくともコントロールして、徐々に体への執着を捨てなければなりません。
体は五大元素でできており
いつかは滅びるもの
しかし
内在者は生まれることも死ぬこともない
内在者には、執着も束縛もない
実を言えば、内在者とは神である
(テルグ語の詩)
体への執着を手放さないかぎり、内在の神を認識することはできません。肉体への執着は、霊性の道における障害です。巨大な木が小さな種の中に含まれているのと同じように、5つの障害物は最も微細な形で体に深く根付いています。体への執着は、人問の不幸と心配と惨めさと平安の欠如の主な原因です。人は、体を道具と見なして、内在の神を意識して真実の人生を送らなければなりません。
まず、人間は、食物の鞘から生気の鞘へと向かう必要があります。生気の鞘は、体を動かす役割を担っているため、振動と呼ばれています。心の鞘とは何でしょうか? 心(マナス/マインド)はすべてに浸透しています。心はどんな距離でも一瞬で移動することができます。人間には死がありますが、心にはありません。心は生から生〔今生から来生〕へとその人に付いていきます。
英知の鞘とは何でしょう? 英知の鞘は物質世界とは結び付いていません。物質界は、反応・反響・反射と関連しています。例えば、あなたが手でテーブルを叩くとします。その時、テーブルもあなたを叩きます。作用があれば、反作用もあります。これはプラーティバースィカ〔姿形のみが存在するもの〕の原理です。プラーティバースィカに関連するものは、世俗的な現世の知識にすぎません。それは英知とは呼べません。真の英知は、統合意識を理解することにあります。それは、変わることのない永遠の至福へとつながります。これは、粗大体、生気の鞘、心の鞘、微細体、原因体という5つの鞘を超えた後にのみ、経験することができます。それから、あなたはトゥリーヤの段階(至高の原因の段階)に到達するのです。原因の段階を超えたものが至高の原因の段階です。この段階に到達するには、5つの鞘の性質をきわめて明確に理解する必要があります。
宇宙の原初の基盤
全宇宙には原初の基盤が存在します。ここに銀のお皿と銀のコップがあります。これらの基盤は銀です。品物の名前や形は変わっても、銀は同じままです。同様に、名前と姿形は必ず変化しますが、原初の基盤が変わることはありません。
アートマの原理は古来永遠
それは生まれることも死ぬことも
始まりも終わりもない
(テルグ語の詩)
アートマの原理は、体と心と生命原理にとって、原初の基盤です。
海の水は太陽光線によって水蒸気になります。それから、水蒸気は雲になります。雲は雨という形になって地上に降り、川となって流れ下って、最終的に海に融合します(ナディナム サガロー ガティ)。海から生まれた川が最終的に海と一つになるのと同じように、神から生まれた万物は最終的に神に融合します。このことを、ヴェーダではムクティ(解脱)と呼びます。『バーガヴァタ』にも、生きとし生けるものが源に戻るのは自然の成りゆきであるとあります。個々の魂は神から生じ、必ず神に融合するのです。
アートマの原理は同一
愛の化身たちよ! 霊牲とは、周囲から隔絶した生活を送ることではありません。真の霊性とは、全人類は一つであることを理解し、執着と憎しみを捨てることにあります。アートマの原理はすべての人の中にあり、それらは皆同じものです。
アートマはどのような形をしているのでしょうか? 砂糖には形がありますが、甘さの形を説明することのできる人がいるでしょうか? 甘さは体験することができるだけで、説明することはできません。アートマの原理に関しても同じことが言えます。アートマの原理は、太古より存在し、永遠であり、属性を持たず、無形で、純粋で、汚れなく、不滅です。マイソール・パクや、グラブ・ジャムーン、バルフィなど〔インドのお菓子〕は、名前や形はさまざまかもしれませんが、含まれている砂糖は皆同じです。同様に、名前と形は異なりますが、アートマの原理は同一なのです。
心の清らかさを得るべし
今日、人々はさまざまな霊性修行をしています。例えば、シュラヴァナム(聞くこと)、キールタナム(歌うこと)、ヴィシュヌスマラナム(唱えること)、パーダセーヴァナム(蓮華の御足に奉仕すること)、ヴァンダナム(崇敬すること)、アルチャナム(礼拝すること)、ダースヤム(神の召し使いとして奉仕すること)、スネーハム(友情を育むこと)、アートマニヴェーダナム(真我への全託)などです。しかし、これらは、外的で一時的な満足しか与えてくれません。どの霊性修行に一番効果があるかといった議論をするのは無駄なことです。眠ってしまえば、無料の宿坊であろうが、宮殿であろうが、どこで眠るかはほとんど問題ではありません。それと同様に、どんな修行をするにせよ、心の清らかさを得ることができればよいのです。ひとたび心がきれいになれば、人生でどんなことでも成し遂げることができます。
心を浄化するには、愛の原理を育てなければなりません。愛の光は決して消すことができません。ひとたび愛の原理を育てれば、あなたはヴィシュワ〔目が覚めている状態〕とタイジャサ〔夢を見ている状態〕とプラグニャー〔常に神と一つになっている状態〕という三つの状態を越えて、究極の至福に到達することができます。個々の魂は、目が覚めている状態では、グニャーネーンドリヤ(知覚器官/グニャーナ・インドリヤ)とカルメーンドリヤ(行動器官/カルマ・インドリヤ)と結び付いているため、ヴィシュワ〔全世界/すべて〕と呼ばれます。夢を見ている状態では、アンタッカラナ(内なる道具)の輝ける原理と結び付いているため、タイジャサ(輝けるもの)と呼ばれます。熟睡している状態では、プラグニャー〔常に神と一つになっている状態〕と呼ばれ、歓喜の鞘と結び付いています。
古代の優れた学者、アマラシンハは、神の原理を説明する多くの詩を詠みました。しかし、彼の神聖な性質を理解できかった一部の人々は、彼に苦難を強いました。彼らはアマラシンハに無神論者のらく印を押しました。アマラシンハは多くの苦しみを与えられ、著書のすべてに火が放たれました。アマラシンハの本が燃やされようとしていたその時、シャンカラが割って入り、『アマラコーシャ』を取り戻しました。『アマラコーシャ』は、もう一つのヴェーダのようなものです。それは、ほれぼれするような感動的な書物です。それほどの神聖な書物を抹消しようとするのは、全く愚かなことです。実際、人々はヴェーダや聖典の教えを理解しようとしません。そのせいで、人々は本当の自分を忘れてしまっているのです。
シヴァラートリに神の名を唱えること
皆さんが今日以外の日に体験する夜は、普通の夜です。一方、シヴァラートリ〔シヴァの夜〕は縁起の良い夜です。どうして縁起が良いのでしょう? あなたが自分の時間を主の栄光を歌うといった縁起の良い方法で費やすから、縁起が良いのです。心(マインド)には16の相があります。月は心を司る神です。今日は月の16の相のうち15が欠けています。もしあなたが一晩中ずっと心を込めて神の栄光を歌うなら、残りの1つの相すらも神に融合させることができます。この日は、神を黙想することによって心を完全にコントロールすることができます。そのような訳で、今夜は縁起の良い夜だと考えられているのです。残念なことに、このカリの時代〔カリユガ〕においては、人々は一晩中映画を見たりトランプをしたりしてシヴァラートリの徹夜を過ごしています。これはシヴァラートリとは呼べません。今宵の一瞬一瞬を、神を想うことに専心し、心から神の御名を唱えるべきです。唱名は内面から生じるべきものです。それは内なる存在の反映と呼ばれます。
神には何千という名前があります。そうしたすべての御名の中で最も重要で意義が深いのは「サッチダーナンダ」〔サット・チット・アーナンダをつなげて発音する御名〕です。「サット」は変わることのない永遠の原理を表し、「チット」は完全な意識〔完全なる気づき/覚醒〕を表しています。「サット」は砂糖に、「チット」は水に例えることができます。砂糖と水を混ぜればシロップ(砂糖水)ができます。同様に、「サット」と「チット」が組み合わさると「アーナンダ」〔至福/歓喜〕が生まれます。あなたのハートを愛で満たし、神の御名を唱えなさい。そうして初めて、あなたは神に到達することができます。あなたのすべての行いに愛を込めなさい。
愛は、源から、すなわちハートから生まれるものであり、強制から生まれるものではありません。今日、人々は神の御名を唱えますが、それはハートからではなく、強制によって唱えています。神の御名を唱えても、心を込めて唱えないかぎり何の恩恵も得られません。心を込めて、30秒でも神の御名を唱えなさい。それで十分です。スプーン一杯の牛乳のほうが、何桶ものロバの乳よりも優れています。神は量にではなく質に関心があります。
ずっと若くいる秘訣
学生諸君! 肉体は道具にすぎず、行為をしている者、楽しんでいる者はアートマであるということを理解しなければなりません。肉体への執着を手放しなさい。皆さんは何のために勉強しているのですか? 皆さんは、お金を稼いで幸せな生活を送りたいと考えています。しかし、皆さんは勉強から幸せを得ていますか? いいえ、得ていません。皆さんは、学業を修了したらもうかる仕事に就きたい、それから昇給したい、というようなことを考えています。欲望には際限がありません。それでどうして幸せになることが期待できるでしょうか? 本当の、永遠の幸せは、物質世界では得られません。それはトゥリーヤの段階でのみ体験することができます。至福は物質世界のものの中には存在しません。
ある日、アーディ・シャンカラ〔初代シャンカラ〕が、13人の弟子を連れてガンジス河に沐浴に出かけました。シャンカラは、一人のブラフミン〔バラモン〕が木の下に座って「ドゥクルンカラネー、ドゥクルンカラネー」〔サンスクリット語の文法〕と繰り返しているのを見かけました。シャンカラは、文法の基礎を繰り返して何が得られるかと尋ねました。そのブラフミンは、立派な学者になって、宮廷に仕え、お金を稼ぐことができると答えました。次にシャンカラは、その富はいつまで彼に幸せを約束してくれるかを尋ねました。ブラフミンは、自分が死ぬまで幸せな生活を過ごすことができると言いました。シャンカラは、死んだ後はどうなるのかと尋ねました。ブラフミンは、自分には分からないと答えました。すると、シャンカラは次のような歌を歌いました。
バジャ ゴーヴィンダム
バジャ ゴーヴィンダム
ゴーヴィンダム バジャ ムーダマテー
サムプラープテー サンニヒテー カーレー
ナヒ ナヒ ラクシャティ ドゥクルン カラネー
ゴーヴィンダを崇めよ
ゴーヴィンダを崇めよ
崇めよ、ゴーヴィンダを
ああ! 愚か者よ
死の時間が近づいた時
文法の基礎が助けにきてくれることなどない
いつでも、どのような状況の下でも、皆さんを守ってくれるのは、神の御名だけです。この世のものは、すべて通り過ぎていく雲のようなものです。至福と愛のみが永遠です。愛は神です。神は愛です。愛の中で生きなさい。
学生諸君! 青春時代は非常に神聖です。青春時代は非常に神聖です。尽きることのない欲望に浸ったり空想にふけったりして青春時代を無駄に費やしてはなりません。神を心の最高位に据えつつ教育を追究しなさい。無用な活動や束縛に巻き込まれてはなりません。それらは不安の原因となるでしょう。今日、人々は平安を探し求めています。しかし、外側の世界で平安(peace)を見つけることはできません。見つかるのは断片(piece)だけです! 平安はあなたの内にあります。あなたは平安の化身です。あなたは真実の化身です。あなたは愛の化身です。ですから、まずあなた自身を知りなさい。そうして初めて、あなたはいつも至福に満ちていることができるのです。今の学生たちはさまざまな学位を取っています。しかし、それが何の役に立つのでしょう?
教養や理性があっても
愚かな人は本当の自分を知らず
心の卑しい人は自分のよこしまな性質を手放さない
現代の教育は、議論をもたらすだけで
完全な英知はもたらさない
不滅をもたらすことができないのなら
世俗の教育を得ても何になるだろう?
あなたを不滅にさせてくれる知識を得よ
(テルグ語の詩)
神だけが永遠
愛の化身たちよ! すべてを愛し、誰も憎んではなりません。これは私たちの古来の文化の教えです。ヴィヤーサ仙は18のプラーナの真髄を短い言葉で述べています。「パローパカーラヤ プンニャーヤ パーパーヤ パラピーダナム」〔人は他者に奉仕することで徳を積み、他者を傷つけることで罪を犯す〕。ですから、「常に助け、決して傷つけない」、これを実行に移せば、それで十分です。世俗的な教育と共に、霊的な教育も欠かすことができません。「アーディヤートマ ヴィッディヤー ヴィッディヤーナーム」(霊性〔アートマ性〕の教育が真の教育)と言われています。それのみが、二元性と三属性、すなわちサットワ・ラジャス・タマス〔浄性・激性・鈍性〕を越えたブラフマンの知識を授けることができるのです。神のみが永遠です。それ以外はすべて一時のものです。今日、人々は世の中を信じていますが、神を信じてはいません。あなたの若さや体の美しさを得意がってはなりません。
あなたはどうするのですか?
自分がよぼよぼの老人になった時
体が弱くなった時
脚はよろめき、視力は衰え、
革製の操り人形も同然になった時
子供たちがあなたを年寄り猿と呼んで笑う時
(テルグ語の詩)
若さはいつまで続くでしょう? 稲妻が閃光(せんこう)を放った後には一寸先も分からないような暗闇になるように、若さの後には老いがやって来ます。朝咲いた花も、夕方にはしおれてしまいます。人間の身体の性質もそれと同じです。自分の身心をコントロールしなさい。他の人々に依存してはなりません。あなた以外の誰かが食べ物を食べても、あなたの空腹は満たされるでしょうか? そんなことはありません。霊性の道で向上するには、自分自身の努力がどうしても欠かせません。
いつまでも若いままでいたいなら、五感をコントロールすべきです。スワミがその直接の証明です。私の体は活力で満ちています。私にはまったく弱いところはありません。今でも、私は速く走ることができます。誰がスワミは75歳だと思えるでしょう? その秘訣は何でしょう? 純粋さ、忍耐力、根気が、その主な要因です。スワミの感情は常に純粋で安定しています。この点でスワミを見習うようにしてごらんなさい。
幸せは神と一つになることにある
皆さんは、自分はスワミの帰依者であると言っています。それなら、スワミの純粋さの、少なくとも何分の一かを身に付けることが、皆さんの務めではないでしょうか?皆さんは、誰かから何かの情報を教えてくださいと頼まれたとき、それに正しく答えてあげる程度の忍耐も持ち合わせていません。一方、私は何千人もの人と話をしますが、常に平安を保ち、至福に満ちています。私は多岐にわたる活動に携わっています。私のしている仕事を説明できる人は誰もいません。私はあらゆる部門の仕事をします。すべての部門が私のものです。しかし、私は決して不安になることはありません。私はいつも至福に満ちています。誕生日のお祝いの間、何人かの帰依者は私のハッピー バースデーを祈ります。私は彼らにこう言います。「私のハッピー バースデーを祈る必要はありません。なぜなら、私はいつも幸せだからです。幸せでない人たちに幸せを与えてあげなさい」。幸せは、神と一つになることにあります。
もしあなたが、神はあなたの中に、あなたと共に、あなたの周りにいるという強い確信を持っているなら、決して、人生において困難や不幸に出会うことはないでしょう。人々は不安や不幸について語ります。しかし、私はそれらを知りません。私の純粋さのゆえに、それらは私に近寄りもしません。悪い思考や悪い人絡を持っている人だけが、不幸や不安に苦しめられるのです。ですから、
悪は見ず、善を見る
悪は聞かず、善を聞く
悪は思わず、善を思う
悪はなさず、善をなす
それが神に至る道
困難に直面したとき、意気消沈してはいけません。それは自分のためだと考えなさい。
帰依者の固い信念がバガヴァンの恩寵を得る
皆さんは、何分か前にこの壇上でスワミが一人の帰依者に話しかけていたのに気づいたでしょう。彼はナーラーヤナという名前で、チェンナイからやって来ました。先週、彼の心臓に問題が起こりました。彼の息子は私たちの大学の学生で、父親にすぐにプッタパルティに来るようにと電話をかけました。彼はここにやって来て、彼を診察した医師たちは、心臓の4つの弁が詰まっていて手術は難しいと私に言いました。アメリカから来た3人の医師が診察をしたのですが、実のところ、心臓にこれほど深刻な問題があるのにナーラーヤナが生きているということに驚いていました。
ナーラーヤナは医師たちに、自分に痛みはないし、スワミがいつも一緒にいてくれるのでとても幸せだと言いました。しかし、医師たちは満足しませんでした。医師たちは5時間かけて心臓の手術を行いました。4つのバイパス手術が行われました。手術は一昨日行われたのですが、彼は今日、マンディルにやって来ました。通常、バイパス手術の後は少なくとも10日間はベッドに寝ていなければなりません。ところが、ナーラーヤナすでに昨日300歩も歩きました。これは、とてつもないことではありませんか? 今日、彼はズボンとシャツを着てここに来て、まるで大学生のように見えます。私は彼に、これは信仰心によるものですと言いました。彼は最初から、スワミが一緒にいて自分の面倒を見てくれると言い続けていました。彼は、心臓の問題は、それが自分をスワミの住まいに連れてきてくれたという意味で、自分にとって良いことだったと感じています。
私たちの病院は単なる病院ではなく、癒しの寺院であると、ナーラーヤナは言いました。彼の手術は一昨日行われましたが、昨日、医師たちは彼にイドリー〔米粉の蒸パン〕を出し、今日、彼はスワミのダルシャンを受けにマンディルに来ています。他の病院ではありえないことではありませんか? どんな医者に聞いても、「ありえない」と答えるでしょう。それが人間の体というものですが、神はそれさえも変えて明るい未来を授けることができるのです。
神は、地を天に、天を地に変えることもできますが、そのためには、あなたは神を固く信じていなければなりません。今、人は信心という目を失って、盲目になっています。人は神を信じていません。自分のことを知らない人に、どうして神を知ることができるでしょうか?
神への愛を育みなさい
まず、自分のことを知りなさい。そうすれば、容易に神を理解することができます。神を信じなさい。神にできないことは何もありません。良い視力を持っている人は、小さな蛍さえも見ることができます。しかし、盲人は、まぶしく輝く太陽すら見ることができません。同様に、霊的な目を持っていない人は、自分の周囲が真っ暗に見えるのです。全宇宙を見るには霊的な光の閃光一つで十分です。
カリの時代は、カラハ(喧嘩)の時代になっています。至る所に喧嘩や争いがあります。学生たちは、憎しみと不安を根絶する決意をすべきです。このシヴァラートリの聖日に、愛の原理をもっともっと育みなさい。私は皆を愛しています。皆は私を愛しています。しかし、学生たちは時折、スワミは自分たちを怒っているから話しかけてくれないと感じます。私が誰かに怒りを持ったことは一度もありません。しかし、皆さんを正すために、私は時折、怒ったふりをすることがあります。病気になったら薬をもらう必要があります。さらには、食事療法もしなければなりません。そうして初めて、病気は治るのです。同様に、あなたの「病気」を治すために、スワミは独特な方法であなたに「薬」を与えます。あなた方に変化をもたらすために、私は時たま、あなた方に話しかけずに無言でいます。
憎しみ、貪欲、嫉妬心を育ててはいけません。皆さんは、神への憎しみを募らせたヒランニャカシプやラーヴァナ、ドゥルヨーダナがどうなったか知っていますね。パーンダヴァ兄弟は、神への絶大な愛を持っていたので、幸せな人生を送りました。数え切れないほどの困難に見舞われましたが、それでも、神への愛が衰えることはありませんでした。ですから、神への愛を育てなさい。愛を育てれば育てるほど幸せを体験し、あなたはさらに究極の至福へと近づいていくのです。
シュリ サティヤ サイババ述
2000年3月4日
マハーシヴァラートリ
プラシャーンティ ニラヤムにて
Sathya Sai Speaks Vol.33 Ch5
神聖な気持ちを持って人生を聖化しなさい
太陽の光は、全世界を照らして、人々が自分の務めを果たすのを助けます。しかし、太陽は人の喜びや苦しみとは何の関係もありません。同様に、人が直面する無数の問題は、本人の感覚と心に関係しているのみであり、意識は無関係です。信者は神を探していると言われていますが、神はどこにでもいるのですから、信者が神を探しに行く必要はありません。実のところ、神こそが、ハートがそういった感覚の精神で満たされている真の信者を探し求めているのです。
熱い鉄の球に触れると、あなたは鉄の球で手が焼けたと言います。しかし、あなたの手を焼いたのは鉄の球ではありません。あなたの手を焼いたのは鉄の球の火熱です。この世は鉄の球と同じように、あなたが経験する苦しみや喜びの原因ではありません。神の力はあなたの中に存在しています。あなたはその力に気づかずに、自分の苦痛や困難を嘆き悲しんでいるのです。
神聖な思考を育む
現代人の性質は奇妙です。現代人は自分が思っていることとは別のことを話します。自分の中にある悪いものを隠すために、表向きは笑っています。また、表面的には泣いているように見えても、実は内心では笑っています。外見は人間のようですが、心は猿のようです。こうした偽善者や悪者は、決して神を見つけることができません。神は、人がそうした獣性をなくして、人間らしく生きることを期待しています。人間には清らかで敬虔(けいけん)な性質が内在しています。人は、動物的で不自然な資質ではなく、本来備わっているそうした清らかな感情を現すべきです。しかし、現代人は道徳的に堕落しつつあります。こういったあらゆる不自然な状況にあって、この世は陰気で生気のない場所になっています。
お金は失ってもまた稼ぐことができます。健康は失っても取り戻すことが可能かもしれません。しかし、時間は失ったら二度と取り戻せません。ですから、人は自分が自由に使える時間を正しい方法で活用すべきです。お金は使ったときにだけ減りますが、人の寿命は時間の経過と共に短くなっていきます。自分の頭の上には時間という鋭利な大刀がぶら下がっていて、いつ襲ってくるやもしれないということを、一人ひとりが自覚すべきです。その犠牲になるべきではありません。気をつけるようにしなさい。無駄にした時間は取り戻すことができません。健康やお金とは違って、時間は取り戻すことができないのです。
愛の化身たちよ! 時間を聖化するには、徳の高い行いをすることです。善い行いは、もっぱら善い感感情が引き起こすものです。そうした清らかで神聖な感情を養うべきです。雲は太陽によって生じるものですが、まさにその雲が太陽を覆い隠します。同様に、ハートから生じる思考の雲は、ハートを覆い隠します。つまり、源は、源から生じた要素に覆い隠されるのです。ブラフマンから生じたものは、ブラフマン以外の何ものでもありえません。創造の源は何でしょうか? それは神の光輝です。それは神の意志です。神の意志が人間の存在の原因である以上、人は神の感情だけを持つべきです。神の意志から生じた創造世界は自然と呼ばれます。ですから、自然の産物である人間は、自然の特質を現すべきです。人間は、自然にとって異質な諸性質を持つべきではありません。欲望、怒り、金銭欲、執着、傲慢、嫉妬は、あなたが食べる食べ物から生じます。それらはあなたの過去世でのサムスカーラ〔傾向や特質〕の結果でもあります。それらはあなたの天性ではありません。
あなたは自分を「私」と言って紹介します。その「私」というのは神の最も重要な名前であり、それ以外のすべての神秘的な単語は後から発生したものです。ヴェーダの宣言「アハン ブランマースミ」(私はブラフマンである)における「私」〔アハン/アハム〕という文字は、ブラフマンを表しています。ですから、ブラフマンの1番目の名前は「私」です。2番目の名前は「アートマ」〔真我〕です。3番目の名前は「自分」です。「ブラフマー」は4番目の名前です。「神」は5番目の名前です。この5つ
は一なる神性の異なる名前です。これらの単語の本当の意味を理解すべきです。「私」はどこから来たのでしょうか? 「私」は自分と神の姿そのものです。しかし、人は「私」を肉体と関連づけることによって、大変な誤用をしています。「私」は神聖な用途に使われるべきものです。
自分の本性を認識する
愛の化身たちよ! 日々の生活の中で真実を貫くための方法と手段を知っておくようにすべきです。人々は真実の道を認識せずに、祈りや瞑想、ヨーガなどの霊性修行をしています。しかし、それだけでは十分ではありません。そうした霊性修行に加えて、善い感情を育む必要があります。善い性質、善い感情、善い行い、善い思考があなたの中に現れるべきです。これらは自然なままの神の特質です。自然があなた方の起源であるという真実にもかかわらず、あなた方は自然の特質を捨て、不自然な振る舞いを選んでいます。あなたはそのような不自然な生活を送るべきではありません。自分が思っていることを話し、話したことを実行すべきです。ヴェーダは述べています。
アンタル バヒシチャ タット サルヴァム
ヴィヤーピャ ナーラーヤナッ スティタハ
(すべてに浸透している神は、
内にも外にも存在する)
人間の真の研究対象は人間です。人間とは誰でしょうか? 自分の思考と言葉と行いが一致している人が真の人間です。そういう人だけが人間と呼ばれることができるのです。神はそうした真の人間を探しています。神は外見だけが人間である人を探しているのではありません。
知性は鏡に例えることができる
人間には、自分の本性を認識することができるよう、神聖な知性が授けられています。知性は清らかで汚れのないものであり、鏡に例えることができます。鏡の裏側には化学物質が塗布されています。この化学物質がなければ、鏡に映った自分の姿を見ることはできません。鏡の後ろにある物が見えてしまい、鏡の前にある物は見えません。それと同じように、もしあなたが自分の本性を認識したいのであれば、あなたの知性を愛という化学物質でコーティングする必要があります。今、あなたは鏡に愛のコーティングをしないまま自分の姿を見ようとし、その試みに失敗しているのです。神は人間に、自分の姿を見るための知性という鏡を与えました。しかし、今、現代人は、知性という鏡の助けを借りて自分の本当の姿を認識しようとしていません。現代人は他人の顔に鏡を向けています。同様に、一人ひとりが自分の知性を使って外の世界を知ろうとしています。他人の所在を尋ね、自分の所在は知ろうとしません。ですから、「あなたは誰ですか?」と他人に尋ねるのをやめて、「私は誰か?」と自分自身に問いかけはじめなさい。
知性は、他人を見るためではなく、自分を見るために授けられているのです。人は、世俗的な事柄にどんどん関わっていくうちに自分の本性を忘れていきます。子供から大人まで、誰もが世俗的な事柄に没頭しています。現代人は、この世界のことだけでは満足せず、宇宙や星々のことも探ろうとしています。現代人は、内側には目を向けず、他の一切に目を向けています。宇宙へと何十万キロも旅をしているのに、自分のハートの奥へは1センチも旅をしません。そのせいで、現代人の感情は醜い方向に向かっています。現代人の中には利己心だけが見えます。現代人は自分の本性を悟ろうとしません。
自分の本性を知ろうと努力する
愛の化身たちよ! 自分の本当の性質、生まれつきの性質に気づくことが、霊性の最大の目的です。この目的は、霊性修行だけに限ったものではありません。人間は、活動のあらゆる領域――時間の領域、倫理の領域、身体の領域、世俗の領域――で、自分の本性を悟るべきです。皆さんは他人の欠点を見つけることに熱心ですが、自分の欠点を知ろうとしません。自分の欠点を知ろうとするなら、自分を向上させることができるでしょう。そのような人は理想的な人間になるでしょう。そのような人だけが、本当の人間です。もしあなたが猿のように振る舞っていたら、誰があなたを人間として扱ってくれるでしょう? 人々はせいぜい礼儀としてあなたに敬意を示す程度で、あなたがいない所ではいろいろとあなたを批判しているかもしれません。ですから、そのような道を歩んではいけません。自分の良心に従って行動すべきです。神聖な道を歩み、あなたの中にある神聖な性質を正しく役立てるようにしなさい。
愛の化身たちよ! 世の中の無数の側面を探しにいく必要はありません。自分の本性を知るために努力すべきです。昨日、私は皆さんに5つの鞘(さや)の性質を説明しました。体は物質であり粗大なものです。体は数え切れないほどのトラブルの原因です。体への執着が増すと真我への執着は減ります。真我がなければ体は生きていられません。体への執着を少しずつ減らしていくよう気をつけるべきです。体への執着が増すと欲望や金銭欲も増します。
内なる目を発達させる
生気(プラーナマヤ)、心(マノーマヤ)、英知(ヴィグニャーナマヤ)という3つの鞘(コーシャ)から成る微細体は、輝けるもの(タイジャサ)と呼ばれます。なぜ、その名前を獲得したのでしょうか? なぜなら、それは内側にある輝かしい思考や感情と結びついているからです。皆さんは、自分の存在のこの神聖な側面を認識すべきです。あなたが浸っている無数の世俗的な事柄は、あなたに刹那的な快楽を与えるだけで、真の永続する至福を与えることはできません。ですから、内なる目を発達させるべきです。外側の目は動物の目です。動物のレベルまで堕ちてはなりません。それは人間の本性ではありません。あなたの感情を清めるべきです。清らかで、揺るぎない、無私の知性を発達させるべきです。そうして初めて、あなたはすべての人を愛し、すべての人に奉仕することができるようになります。
しかし、現代人は自分を信じません。これは現代人の主な過ちです。まず、自分を信じるべきです。それが自信です。自信(自己信頼)は、人生という大きな家の基礎となるものです。自信という基礎の上に自己の満足という壁を立てることができるのです。自己犠牲がその屋根です。自己実現〔悟り〕という最高の至福は、この大きな家で得ることができるのです。
愛の化身たちよ! 他人の欠点を見つけようとしてはなりません。まず、自分の欠点を自覚しなさい。自分の中に善い性質を育くむことをせず、ただ他人の善いところを見るだけでは、あなたの利益になりません。敬虔な気持ちを養いなさい。誰も憎んではいけません。なぜでしょう?
サルヴァタッ パーニパーダム タット
サルヴァトークシ シロームカム
サルヴァタッ シルティマルローケー
サルヴァマーヴルッティヤ ティシタティ
手、足、目、頭、口、耳を
すべてに行き渡らせ
神は全宇宙に浸透している
神性はすべての存在に内在しているのです。
今、広い視野を育てることが必要です。狭い心と自己中心的な感情を無くすべきです。利己心や私利私欲を捨てるべきです。目の大きさは3センチもありません。しかし、その小さな目は、空に浮かぶ壮大な星々を見ることができます。遠くの物体を見ることができるのです。それが目の力です。内なる目を育めば、もっと大きなものを見ることができます。ですから、広い心を持つべきです。多くの外国人はそれを「broad heart(広大なハート)」と呼びます。それは心臓が肥大していることを指す可能性があります。肥大した心臓は医者が治療するものであり、神が治療するものではありません。大らかな気持ちが現れてくるような、大らかな心を持つべきです。
神性は目に見えず、理解することはできない
学生諸君! あなた方はこの広大な宇宙に生まれました。そして、この広大な世界で生きています。ですから、広い気持ちを持つべきです。この広大な世界に生きている人間が、狭い気持ちを持っていてはいけません。他人の欠点を見つけることは間違っています。人には欠点があるかもしれません。でも、欠点を見るのではなく、良いところを見なさい。そうすれば、全宇宙は一つの家族になります。それが、人間は兄弟であり神は父であるという精神です。このような気持ちは、普遍的な兄弟愛を促進します。
ママイヴァームショー ジーヴァローケー
ジーヴァブータッ サナータナハ
すべてのものに内在する永遠のアートマは
私の存在の一部である
神は全創造物の源です。神は創造物であり、創造主であり、宇宙の監督です。神は目に見えません。神を理解することはできません。あなた方は皆、神の映しであることを認識しなさい。そうすれば、あなたが誰かを憎んだり、誰かを妬んだりすることはなくなって、エゴはなくなるでしょう。
愛の化身たちよ! 愛を養いなさい。愛は神です。愛に生きなさい。それがあなたの人生の目標であるべきです。愛よりも偉大な神はいません。もし誰かに「神はどこにいるのか?」と問われたら、神はすべての存在に内在していると答えるべきです。神の姿はどのようなものでしょう? 愛が神の姿です。あなたはその愛の姿を認識し、完全な確信を持って他の人にそれを伝えるべきです。「愛」、「愛」、「愛」と言うだけでは十分ではありません。自分の振る舞いでそれを表現すべきです。そうしてこそ、尊敬と人望を集めることができるのです。それが、真の人間性を得るということです。
国に奉仕することに充実感を見いだす
学生諸君! あなた方は若く、大きな活力を持っています。母なる大地のすべての力を持っています。大地のすべての力を持っているにもかかわらず、もし自分は無力だと感じるとしたら、それはあなたの弱さの表れです。国のどこかで災害が発生したら、いつでも駆けつけて人々を助けるべきです。その人たちを自分とは違う人間として扱ってはいけません。分け隔てを感じてはなりません。一つであるという気持ちを養い、社会奉仕に参加しなさい。
社会は自然の主要な一部です。手、鼻、目、胃、足が身体の一部であるように、身体は社会の一部です。社会は人類の一部です。人類は自然の一部です。自然は神の一部です。ですから、この真実を認識し、愛を持って社会奉仕に参加すべきです。そうして初めて、人生は成就を得ることができます。手や鼻といった部分は体に属しています。しかし、体は社会に属しています。ですから、体は社会のために奉仕すべきなのです。あなたの各部を活発に協調させて働くべきです。さまざまな人々のさまざまな必要を把握して、それに応じて行動すべきです。そうすれば、人々は恩恵を受けることができるでしょう。それこそが、真の社会奉仕です。
最近では、村に行って道を掃いたり、お寺の壁を白く塗ったりして、自分は社会奉仕をしたと満足している人が多くいます。それは、違います。それはあなた方の義務であり、奉仕とは見なすことはできません。本当の奉仕とは何でしょうか? 村人たちが直面している主な問題を見つけなさい。好ましくない状況は何か? 村人たちの差し迫った必要は何か? 村人たちの必要を満たすために最善を尽くすべきです。次の季節は夏です。いくつかの村では飲料水が手に入りません。水は人間の命の綱です。井戸を掘るなり、他の水源から水を引くなりして、村人たちを助けるべきです。そのような実用性のある行いに従事するなら、自分は社会奉仕をしたと主張するこことができます。しかし、実のところ、そうした善い仕事を奉仕と見なすべきではないのです。もしあなたが自分は誰か他の人に奉仕していると感じるならば、それはあなたのエゴを助長することになりかねません。自分は身内に奉仕しているのだと感じるべきです。すべての人は人間です。すべての人は一つのカーストに属しています。それは人類というカーストです。すべての人は一つの宗教に属しています。それは愛という宗教です。一つの言語があるだけです。それはハートの言語です。こうした広い気持ちを養うべきです。そうして初めて、あなたが行う奉仕は真の奉仕となるのです。このようにして人々に奉仕し、あなたの教養と技能を有益で意味のあるものにすべきです。
教育の目的
教育の目的は、外国に行って富を築くことではありません。これはバーラタ人〔インド人〕の弱点です。学生は、工学や医学の学位を得た瞬間にパスポートを申請します。海外に行く代わりに、自分の村の人たちに奉仕しなさい。人々が海外に行くのは、お金を稼ぐためであって、善い性質を得るためではありません。あなた方は自分の文化を育てるべきです。ラーマは言いました。
ジャナニ ジャンマブーミシュチャ
スワルガダピ ガリーヤス
母親と母国は
天国よりも偉大である
けれども、あなたは義務を遂行している間、ラーマを見習っているでしょうか? ラーマは父の命令に従い、自分の王国を放棄して、14年という長い年月を森で過ごしました。あなたの体、知性、心は、両親からの贈り物です。あなたの頭、あなたの血、あなたの食べ物、あなたが使うお金も、すべて両親からの贈り物です。ですから、両親に感謝の気持ちを示すべきです。それは神への真の奉仕です。それはあなたに平安の真の奉仕を与えるでしょう。今、人間は原爆を手に持って「平和」、「平和」と叫んでいます。人間は宇宙を克服して月に到達しましたが、ハートの平和がありません。どうしたら平和になれるのでしょうか? あなたのハートを神聖な気持ちで満たしなさい。原爆を捨てなさい。そうすれば、平和を経験することができます。平和は、あなたの内面が映し出されたものです。すべては内側からやって来るのです。
バーラタの神聖な文化に栄養を与える
愛の化身たちよ! あなた方は善良で、高度な教育を受け、知的です。しかし、利己心があなた方のすべての善い性質を破壊しつつあります。一滴の毒で、容器の牛乳全部を汚染することができます。ですから、できるかもしれません。もし大規模な奉仕ができなくても、落胆してはいけません。あらゆる小さな集落一つひとつに足を踏み入れ、そこにいる人々の必要を把握しなさい。必要なお金や能力がない場合でも、心配することはありません。あなた方学生が協力して、手を取り合って一緒に働きなさい。団結すれば、この世には成し遂げられないことは何もありません。
今、バーラタ〔インド〕では、至る所で困難や苦しみ、悲しみや恐れを目にします。その理由は何でしょう? 私たちは独立を達成しましたが、一体性を失いました。一体性の欠如が、そのすべての苦しみの原因です。兄弟さえも互いに争っています。まず、一体性を達成しなさい。それがあなたの人生の目標であるべきです。一体性が、あなたが始める仕事の根幹をなしているべきです。そうして初めて、あなたの学びのすべてが意味のあるものになるのです。あなた方は、MBA〔経営学修士〕やMFM〔財務管理修士〕やM.Tech〔技術修士〕に合格したと言います。すると早速、海外に職を乞いに行きます。物乞いがしたいのなら、ここで、自分の国でしなさい。外国で物乞いになってはいけません。外国で物乞いをしていると、あなたはここでも尊敬を失います。自分の国の幸福に気を配りなさい。
身をかがめて懸命に働く
あなたのお母さんは醜いかもしれません。それでもあなたは彼女を母親と呼びます。あなたを育てたのは彼女です。他人の母親のほうが魅力的で美しいからと言って、あなたは他人の母親を自分の母親として扱いますか? あなた方は自分の国を貧しい国と呼んでいます。これは若者の弱さです。インドは決して貧しい国ではないということを知りなさい。インドで見つけられないものは、他のどこでも見つけることはできません。インドはすべての力を所有しています。ここはヨーガの国です。ここは徳高い行いの国です。近ごろ、人々はこれほどの偉大な国を刹那的な快楽の国に変えようとしています。快楽を追い求めるべきではありません。快楽は病気を生みます。犠牲によって、すべてを神に捧げるべきです。身をかがめて懸命に働きなさい。あなたの手は仕事に忙しく、あなたの心は善い感情で満たされているべきです。あなたがそうするなら、あなたより優れた人はいないでしょう。そのような人こそが本当の人間です。神はそうした真の人間を探し求めています。信者が神を探す必要はありません。神はどこにでもいます。そうする代わりに、自分の心を純粋で敬虔にするためにあらゆる努力をしなさい。偉い人ではなく、善い人になるべきです。偉い人と呼ばれている人たちから、世界は何を得ていますか?
学生諸君! 得ていないなら、偉いと感じるべきではありません。真実を正しく理解しなさい。高学歴の人たちは、ほとんどが私利私欲に駆られているため、この国の困難、損失、苦しみの原因になっています。彼らは、国家の利益ではなく、自分の利益のために学問や技能を利用しています。インドには多くの偉い知識人がいます。この国をこのような残念な状態にしてしまったのは、彼らです。彼らは無私無欲とは正反対です。もし彼らに神聖な気持ちがあれば、国はあらゆる面で大きく前進したことでしょう。彼らは自分の知性を個人的な利益のためだけに利用しています。私たちの国には、1万ルピーの給料を受け取りながら、10ルピーに値する仕事さえもしていない人たちがいます。そのようにして、この国はどれだけ損失を被っているでしょう? あなた自身に問いかけてみなさい。1カ月にあなたがした仕事は1万ルピーの価値がありますか? しかし、そういう人は海外に行くと懸命に働きます。時間外の仕事さえもします。夜も働きます。外国でそのように働けるのなら、なぜ自分の国ではそうしないのでしょうか? 広い視野を持って、自国への愛と神聖な気持ちを示すべきです。これは真の信愛です。信愛とは、神の写真を拝むことではありません。そうした行為は善行と見なすことができます。善良な気持ちを育むべきです。善良な気持ちがなければ、善行は有益な結果をもたらしません。
ポジティブな思考で心を満たす
愛の化身たちよ! シヴァラートリにはどんな意味があるのでしょうか?シヴァは吉祥の象徴です。この日は敬虔な気持ちであなたの生活を聖化すべきです。皆さんは一晩中バジャンをしました。それは皆さんに幸せを与えました。しかし、それは聴いたり唱えたりという外的な活動だけに留められています。幸せはハートの奥底で感じるべきものです。
もし、あなたがネガティブな思考を抱いたままポジティブで建設的な活動に参加したら、それは何の役に立つでしょう? まず、ネガティブな思考を取り除きなさい。あなたの心をポジティブな思考で満たしなさい。そうすれば、全世界が栄えるでしょう。社会が栄えるでしょう。あなたの村が栄えるでしょう。あなたの家が栄えるでしょう。社会奉仕は、個人から社会へ、社会から全国へと拡大すべきです。奉仕をしているとき、どんな違いも見てはいけません。どんな組織でもいいのです。それは問題ではありません。行って、参加しなさい。奉仕が目的です。犠牲が目的です。敬虔で神聖な気持ちを育みなさい。そうして初めて、あなたの人生は成就を得ることができるでしょう。
広い視野を持つ
多くの若者は、学業を修めた後、適した職に就くまで時間を無駄にし、数え切れないほどの問題に直面します。彼らは、政府が雇用を与えてくれないと非難します。政府はどれだけの雇用を作り出せるでしょう? このまま雇用を与え続けていて、政府は国を運営できるのでしょうか? さらに、従業員たちは給料の値上げを求めています。しかし、国庫は空っぽです。収入は見込めません。政府が税金を課せば、国民に嫌がらせをしていると言って人々に非難されます。もし政府が税金を課さなければ、どうやって国民の福祉を守ることができるでしょうか? ですから、皆さんはこうした視点にも注意を向けるべきです。私たちの教育機関では、学生から学費を徴収していませんが、他の教育機関では、授業料や試験料などを上げると学生たちが反対します。学生たちは学費を下げるべきだと主張し、教師は給料を上げるべきだと要求します。政府はどこから資金を調達することができますか? 国民から徴収し、国民の福祉のために支出するのです。税金がなければ、給料を払うことも、子供たちの教育のために使うこともできません。ですから、広い視野を持つことが必要です。
古代から後世へと保持されてきたインド文化は、他国に広がり、大きな栄光を手に入れました。ところが、今、インド人はそれを無関心に眺め、そうすることで国家と世界に害を及ぼしています。これほど長い間、自国の文化を持っている国は他にありません。他の国は、今日はある文化に従い、明日には別の文化を採用します。しかし、インド人には、永
遠で、清らかで、徳高い、ただ一つの文化があります。その文化だけが、皆さんが人間の本性を培うのを助けることができるのです。皆さんはこの真実を支持すべきです。人間的価値を育むべきです。発展のプロセスを科学と工業の分野だけに限定してはなりません。もし、さらに多くの産業を設け続ければ、環境汚染のリスクもますます高まるでしょう。ですから、あなたのハートの中にある神聖な気持ちを、最大限に育てていく必要があるのです。
お金は入っては出ていくが、道徳は入ってくると育つ
愛の化身たちよ! あなた方は多くの知識の部門を学び、学位を取得します。学業を終えてプラシャーンティ ニラヤムを離れたら、両親の許可と助けを得て、村に奉仕しなさい。政府の仕事を欲しがらず、大衆に奉仕することを切望すべきです。もし、あなたが大衆に仕えるならば、大衆はあなたの福利の面倒を見るでしょう。あなた方は神聖な力を持っていますが、まるで自分は無力で弱いかのように振る舞っています。今、あなた方は友情と富と力を手に入れようとしています。しかし、あなた方は善い人格を育てていません。友情とは何でしょうか? それはただの「Hello、Hello(ハロー、ハロー)」です。よく食べれば体力がつきます。一生懸命働くことで、たくさんのお金を稼ぐこともできます。けれども、
あなたはこれらのためにだけ生きているのでしょうか? これらはすべて流れゆく雲です。お金は入っては出ていきますが、道徳は入ってくると育ちます。美徳を養うべきです。年長者や役人を敬い、両親を愛するべきです。両親を信頼すべきです。先生を信頼すべきです。そうした神聖な気持ちを育むべきです。人間らしさと人間的価値は、あなたの中で芽生えます。それを育み、伸ばすべきです。人間的価値がなければ、あなたの学識はすべて無駄になってしまいます。満足は真の教養の印です。
もしあなたが他者を助けるなら、あなたは世界に理想を掲げることができるでしょう。理想は決して死にません。理想は溶けてなくなることもありません。理想は日々成長していきます。皆さんは理想を育むべきであり、それには青年期が適した年齢です。青年期は黄金時代です。この神聖な年齢を誤用してはなりません。正しい方法でそれを活用しなさい。そうして初めて、あなたのすべての学識は、実りある、価値あるものになるのです。
愛の化身たちよ! 愛を育みなさい。何をするにも、愛の精神で行いなさい。愛がなければ、あなたの行いはすべて、神聖なものではなくなります。
シュリ サティヤ サイババ述
2000年3月5日
マハーシヴァラートリ
プラシャーンティ ニラヤムにて
Sathya Sai Speaks Vol.33 Ch6
牛乳と水
⻄洋のカレンダーでは1月1日から新しい年が始まり、この日はインドにおいても⻄洋諸国の祝祭に合わせて新年の日として祝われています。しかし、少し考えてみれば、一秒一秒が新しいものであることが分かるでしょう。一秒一秒が新しい誕生を示しています。それは新たな勝利を得るための機会です。 というのは、インド文化が目的としているのは各人がアートマ〔真我〕を認識することであり、富や学問や名声を手に入れることではないからです。人間の最大の義務は、真実〔真理/サティヤ〕を探究することです。真実は献身と信愛によってのみ勝ち得ることができます。そして、それらは神の恩籠しだいであり、神の恩籠は愛に満ちあふれたハートだけに注がれるのです。
「神はどこにいるのか?」という質問を、最近の人々はよく口にします。プラフラーダは、神の御名をたゆみなく唱えることによって、神は至る所にいることを知りました。「神はここだけにいる」とか、「神はあそこにはいない」と断言するのは正しいことではありません。真実の悟りは、真剣なサーダナ (霊性修行)を経て、初めて開かれるのです。あなたはあらゆる種類の魅力的な品物がデパートに並んでいるのを見るかもしれませんが、くださいと頼むだけではそれらを自分のものにすることはできません。あなたが代金を支払った品物しか、自分のものにすることはできません。あなたにとって、悟りは魅力的な品物で、手に入れて帰りたいと思うかもしれませんが、あなたはその代価を支払わなければなりません。これは自分のものだと主張して懇願するだけでは、あなたのものにはなりません。
激情に左右されることから 自由になる努力をしなさい
あなたが明らかに国の君主である場合に限り、あなたは王になるに値します。もしあなたが敵に追われて王座から逃げ出そうとしているならば、あなたには王という位がふさわしいなどとどうして言えるでしょうか? 同様に、あなたは、情欲、食欲、憎悪、慢心という内なる敵を打ち破り、明らかに自分自身の主人となることができたとき、初めて王座に就い て、私は主人であると宣言することができるのです。
インドでは、「我らはスワラージヤ〔自己支配〕 (自由)を勝ち得た」と言いますが、スワーラージヤ〔自己発光〕(光を放つ存在であるブラフマンと自分を同一視すること)こそが、私たち一人ひとりが勝ち得ようと熱望する地位であるべきなのです。 スワラージヤ〔自己支配〕は、政治的な独立であり、 外国人支配者のくびきという屈辱から自由になることです。スワーラージヤ〔自己発光〕は、激情や感情に左右されることから解放されることです。
外的な束縛が解かれたとき、人はスワラージヤ 〔自己支配〕を得ます。内的な束縛が解かれたとき、 人はスワーラージヤ〔自己発光〕を得ます。スワーラージヤ〔自己発光〕のみが、平安と歓喜を確実にすることができるのです。
神はあなたの手の届かない所、遠く離れた場所にいるのではありません。神はあなたの内に、あなた自身の内なる祭壇にいます。そこに神を見いだせないために、そして、見いだして平安と歓喜を引き出すことができないために、人間は苦しんでいるのです。流れる川の水に膝までつかって洗濯物を洗っていたあるドービー(インドの洗濯人)は、のどが渇いて死にました。なぜなら、彼は命を与えてくれる水が自分の手の届く所にあることに気がつかなかったからです。彼はただ身をかがめて水を飲めばよかったのです。これは人間を語った話です。人間は自分の外に神を求めて必死に走り回り、目的を達することができないまま失望と混乱のうちに死んでいきます――また生まれてくるためだけに。
もちろん、あなたはこの世にいなければなりませんが、この世のものである必要はないのです。あなたの注意は、神に、内なる神に、固定しておかなければなりません。カンナダ語が話されている地方に、カラガと呼ばれるお祭りがあります。その神聖な儀式の中心となる人物は、頭の上にいくつも壺を載せて積み重ね、そのまま音楽に足取りを合わせて行進します。さらには、他の人たちと声を揃えて歌を歌い、太鼓に合わせて拍子もとらなければなりません。 しかし、そうしている間ずっと、その人の注意は自分の頭に載っている不安定な壺の塔のバランスを取ることに向けられています。それと同じく、人間は人生という騒がしくて浮かれた行進を続けている間、 神を悟るという目標を持ち続けなければなりません。
英知は清らかな心でのみ得ることができる
人々の中には豊かな国々が到達した高い生活水準をうらやむ人もいますが、インドの貧困は、⻄洋の豪華で見栄っ張りな生活よりもずっと善良な生活に適しています。広大な海は莫大な水をたたえていますが、人間ののどの渇きを癒すことができますか? それと同じように、どんなに多くを持っていても、 無執着を身につけなければ、それは単なる不毛の浪費でしかありません。五感の喜びと物質的な追求に対する無執着は、神と神聖なものへの愛が育つ助けとなります。
人々は、自分に興味があるのは探究と理性だけだ、 自分はグニャーナ(霊的英知)の道だけを歩むのだと、誇らしげに言います。彼らはグニャーニ(霊的英知を得て解脱した人)になることを熱望しています! しかし、グニャーナ(霊的英知)は清らかな心を持っていなければ勝ち得ることはできません。
「神とは何者か?」という探究に取り組む前に、自分は何者かを見いだす必要があります。ひとたび自分は何者であるかを見いだしたなら、神は何者であるかを知る必要はありません。なぜなら、両者は同じだからです。
神は自分の中にいるということが分かった時、あなたは自分をはるかに高く評価するようになるでしょう。というのも、自分が拾った「ガラス玉」は 実は「ダイヤモンド」だったということが分かったら、安全のためにそれを鉄製の金庫に保管するに違いないからです。石も、彫刻家によって魅力的な神像の姿に彫られれば、非常に大切にされ、立派な寺院に安置されて、何世代にも渡って人々から儀式を伴う礼拝をされることでしょう。
いくつもの過去生の間に、この世は実在であり、自分は肉体と同じである、という誤った認識があまりにも深くあなたの中に植え付けられてしまったために、それを取り除くには非常に強い薬を絶え間なく服用し続けるしかありません。その薬、「ラーム、 ラーム、ラーム」〔ラーマの御名〕を、限りなく服用し、吸収しなければなりません。その治癒力のあ るエッセンスは、体のすべての部分、すべての感覚器官、すべての神経、そして、血液の一滴一滴に行き渡ります。すると、あなたのすべての細胞がラーマへと変えられるでしょう。あなたは、るつぼの中で溶け、ラーマの鋳型に注がれて、ラーマとならなければなりません。それこそがグニャーナ〔英知〕の完成です。ラーマ ナーマ〔ラーマの御名〕であれ、 他のどんな御名であれ、唱えて心の中に吸収されれば、それは、あなたをむなしいものへと引きずり込む五感の気まぐれを制御する助けとなるでしょう。
内なる敵を打ち破り あなたのエゴに打ち勝ちなさい
五感のコントロールという分野では、五世紀前のインドと今のインドではとても大きな差があります。 現代では、五感は自由に遊ぶことを許されています。 人は貪欲と情欲とエゴの奴隷になっています。その原因はすべて、親と年⻑者にあります。親たちは、 自分の子供がお寺に行ったり宗教的な講話を聞きにいったりすると、叱りつけ、頭がおかしくなる兆候だと注意します。宗教は老後に追求するもので、若者が真剣に取り組むべきものではないというのです!
逆に、親たちがそれを奨励しさえすれば、子供たちは人生の戦いのために、より良い装備をすることができます。親は子供にこう助言すべきです。
「私たちを導き、守ってくださる神がいることを確信しなさい。感謝の気持ちを持って神を憶念しなさい。私を清らかにしてくださいと神に祈りなさい。 すべての人を愛し、すべての人に奉仕しなさい。善い仲間に入りなさい。寺院や聖人を訪ねなさい」と。
あなた方は新聞で、戦闘や征服、勝利や成功の記事などを読みますが、それらはすべて物質的な征服や成功などです。五感の誘惑と戦い、内なる敵を征服し、エゴに勝利しなさい。それこそが、祝うに値するあなたの勝利であり、それ以外は勝利ではありません。それこそが、私がスワーラージヤ〔自己発光〕と呼んでいるものです。
年が新しくなるのも、日が神聖なものになるのも、 あなたがサーダナ〔霊性修行〕によって年や日を神聖なものにしたときに限られるものであり、それがなければそうはなりません。サーダナは、愛という肥料がよく施された畑でしか育ちません。愛、すなわちプレーマは、バクティ(神への信愛)に必須の条件です。物品や名声や妻や子などに抱いているあなたの愛は、より強烈な神の愛に包摂されることで、神聖なものにならなければなりません。
スプーン2杯の水を2リットルの牛乳に混ぜれば、 水も牛乳として喜ばれます! 今、あなた方のサーダナは、2リットルの水にスプーン2杯の牛乳を混ぜているようなものだといえるでしょう!あなたのハートを神への愛で満たし、ハートを感動で震わせなさい。そうすれば、あなたは、誰も憎むことができなくなるでしょう。不健全な競争意識に浸ることもできなくなるでしょう。誰にも欠点を見つけることはなくなるでしょう。人生が穏やかで甘美でなめらかなものとなるでしょう。
サティヤ サイ ババ
1967年1月1日
マドラス市グインディ地区のシュリ サティヤ サイ マンダリーにて
Sathya Sai Speaks Vol.7 Ch1
教育の目的は人格
学生の皆さん、少年少女の皆さん! 現在の副学長、元副学長 、セントラル・トラストの事務局長、そして二人の学生は、美しい語彙を用いて素晴らしいスピーチをしました。この広い世の中では、内なる存在を目覚めさせ、ハートを大きな至福で満たしてくれる、この上なく素晴らしい、喜びに満ちた行事の数々が、至る所で行われています。本校の学生たちも、卓越した技能や知性、スポーツや競技や音楽の分野における専門的な技能を養い、自分たちの才能を発揮して、あらゆる人を喜ばせました。学生たちは、着手する活動が何であれ、それを一時的な幸福のためではなく、スワミを喜ばせるために行っています。
教育は内なる視力を育てなければならない
生まれた時から、人間のすべての活動は、学んで知恵を獲得する過程に中心が置かれます。自分のハートを愛で満たし、万人を幸せにすることができるよう、本校の学生たちに理想主義の精神を教えることは絶対に必要です。今日、世界中に数多くの教育機関が存在していますが、教育とは本当は何を意味しているかを理解している人は誰もいないようです。学生たちは、単なる書物上の知識で頭を満たし、試験の答案を書き、合格点を取って、自分たちは教育を身につけたと主張しています。
身につけた教育や知力にもかかわらず、
愚かな人間は、自らの真我を知ることがないだろう
心の卑しい人間は、
自らの悪い性質を捨てないだろう
(テルグ語の詩)
現代の教育は、論争だけをもたらし、
完全な英知をもたらさない
不滅へと導くことのできない教育を身につけて、
いったい何の役に立つだろう?
あなたを不滅にしてくれる知識を手に入れなさい
(テルグ語の詩)
ヴィッディヤー〔光を照らす知識〕とはグニャーナ(英知)を意味します。グニャーナは、世俗的な知力のことではありません。真の教育は、内なる視力〔霊的な目〕を育み、永続的な至福を体験させてくれます。学生は、現代の教育制度からどのように恩恵を受けているでしょうか? 学生たちは、ただ学位を手に入れて、権威者たちから高い評価を得てはいますが、教育というものの真の意味を理解していません。
現代の学生は、スポーツや文化の行事に参加することの背後にある真の精神を理解することができていません。スポーツや競技といったあらゆる行事には、勝者と敗者がつきものです。人々は競技の結果だけに関心を持ち、スポーツの精神を享受することがありません。スポーツや競技の目的は、勝負の決着をつけることではなく、参加者にスポーツマン精神を教え込むことにあります。人生はゲームです、プレイしなさい。人生は夢です、それに気づきなさい。人生は愛です、楽しみなさい。これらの言葉の趣旨を理解し、日常生活でそれを実現する人だけが、真の学生です。
現代の教育制度は、学生の識別力を育てる代わりに学生を狭量にしています。真の知識を与えることもなければ、学生たちが広い心を持つのに役立つこともありません。現代の教育は意味のないものになっています。学生たちに指定された教科書には、真の教育の核心が含まれていません。なぜ政府がそれほど無価値な教科書を奨励するのか、私は不思議に思います! おそらく、政府でさえその実態に気づいていないのでしょう。それは、低い地位にいる人が高位の関係当局に相談しないまま決定したかのように見えます。それは政府に悪名をもたらしていますが、誰もそのことを憂慮しているようには見えません。このような不健全な傾向が増加しています。
古代の教育制度と結びついている神聖さを理解しようと努めている人は誰もいません。学生は、教育の核心にではなく、書物の知識だけに関心を抱いています。実践的な知識ではなく、教科書の知識だけがテストされています。学位は生計を得るための手段であると学生たちは考えています。教育は、生計を立てるためにではなく、人生のためにあるのです。ところが、学生も親もこの真理に気づいていません。親は、自分の子供が試験で良い成績を取れば嬉しく思います。親は、子供が得た悪い所見の山については、何の心配もしません。所見に関心を持ちさえすれば、親は子供たちが受けている教育がどんな類のものなのかをきちんと理解することができるでしょう。現代的な教育が進出してきたせいで、ヴェーダとシャーストラ〔天啓経典〕の学習は衰退してしまいました。このような状況下で、どうやって現代の教育が皆さんに真の英知を授けることができるのでしょう?
親と教師はもっと責任を負うべきである
学生の皆さん! 皆さんは、あまねく社会と世界に恩恵をもたらすような教養を身につけるべきです。社会の現状はどうでしょう? 私たちはどのような方法で社会を理想的なものにすることができるでしょう? 人はどのようにして社会の進歩のために働くべきなのでしょう? 誰もこの種のことは考えていないようです。さらに、現代の教育制度は社会奉仕を重視していません。もし誰かが教育制度の改革について話をしても、学生たちはそれを無視します。学生たちは、教科書の知識が教育のすべてであり、目的であると考えています。年長者たちは学生に正しい教育を施す責任を持つべきです。学生たちは社会の名誉を守るべきです。私たちは教育の真の意味を伝えてくれた古の聖者や先覚者の教えに従うべきです。
ただ単にいくつか学位を取得したからといって自惚れるのは、愚かさのしるしです。社会が必要としているものを理解し、自分の受けた教育を社会の発展のために生かすべきです。人々は、自分は社会に奉仕をしていると言っていますが、社会が何を必要としているかを本当には理解していません。そのような奉仕はサマージャ セヴァ(社会奉仕)ではなく、サマーディ セヴァ〔墓奉仕〕、つまり、生気のない、機械的な行為です。教育制度が正しく整えられたとき、社会は初めて発展するでしょう。
西洋の教育への熱狂が増したために、ヴェーダ聖典の学習はおざなりにされています。親は子供が幼いころから、何が善で何が悪かを教えるべきです。親は、子供が大学の入学許可を手に入れて学位を取得することで満足してはいけません。親は、子供が自分の受けた教育を国への奉仕に活用することを確実にすべきです。この点について、政府はあまり多くのことはできないでしょう。子供を正しい方向に沿って導くのは親の責任です。親は、国の発展のために働くよう子供を奨励すべきです。しかし、昨今の親はそのような寛大な心を持ち合わせていません。教師でさえ、国家の安寧に関心を抱いていません。
教師は、学生に書物の知識を教えることで自分の責任は終わりだと感じています。教師は、教科書に載っている情報は社会の役に立つものか、そうでないかを調べることさえしていません。教師は、その問題を政府に持ちかけようとしません。たとえ教師がそれを持ちかけても、政府は返答しません。彼らは、教育機関を学位保持者の生産工場にしています。この現状について、学生だけが責められるべきではありません。この情けない現状には、親と教師と政府に等しく責任があります。
学生は、教室で良い順位を得て良い評判を手に入れたとしても、それだけでは不十分です。社会と国家の発展のために働いて、そうすることで親に良い評判をもたらすべきです。親は、折に触れて子供の進歩を観察し、子供に繰り返し功徳を説き聞かせ、責任ある市民に育て上げるべきです。親は、子供が良い点数を取ったからといって満足してはいけません。親は、子供が家でどんな種類の本を読んでいるかにも注意を払うべきです。無益な小説を読んでいる学生もいます。しかし、親はそれを矯正することに時間をかけようとはしません。逆に、親たちは、「小説を読むことに何か間違いがあるのですか? 子供が喜んでいるなら構いません」などと言う始末です。このようにして親は子供を駄目にしているのです。親たちは、自分の留守に子供がどう振る舞っているかを気にかけません。子供の振る舞いを正さず、ただ教育を受けさせるだけでは意味がありません。親たちは、最も理想的な方法で子供を育成した祖先たちの模範を見習うべきです。
学生に世俗と霊性の融合した教育を施す
愛の化身である皆さん! 現代の教育制度は改革を必要としています。現代の親たちは、自分の子供が英語を媒体とする学校で学び、英語の詩を朗唱できることを自慢に思っています。彼らは、その現代的な教育が子供にどのような種類の打撃や影響を与えているかをわかっていません。幼稚園の小さな幼児たちは「バーバー、ブラック シープ」〔メーメー、黒い羊(厄介者)さん〕といった童謡を教えられています。このような教育のせいで、最終的に、子供たち自身が黒い羊〔厄介者〕になってしまうのです。学生たちの人生をすっかり台無しにしている現代の教育制度を見ると、私は本当に胸が痛み、うんざりしてしまいます。だから私は、学生の人格形成のために、何千万ルピーもかけて教育機関を設立したのです。
私は教科書でさえ学生たちに無料で支給しています。今日の世界は状況が大変悪いため、小学校に入学するのにさえ、あらかじめ寄付として何千ルピーも支払うことで、上手いこと手続きをしなければなりません。親たちは、自分たちが良い学校だと思っている学校に子供が入学許可を得ると嬉しく思い、そのような教育制度のために生じる成果については気にかけません。子供は、親が子を教育するために窮乏に耐え忍ばなければならないことに対して、感謝をしていません。親たちは、子供を教育するために借金し、まともな食事や睡眠すら取っていません。結局のところ、子供たちはこの教育制度から恩恵を受け取っていないのです。
子供は自分にとって何が良くて何が悪いのかを理解できません。今、教育の質がこれほど「チープ」〔低級〕になってしまったというのに、どうやってそんな教育が人を「チーフ」〔長〕にすることができるでしょう? 親も教師も学生も、現代の教育制度によって社会や国家がどのような恩恵を受け取るかを理解できていません。ですから、社会に完全な変革をもたらすために、親と教師と学生が皆、手を取り合って、一致団結して働くべきです。
現在、学生たちの不安が増大しつつあります。しかし、それは学生の責任ではありません。学生たちは非常に良い素質を持っています。過ちは、教師と年長者と政府にあります。現代の教育制度が学生の人格を形成するように計画されていないことが、決定的な要因です。良い学生がたくさんいるのに、親と教師と教科書が学生たちを正しく導いていないのです。今は、親が目を開いて現状を理解する潮時です。親は、子供が適切な教育を受けることで子供の人生を向上できるようにすべきです。親は子供に、そうした、不滅をもたらしてくれる教育を受けるよう勧めるべきです。もちろん、世俗に関連した教育も必要です。しかし、学生の人格を形成して国家のより良い市民にするためには、世俗に関連した教育は霊的な教育と調和しているべきなのです。
教育の目的は人格であるべき
学生の皆さん! 自分が高等教育を追求していることを自慢に思ってはなりません。高度な教養と共に、高潔な性質を養うべきです。美徳を欠いた教養は無益です。教育の目的は人格です。今日、多くの学生が、無益で、不道徳ですらある小説を読んでいます。関係当局は、そのような本が市場で販売されないことを確実にすべきです。学生は、自分の人格を向上できるような本だけを読むべきです。学生は真の精神でスポーツや競技に参加すべきです。
このアドバイスは女子学生にも当てはまります。女子学生たちは、「男子がオートバイに乗っているのに、なぜ私たちは同じことができないのですか?」と尋ねます。このようにして、彼女たちは議論をして時間を無駄にしています。誰も女子はオートバイに乗るべきではないなどとは言っていません。しかし、人は時と状況に応じて行動すべきなのです。若い人の二輪車での死亡事故の件数が増加しています。親は子供を育てるために多くの犠牲を払っています。それなのに、その大切な命がオートバイの事故で失われたとしたら。私にはそのときの親の苦悶が分かります。
今、女子たちは、あらゆる分野で男子と競争したがります。名声と評判も熱望しています。彼女たちの主張はこうです。「どういう点で私たちは男子より劣っているのですか? どうして私たちは男子と同じ種類の教育を身につけることができないのですか?」。しかしながら、人はそれぞれ、自分に見合った、適切な種類の教育を身につけるべきです。家族の面倒をよく見て、理想的なしつけで子供の人格を形成することは、女性にとって必要不可欠です。
子供に美徳を教え込むのと同時に、適切な教育も施すべきです。現代の教育は、学生を誤った方向に導いています。親は、これに関して、ある程度の責めを負うべきです。親は、子供が高い資格を取得すること、高い資格を持つ相手と結婚することを望んでいます。縁談をまとめようとする時、次のように尋ねる親もいます。「うちの娘は大学院を修了しました。娘は器量が良いのです。お宅の息子さんはどうですか? 大学院を修了されましたか? 息子の顔立ちは良いですか?」。実のところ、美しさは人格と結びついたものであり、身体的な容姿と結びつくものではありません。人格の美しさこそ、人が切望すべきものです。大学院を修了した花嫁が、必ず大学院を修了した花婿を得ることは可能でしょうか? 現代の教育は不健全な競争と対立をもたらしています。私は、女子は高等教育を追求すべきではないと言っているのではありません。もし私が女子の教育に不賛成であれば、なぜ女子大学を設立しなければならないのでしょう? 私は、学生に美徳を教え込むという唯一の目的を持って、さまざまな教育機関を設立しました。私は無料で教育を提供しています。受験料さえありません。私のもっぱらの目的は、学生が正しい教育を身につけて、理想的な市民となり、両親を幸せにすることです。
学生の皆さん! 私の言葉を誤解してはなりません。私は皆さんの安寧と繁栄のために、これら一切を話しているのです。皆さんは、自分に良い評判をもたらしてくれるような教養、家族の名声を守ってくれるような教養を得るべきです。自由の名の下に利己的になって、誤った道を歩んではなりません。私は、道を歩いている時はあちこちよそ見をしないようにと、たびたび男子学生に警告しています。中には、猛スピードでオートバイを運転しながらすれ違う若い女性を見続けている男子もいます。彼らは注意がそれて事故を起こす羽目に陥ります。もし、あなたの人格が善良であれば、あなたは常に守られるでしょう。自分の五感をいつもきちんとコントロールしているべきです。自分の見るもの、聞くこと、話すことを、いつもチェックしているべきです。仏陀は、五感を支配する目的でさまざまな霊性修行に着手しました。
なぜ、あなたに目が与えられたのか?
それはあちこち見るためか? 否
目は神の美しい姿を見るために与えられた
なぜ、あなたに耳が与えられたのか?
それはつまらぬ噂話を聞くためか? 否
耳は神の栄光を聞くために与えられた
(テルグ語の詩)
耳は善い言葉を聞き、それらを実践し、そうすることによって有徳な人生を送るために与えられているのです。仏陀は、神が有徳な人生を送る目的で感覚器官を授けたことに気づいたため、儀式化したあらゆる霊性修行を捨て、自分の五感を神聖な使い方で用いました。仏陀は、自分が人生で獲得しなければならないのは美徳であって、五感の喜びではないことを確信しました。仏陀は、自分の良心が自分の真の導師〔グル〕であることを悟り、目や舌といった感覚器官を制御する努力をしました。この二つの感覚器官が制御されるなら、他のすべての感覚器官は自動的に制御できるようになります。こうして、人生における自分の目標を定めた仏陀は、妻と一人息子を捨て、広い世間に足を踏み入れました。
しかし、私は皆さんに、仏陀のように妻子を残して森へ入るよう勧めているわけではありません。皆さんは、妻子の面倒をよく見て、妻子に対する責務を果たしなさい。自分の子供に高潔な性質を教え、世の中で子供を育てなさい。有徳の人生を送りなさい。これが仏陀の教えたことです。もしあなたが仏陀のようにサムヤク ドリシティ〔正見/サムヤク ドルシティ〕を養うなら、全世界はあなたの配下に入ることでしょう。
有徳の人生のために懸命に努力せよ
他の人の誤った助言に注意を払ってはなりません。高潔な性質を育てなさい。もしあなたが自分の五感を制御することができれば、叙事詩バーガヴァタの精髄を悟ることになります。叙事詩バーガヴァタの学習は、人を有徳の人に変えることを意図しています。ですから、自分の五感を制御して、この世の主人となりなさい。これこそ、皆さんが目下、懸命に努力しなければならないことです。両親にも人生における自分の優先事項について説明しなさい。両親にこう言いなさい。「お母さん! お母さんは私が高給をもらえる仕事を選ぶことを期待しています。でも、高い給料は有徳の生活ほど重要ではありません。もし高潔な生活よりもお金を優先するなら、人生そのものが台無しになってしまうでしょう」
自分の五感を制御し続ければ、あなたは高潔な性質の人となるでしょう。人格の強さも手に入れるでしょう。主ラーマの傑出した召し使いであるハヌマーンは、そのような高潔な性質の模範です。ハヌマーンは、「サントゥドゥ」(穏やかで落ち着いている者)、「グナヴァントゥドゥ」(有徳の者)、「バラヴァントゥドゥ」(大きな力強さを持つ者)と称えられています。ハヌマーンは、自らの高潔な性質のゆえに、偉大な導師〔グル〕となりました。私たちはハヌマーンの高潔な性質を見習うべきです。
愛しい学生の皆さん! 皆さんは純金のようです。皆さんは高潔な性質の数々を持っている人たちです。皆さんは貴重です。ところが、皆さんの中には、悪い要素によって、誤った方向へ導かれる者もいます。たとえ他の人々が皆さんを誤った方向へ導こうとしても、自分が選んだ道からそれてはなりません。しっかりと踏ん張りなさい。そうして初めて、あなたは名声と良い評判を手に入れるでしょう。これは学生への私のアドバイスです。
皆さんは、現代の教育を通して、職業で出世することのできる技能を教えられていますが、誰も皆さんに道徳教育を教えてはいません。道徳は、教育の最も重要な側面です。お金は入っては出ていきますが、道徳は入ると育ちます。ですから、道徳を養いなさい。それはあなたに社会からの尊敬をもたらすでしょう。
あなたがどこにいようとも、
森の中であれ、空中であれ、都会であれ、
村であれ、山の頂上であれ、深海の真ん中であれ、
神が、あなたの唯一のよりどころ
〔テルグ語の詩〕
高潔な性質を養いなさい。私があなたにすべてを与えましょう。それどころか、高潔な性質を養う人、そして、それらを教える人には、私自身を与えましょう。実際、私はそのような人々のためだけに生きているのです。私は彼らから何のお返しも求めません。徳のある高潔な生活を送りなさい。両親と母校とスワミに良い評判をもたらしなさい。
愛しい学生の皆さん! 皆さんは全員、高潔な性質を備えた人たちですが、ある程度、現代社会の影響を受けています。ですから、心を乱す影響力に打ち負かされてはなりません。何よりもまず、自分の五感を正しく使いなさい。あなたが出会う年長者全員を、自分の父や母として敬いなさい。あなたの思いと言葉と行動によって、良い評判を得なさい。
善良な仲間に加わり、善い言葉を話し、サムヤクドリシティ〔正しい見方〕を養い、あなたの人徳を形成する善良な教育を受けることを追求しなさい。それこそが、私が学生の皆さんに期待していることです。実際、これは皆さんの両親も望んでいることです。子供が台無しにされるのを期待する父親や母親はいません。しかし、親は一種の遠慮から、子供に適切な助言を与えたり子供をきちんと正したりすることができずにいます。もちろん、私にはそのようなためらいはありません。ですから私は、私が命じていることを強調して、皆さんに、善いものを見なさい、善くありなさい、善いことをしなさい、と助言します。高潔な性質を養いなさい。ボーガ(享楽)ではなく、ティヤーガ(犠牲/手放すこと)こそが、あらゆる性質の中で最も高潔なものです。実際、ボーガ(享楽)は、あなたをローガ(病気)へと導きます。ヴェーダは次のように宣言しています。
ナ カルマナー ナ プラジャヤー ダネーナ
ティヤーゲーナイケー アムルタットワマーナシュフ
行為によっても、子孫によっても、富によっても、不滅の命は手に入らない。
不滅の命は犠牲によってのみ手に入る。
それゆえ、バンガール〔黄金〕たちよ! ティヤーガ(犠牲/手放すこと)といった高潔な性質を養いなさい。私は皆さんのためなら何でも犠牲にする覚悟です。しかし、皆さんも私の恩寵を受け取るにふさわしい立場にいなければなりません。私は皆さんのものであり、皆さんは私のものです。それが私たちの間にある関係であるべきです。スワミの愛を理解しようと努めなさい。この一切は、正しい道を歩むようにと、皆さんに助言しているのです。両親の願いに背いてはなりません。もし万が一、あなたの意見が親の意見と違ったら、愛をもって自分の見解を親に説明しなさい。両親も、あなたが親の気持ちを尊重してくれていることを嬉しく感じるでしょう。
ヴェーダは宣言しています。
マートゥル デーヴォー バヴァ
ピトゥル デーヴォー バヴァ
アーチャールヤ デーヴォー バヴァ
アティティ デーヴォー バヴァ
母を神として敬いなさい
父を神として敬いなさい
霊性の師を神として敬いなさい
客人を神として敬いなさい
親に優しく穏やかに話しなさい。もし必要であれば、親を説得しなさい。私は、そのような学生のためなら、何でも犠牲にする覚悟があります。さまざまな学生が私たちの教育機関に入学してきます。中には学費を払えない学生がいるかもしれません。そのため、私たちは、サティヤ サイの学校ではすべての教育を完全に無料化すべきであり、学生からは一銭も徴収しないことに決めたのです。皆さんは、あらゆる心配から解放されて平安を楽しむべきです。善良な振る舞いをすることによってこそ、平安を手に入れることができます。今、いく人かの学生は、人生で良いことを味わいたいと願いながら、間違った方法に従っています。彼らは、砂糖を食べたいと望みながら、苦い丸薬を飲んでいるのです。彼らは、言っていることと別のことをしています。だからこそ、次のように言われているのです。
マナッスィエーカム ヴァチャッスィエーカム
カルマンニェーカム マハートマナム
マナッスヤンニャト ヴァチャッスヤンニャト
カルマンヤンニャト ドゥラートマナム
思いと言葉と行動が完全に一致している人は高潔な人間であり
思いと言葉と行動が一致していない人は
邪悪な人間である
私は、思いと言葉と行動が完全に一致している学生が好きです。彼らのためなら、私は何でも犠牲にする覚悟があります。それどころか、そのような人々には私自身を与えるでしょう。
愛しい学生の皆さん! 皆さんは、間違っていると知りながら、あるいは、そうとは知らずに、過去に過ちを犯してきたかもしれません。しかし、少なくともこれからは、善良な性質を養い、いつも両親とスワミを幸せにし続けるよう努めなさい。
(スワミは小学校と中高等学校と三つのキャンパスから来た学生をお呼びになり、〔前日行われた〕スポーツ文化祭での学生たちの活躍を賞賛して、光り輝く銀のトロフィーを授与なさいました。)
サティヤ サイ ババ述
サンクラーンティ
2004年1月15日
プラシャーンティ ニラヤム
Sathya Sai Speaks Vol.37 Ch3
愛によって
もたらされる神性
1987年クリスマスのババの講話
さまざまな信仰を持つ男女が
世界各地から愛と謙虚さを携えて
快適か快適でないかを
気にかけることなく
数々の苦難に耐えながら
ここに集まった
すべてはババの恩寵を得るために!
蔓延(まんえん)する無神論を払拭し
神への信仰を植え付ける
すべてを包み込むサイの愛が
人類を変容させ、神へと導いている
愛によってもたらされる神性
神の愛の化身たちよ! 人間は、身体的には基本的な違いはありませんが、習慣や考えや感情には多くの違いが見られます。すべての国は人間の集合体です。世界全体の自然環境はそれほど違いませんが、諸国の人間社会における生活様式の違いはかなりのものです。これは人間の状態の大きな特徴の一つです。
真理は一つです。真理は心(マインド)や言葉を超えています。真理は時間や空間というカテゴリーを超えています。数え切れないほどの求道者が真理を認識するためにさまざまな道を追求してきました。真理を求める人々の間には顕著な違いが存在します。この違いは宇宙の本質に影響を与えるものではありません。逆に、こうした違いは宇宙のプロセスを理解する上でのさまざまな段階であると考えなければなりません。こうした違いこそが、統一的な原理を探求し続けることを促してきたのです。
究極の真理は一つ
インドの形而上学の六つの学派(シャド ダルシャナ)〔六派哲学〕は、過去の偉大な求道者たちによって私たちに提供されてきました。この神聖な教えは、今日ではほとんど注目されていません。それぞれのダルシャナ〔学派〕が示している霊的な道は異なるように見えますが、目的は共通しており、彼らが宣言する究極の真理は一つです。国内におけるさまざまな宗派や共同体の違いや、人々の間に蔓延してきた唯物論のせいで、六つのダルシャナの教義は真剣に追求されていません。唯物論の教義があまりにも世界を席巻しているため、インドの形而上学〔六派哲学〕の偉大さが評価されていません。この哲学を適切に検討するための環境さえも存在していないように見えます。
唯物論者の教義は、チャイタニヤ(意識/チャイタンニャ)は感覚的な経験の産物である、そして、意識の進化は物質の進化に依存し、物質の進化に基づくものであるという前提で進んでいます。無生物である物質が、唯物論者の教義の基礎になっているのです。物質は有限です。ヴェーダの教義は、意識は体の感覚から生じるものであり、体の感覚は有限で限られた物質に起因するものによって制限されている、という見解を否定しています。意識に対する物質の優位性という概念の誤りを示すために、この唯物論的な教義とは真逆の、アーディヤートミカ〔アートマに関係する〕(霊的)な見解が投じられたのです。
人間と自然
霊的な見解では、基本はアートマ(神霊)〔真我〕です。アートマは無限です。ヴェーダーンタの教義は真我の無限性を宣言し、物質は不活性で有限であることを指摘しました。シュルティ〔ヴェーダ〕は宣言しています。
トリパーダッスヤームルタム ディヴィ
〔彼の輝きの4分の3は不滅の領域にある〕
〔プルシャ スークタムより〕
4分の3を意識が占め、4分の1は不活性な物質です。したがって、物質を動かしているのは意識であって、物質が意識を生み出しているのではないのです。これは霊的な概念の本質です。
ウールドヴァ ムーラム アダハサークハ
(根は高いところにあり、宇宙の木の枝は下にある)
とギーターは述べています。これは、物質である宇宙は普遍意識から生じたという見解をさらに裏付けるものです。
ジャダ(物質)を活性化しているのはチャイタニヤ(意識/チャイタンニャ)であり、意識を生み出しているのは物質ではありません。現代のテクノロジーは、すばらしい機器を生み出し、新しいエネルギー源を利用し、宇宙空間の月や他の惑星を探査する宇宙船を作り出しました。しかし、これらの機器はすべて自力で作動しますか? いいえ、しません。その背後には人間の創意工夫と知性があるのです。どんな機械より人間のほうが偉大です。
人間は意識の化身です。機械を動かすのは意識であり、不活性な物質は意識を創造することができないというのは、議論の余地がないほど明らかです。人間は創造物の中で最も高次のものです。人間は、自然に支配される動物のような本能の生き物であってはならず、自然の主人になるべきです。人間は、ナラ(人間)からナーラーヤナ(神)へと進歩しなければなりません。知的な人間として、自分はサムサーラ(サンサーラ/世俗の鎖)に縛られていると考えるべきではありません。人間を縛っているのはこの世ではありません。この世には、見る目もつかむ手もありません。人間は自分自身の思考と欲望に捕らわれているのです。はかないものや壊れやすいものに執着する中で、人間は自分が生来持っている神性を忘れてしまい、宇宙のすべてのものは神から来ていて、神の力なしには存在できないということを理解していないのです。
宇宙における神性
宇宙は、永遠なるものである無限の実在(ブラフマン)の投影であり、ブラフマンとは別のものではありません。
サルヴァム ヴィシュヌマヤム ジャガト
(全世界には神が浸透している)
この真実が認識されれば、人が知覚したり経験したりするものはすべて神の顕現であることが明らかになるでしょう。すべての木はカルパヴリクシャ(願いをかなえる木)です。すべての仕事場は神の社(やしろ)です。多くの人は、自分は神との一体感を実現するために霊性修行に取り組んでいると思っています。さまざまな霊性修行やさまざまな形式の礼拝は、個人的な満足感を与えるかもしれませんが、神の悟りはもたらしません。神は誰からも何も必要としません。神は供物を求めず、供物を喜ぶこともありません。神はあなたと違いません。あなたを神から引き離しているのは、あなたの好き嫌いです。欲望や嫌悪感を取り除いたとき、あなたは自分が生来持っている神性に気づくでしょう。人が行っているあらゆる霊性修行、あるいは、供養礼拝における儀式の遵守は、心(マインド)を浄化してエゴをなくすのに役立つだけです。人類は、すべての人間に内在する神性を認識することによって、人類の一体性という理想を目指して努力すべきです。
罪と悔い改め
キリスト教徒の間では、自分の罪を許してくださいと神に祈るという古くからの習慣があります。教会には、信徒が自分の罪を告白し、現金を供えて、教皇や司祭から贖罪(しょくざい)を得るという習慣があります。悔い改めと神への供物によって罪をあがなうという信仰は、インドでも広く浸透しています。こうした習慣は、神に対する誤った認識に基づいています。人々は、神の本質を真剣に探究し、真実に基づかない迷信的な信仰を一掃するよう努めるべきです。
探求の精神は、キリストより何世紀も前に古代ギリシャ人の間で広まっていたということに注目すべきです。ソクラテスは、アテネの若者たちに探究心を芽生えさせた偉大な師です。ソクラテスは、真理を追求するあまり、弟子の助けを借りて逃亡するよりも、故郷での死を選びました。ソクラテスは、命にも財産にも所有物にも価値を置きませんでした。
イエスと金持ちの男
イエスも富や地位に価値を置きませんでした。イエスがマルタとマリアの家にいた時、ある金持ちがイエスのもとを訪れました。その金持ちは、自分はあらゆる財産を持っているにもかかわらず心の平安がないのだとイエスに言いました。彼は多くの心配ごとに悩まされており、出口を示してほしいとイエスに訴えました。イエスは彼に言いました。
「簡単な方法がありますが、あなたはそれに従いますか? あなたは富を蓄え、それに伴って心配ごとも増えています。いつかは置いて逝かなければならないその富を、あなたはどうするつもりですか? 貧しい人や困っている人に分けてあげれば、あなたの心配ごとはなくなるでしょう。人類同胞を愛することによって、財産ではなく神の恵みという富を蓄えなさい」
これは、今日、理解されなければならないメッセージです。人々が求めるべきことは、神の愛を得ることです。それ以外の富の形は、学識という富も含めて、価値のないものです。
イエスは、富める者に厳しくし、貧しい人や病人に尽くすことによって、神への信仰に基づいた新たな生き方を弟子たちに教えました。神の使者としての聖職を始めたイエスは、最終的に「私の父と私は一つである」と明言しました。聖パウロは、最初イエスを頑固に批判していましたが、夢でキリストを見て、その夢の中でイエスに「すべての人は神の火花である。私を憎むことはあなた自身を憎むことであり、神を憎むことである」と言われてから、キリスト教の最初の伝道師になりました。キリストのメッセージを広める中で、パウロは多くの試練に直面しました。初期のキリスト教徒たちは、ローマの支配者たちによる迫害を受けました。時が経つにつれ、キリスト教の信仰はローマに定着し、ローマはカトリック教会の本拠地となりました。
「天の国はあなたの中にある」
キリストは、神は愛によってのみ悟ることできると明言しました。ある時、エルサレムの大祭司がイエスを呼んで尋ねました。「そなたはユダヤ人の王なのか?」イエスは「私はそうは言っていません」と答えました。大祭司はイエスに言いました。「そなたは間違った教えで人々を迷わせている。そなたは人々に、皆そなたを通してのみ天国に入れると言っている」。イエスは、自分は人々に天の王国を求めるようにと言っているのだと述べました。祭司は「その王国はどこにあるのか?」と尋ねました。イエスは答えました。「天の王国は、あなたの中に、万人の中にあります。これが私の教えであるとき、どうして私が天の王国は私を通してのみ到達できると主張していると非難されることができますか?」
イエスはこのように話す勇気をどうやって得たのでしょうか? それはイエスが真実を公言していたからです。真実は愛から生まれ、愛は神への信心から生まれます。
信あるところ、愛あり
愛あるところ、平安あり
平安あるところ、真実あり
真実あるところ、至福あり
至福あるところ、神あり
バーラタ〔インドの呼称/神を愛するものの意〕では、神性はブラフマー神、ヴィシュヌ神、マヘーシュワラ神〔シヴァ神〕という三つの姿で存在すると信じられています。これら異なる姿の神を見た人は誰もいません。これらの形態は特定の方法で信仰を深めるために考え出されたものです。この三位一体の神は、誰の中にも象徴として存在しています。ハートはイーシュワラ〔シヴァ神〕と見なされます。その意味は、ハートは人間の内にあるアートマ原理を象徴しているということです。このハートというのは肉体の心臓のことではなく、霊的なハートのことです。ハートは神性と愛の原理を表しています。アートマは限りないものであり、ですから、愛にも限界はありません。心の狭い人々は自分の愛に限界を設けるかもしれませんが、神の特性としての愛は無限です。
「あなたは神」
心(マインド)はハートから生じました。心(マインド)はすべてに浸透しています。
マノームーラム イダム ジャガト
(心は宇宙の土台)
心(マインド)はヴィシュヌ神を象徴しています。「ヴィシュヌ」という単語は「宇宙のあらゆるものに浸透しているもの」を意味します。心(マインド)がハートから生じたように、ヴィシュヌの原理はイーシュワラの原理から生じました。ブラフマーはヴィシュヌから生じたと言われています。人間においては、心(マインド)からアハム(自我)が生じ、ブラフマーはアハムの象徴です。これが三位一体の神の深遠な解釈です。三位一体の神は誰の中にも存在するということです。ハートはイーシュワラ、心(マインド)はヴィシュヌ、そして、「私」はブラフマーです。自己をブラフマー神と見なせば、あなたの思考と行いは道から外れなくなるでしょう。心(マインド)は中にある不純物を取り除くことによって、解脱を得る手段となります。すべての霊性修行は心(マインド)を浄化するためだけにあるのです。心(マインド)が清らかになれば、おのずと神を経験することができます。
神はあなたと別のものではありません。あなたは神です。この確信があなたの中で大きくならなければなりません。最初のうちは、あなたは自分を単なる人間だと思っています。それから、自分の潜在的な神性に気づく段階に到達します。最終的に、あなたは自分の神性を理解する段階に到達します。この3つの段階はイエスの生涯にも見ることができます。最初、イエスは「私は神の使者です」と明言しました。次に、イエスは「私は神の子です」と言いました。最終的に、イエスは「私と私の父とは一つです」と断言しました。こうした過程を経て、キリストは神との一つになることを達成したのです。
あなたは、今この瞬間から、神と一つになるための旅に出なければなりません。時間は誰のことも待ってはくれません。すべての努力を、神を悟ることに傾けなさい。そのためにはまず、エゴをなくすことが必要です。エゴを取り除かなければ、神性の至福を経験することはできません。これ見よがしの礼拝は用をなしません。富も権力も地位も、霊的な探求には役に立ちません。それらは平安を与えることも、人間に常につきまとっている恐怖を取り除くこともできません。信仰心のある人だけが、恐怖から完全に解放されます。ですから、神への信仰を深め、神に導かれた人生を送りなさい。神への信仰を手放さなくても、学問や趣味を追求することはできます。今起こっていることは、人々は富を追求する中で神を忘れているということです。人々はアートマ〔真我〕ではなくアンナム(食べ物)を求めています。アートマを悟れば、他のすべてのものは大きな努力なしで得られるでしょう。
3つの格言を心に留めていなさい
真我を悟った人は自分の人生を救ったのです。自分の欠点を自覚している人は祝福されています。他人の良いところを見る人も、同様に祝福されています。すべての人に愛を示しなさい。
今日、ここに多くの国から人々が集まっています。彼らは何のためにここに来たのでしょうか? 彼らは富を欠いていません。快適さも欠いていません。彼らは自国でいろいろなことを楽しんでいます。しかし、彼らは霊的な悟りからのみ生じることのできる真の至福を経験していません。そして、そのために彼らはやって来たのです。自分の心(マインド)をアートマ〔真我〕に向けなさい。アートマは無限です。「私のもの」、「あなたのもの」という考えを捨てなさい。自分たちは全世界の守護者である一なる神の子供であると考えなさい。三つのことを心に留めなさい。それは、神への愛、罪への恐れ、社会の道徳を守ることです。
神への愛のない人は、簡単に罪を犯し、すべての道徳的価値を失います。神への愛は罪への恐れを強め、その人に道徳的な生活を送らせます。この三位一体の原則は、三位一体の神のようなものです。それはトリカラナ シュッディ(思考と言葉と行いの清らかさ)を助長します。その清らかさを備えて行うことは何であれ、神の悟りの助けとなります。何よりも、愛を育みなさい。皆さんをここに連れてきたのは、愛です。愛を強めなさい。愛は神です。愛の中で生きなさい。どのような礼拝の形を選んでも、あなたの好むどのような霊的な道をたどってもかまいません。あなたのハートを喜ばせるものは何であれ、神を喜ばせるでしょう。あなたの良心の指示に従い、ハートを愛で満たし、神の至福に浸りなさい。
サティヤ サイ ババ述
1987年12月25日
前例のない外国人とインド人の信者の集まりへの
クリスマス メッセージ
プールナチャンドラ講堂にて
Sathya Sai Speaks Vol.4 C4
あなたのハートの中に
寺社を建立しなさい
グントゥールでの
新マンディル落成式での
ババの御講話
あなたのハートの中に社寺を建立しなさい
このマンディル(寺社)を建てたのは皆さんです。それは私を満足させることではありません。皆さんのハートの中に建てられた寺社だけが、永久的なものです。寺社の建設に費やされる金額は、貧しい人々や困っている人々への奉仕のために、もっと有効に使うことができたでしょう。
人間のほとんどすべての活動は、スワールタム(利己心)に動機づけられています。利己心は、人間の中に内在する神性と対立するものです。その神性を顕現させることなしに、人間はどうやって内的にも外的にも平安を達成することができますか?
個人・社会・世界 —— この3つは表裏一体です。個人の福祉は、国家の状態に左右されます。誰もが自分の霊的な資質を高め、それを地域社会や国の利益の増進に役立てるよう努力すべきです。社会への奉仕が、個々人の絶えざる関心事になるべきです。
人間の内にある性質の中で、無私の愛に優るものはありません。無私の愛は、他者への奉仕として自らを現します。そのような愛は、真の至福の源泉です。
カルマとカルマヨーガの関係をきちんと理解すべきです。執着や欲望を伴ってなされる普通のカルマ(行い)は、束縛を生みます。一方、無欲で無私の行いは、カルマヨーガ〔行いによって神との合一を果たす行〕となります。私たちの生活は、ローガ(病気)ではなく、ヨーガ(神との親交)となるべきです。
今日、私たちの行いのほとんどは、五感の快楽と結びついているために、「ローガ」(病気)をもたらします。この病気からの解放は、霊的な道を歩むことによって手に入れることができます。霊的な道というのは、単にバジャンを歌ったり、讃歌を唱えたりすることではありません。これらは善い行いですが、完全に神への捧げものとして行われた行為だけが、霊的と見なされるのです。
真我について無知な状態にある人は、まだ咲いていない花のつぼみのようなものです。花が咲くと、花は周囲に香りを放ちます。それと同様に、自分の内にある神性を実感認識した人は、光と力の源となります。
寺社は思い出させるものとして役に立つのみである
なぜ寺社を建てる必要があるのですか? 理想は、あなたのハートを神が宿る神殿にすることです。しかし、これは誰にでもできることではありません。
石造りの神殿は、神の存在を思い起こさせるものです。弁護士に会うと、あなたは法的な問題を思い起こします。医者を見れば、自分の病気のことを考えます。それと同じように、寺社を見ると、あなたは神を思い出します。
寺社は、思い出させるものとして役に立つのみです。一方、真の礼拝は、それぞれの内にいる神への心からの信愛から成るものです。ハートの神殿を清めるためには、あなたの人生を奉仕に捧げなければなりません。サティヤ サイ オーガニゼーションを他の霊性団体と区別するのは、サーダナ〔霊性修行〕の精神で行われるそうした献身的な奉仕です。老若男女を問わず、数え切れないほどのサイの帰依者たちが、サイへの愛により、さまざまな形で奉仕をしています。人々はスワミのヴィブーティ(聖なる灰)とスワミの奇跡について話します。しかし、本当の奇跡は、スワミの限りない愛です。この愛こそが、数え切れないほどの帰依者に、無私の奉仕に従事するよう促しているのです。
人生の浮き沈みは、私たちに教えを与えてくれる
この愛に優るものはありません。皆さんは、その愛によって私に引き寄せられているのです。愛を与え、愛を受け取る。これが私の取り引きです。この「取り引き」から得られる「所得」がどの程度のものであるかは、所得税担当者には分かりません。
私のアーナンダ(神聖な至福)には限りがありません。私は常に至福に浸っています。それは、私の至福は愛と結びついていて、他のどんな物とも結びついていないからです。もしあなたがこの道を歩むなら、あなたもこの、言葉では言い表すことのできないアーナンダを得ることができるでしょう。あなたはあらゆる種類の平安を実感認識することでしょう。
幸運と不運、幸せと悲しみ、失うことと得ることを、同じ心で見なさい。これらは、暑さと寒さ、夏と冬のように、自然の産物です。これらにはそれぞれ役目があるのです。それと同じように、人生の浮き沈みには、私たちへの教えがあるのです。実際、人生に反転がなければ、神性を経験することはできないでしょう。闇がなければ、光に価値を置くことはできません。困難を経験することなしに、利益を享受することはできません。心の平安がないからこそ、私たちは永続的な平安を実現するための方法を求めざるを得ないのです。ウパニシャッドは、「手放すことによってのみ、不死を得ることができる」と宣言しています。永続的な平安と至福の秘訣を発見するために、人は「手放すこと」を身につけるべきです。
シュリ サティヤ サイ ババ述
1983年4月6日
新マンディル
「サティヤ サイ シャーンティ シュッダ」の落成式
グントゥール県にて
Sathya Sai Speaks Vol.16 C8
母の恩寵の重要性
1999年女性の日のババの講話
ジャスミンやキンコウボクのような
甘い香りの花よりもかぐわしく
チーズやバターよりも柔らかく
孔雀(くじゃく)の瞳よりも美しく
月光よりも快いもの
それは母の愛
(テルグ語の詩)
母の恩寵の重要性
愛の化身たちよ! 動けるものと動けないものが存在するこの世界は、シヴァの宇宙の舞(シヴァ ターンダヴァ)にほかなりません。この至福あふれるシヴァ ターンダヴァは、畏敬の念を起こさせ、驚きに満ち、人間の理解を超えています。昼と夜、喜びと苦痛、生と死という二元性には終わりがありません。誕生と死が自然なことであるのと同じように、ダルマとアダルマ(正義と非正義)の存在も自然なことです。ダルマが隆盛になればアダルマは衰退し、アダルマが隆盛になればダルマは衰退します。男性も女性も、このダルマとアダルマの隆盛と衰退の責任を負っています。人間は、内なる神性に気づくことができず、神と自分は違うものであると錯覚しています。
シヴァ シャクティの原理
スマティーは、夫の命を救うために太陽が昇るのを止めさせることさえできました。サーヴィトリーは、死んだ夫をよみがえらせることさえできました。彼女たちはその力をどこから得たのでしょうか? それは、彼女たちの信愛と純潔の力です。信愛と熱意を持って神を礼拝するとき、神の性質であるサッティヤム・シヴァム・スンダラム(真・善・美)がその人の中に姿を顕わします。このまぶしく輝く神の力は、人の中に潜在しています。カムサが自分の妹デーヴァキーを殺そうとした時、夫のヴァスデーヴァが間に入ってデーヴァキーの命を救いました。それはヴァスデーヴァが生来持っていた神の力によって可能となりました。神の力を得るには、なんら特別な努力をする必要はありません。神の力はあなたの中にあります。神の力は、あなたが我を忘れて神を憶念したとき、初めて顕れます。
人間は、自分が持っている神の性質を忘れて、神は自分とは別のものだと思い、神を得ようとさまざまな霊性修行をします。人々は、ラーマ、クリシュナ、イエス、アッラーといった異なる御名で神を崇めます。しかし、ただ一つの根源的な力が存在するのみであり、それはシヴァ シャクティという形にほかなりません。シヴァ シャクティの原理はすべてに浸透しています。この世界は、バヴァーニー シャンカラ〔命を与える者という意味のパールヴァティー女神の別名と、至福を与える者という意味のシヴァ神の別名〕という、非常に意味深い名前を持っています。バヴァーニーはシュラッダー〔シラッダー〕(揺るぎない信愛)を、シャンカラはヴィシュワーサ〔ヴィッシヴァーサ〕(信念)を意味します。それはつまり、世界はシュラッダー(揺るぎない信愛)とヴィシュワーサ(信念)という二つの原理に基づいているということを意味しています。バヴァーニーとシャンカラは不可分で、相互に依存しており、すべてに浸透しています。ですから、全世界はアルダナリーシュワラ〔半身がパールヴァティーで半身がシャンカラという両性具有の神〕の姿なのです。このことに基づいて、「シュリーマティー」〔シュリーマト〕と「シュリー」〔シュリ〕という語が、女性、男性のそれぞれの呼びかけに使われているのです。「シュリーマティー」はバヴァーニーを現しており、「シュリー」はシャンカラを象徴しています。あなたの崇める御名と御姿がどのようなものであろうとも、確固たる信愛と信仰心を持つことが必要です。この二つがなければ、あなたは人生において何事も成し遂げることはできません。
シラッダーヴァム ラバテー グニャーナム〔ニャーナム〕
(揺るぎない信愛を持っている者だけが英知を得る)
信念を通してのみ、人は内なる神性を認識することができます。人の内にある神性は、バヴァーニーとシャンカラの結合体です。
神はあなたがしているすべてのことの目撃者
全世界は、イッチャ シャクティ(意志の力)、クリヤー シャクティ(行動の力)、グニャーナ シャクティ(英知の力)の結合体です。イッチャ シャクティ(意志の力)は心(マインド)と関連しており、クリヤー シャクティ(行動の力)は身体、グニャーナ シャクティ(英知の力)はアートマ〔真我〕と関連しています。これが、あなたは一人の人間ではなく三人の人間であると言われる理由です。一人は、あなたが自分だと思っているあなた(身体)、もう一人は、他人があなただと思っているあなた(心体)、そしてもう一人が、本当のあなた(アートマ原理)です。あなたは本質的には神なのですが、そのことを理解することができずにいるのです。ヴェーダは宣言しています。
サルヴァタッ パーニパーダム タット
サルヴァトークシ シロームカム
サルヴァタッ シルティマルローケー
サルヴァマーヴルッティヤ ティシタティ
(その手、足、目、頭、口、耳を万物に行き渡らせ、神は全宇宙に遍満している)
神は、あなたがしているすべてのことの目撃者です。あなたは誰かをだますことができるかもしれませんが、神はだませません。なぜなら、神は常にあなたの中にいて、あなたと共にいるからです。
バヴァーニー シャンカラの恩寵がなければ、あなたの努力はすべて無駄になるでしょう。名と姿が重要ではないのは、名と姿は変化するものだからです。身体は水の泡のようなものであり、心(マインド)は狂った猿のようなものです。これらを信頼することはできません。しかし、これらの内には、真実で永遠のものが存在しています。それは神性です。この隠れた神性を顕現させるためには信愛を養う必要があり、それによってあなたの信念は強まります。木は、根が深く伸びれば伸びるほど大きく強くなります。それと同様に、信念は、信愛が深まれば深まるほど強くなります。もしあなたに信念と信愛が欠けていたら、どんな御名も御姿も決してあなたを助けないでしょう。
どの人の内にも無限の神の力が潜んでいます。もし、あなたがそれを顕わすことができれば、スマティーがしたように太陽が昇るのを止めることも、サーヴィトリーが証明したように死者をよみがえらせることもできるのです。神の力を顕現させた時、あなたは神になります。
神はあなたが得るに値するものは何でも与える
アートマは遍在です。アートマを経験するためには、確固たる信愛と信念を持っている必要があります。今日、人々は、ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ(世界のすべての人が幸せでありますように!)と祈ります。それは、シュラッダー(揺るぎない信愛)とヴィシュワーサ(信念)が育まれたとき、初めて可能となります。喜びや悲しみは流れゆく雲のようなものです。それらは来ては去っていきます。道徳心は、芽生えると育ちます。ですから、道徳心を養いなさい。富や地位や権力を熱望してはなりません。神は、あなたが得るに値するものは何でも与えます。神への愛を育てなさい。それは最高のサーダナ〔霊性修行〕です。
今日、人々は神に到達するためにさまざまな霊性修行をします。しかし、そのすべては精神的な満足をもたらすだけです。ナーラダ仙は、九つの信愛の道を広めました。それは、シュラヴァナム(聴くこと)、キールタナム(歌うこと)、ヴィシュヌ スマラナム(神を憶念すること)、パーダセーヴァナム(蓮華の御足に奉仕すること)、ヴァンダナム(崇敬すること)、アルチャナム(礼拝すること)、ダースヤム(神の召し使いとして奉仕すること)、スネーハム(友情を持つこと)、アートマ ニヴェーダナム(神我への全託)という道です。これらの修行が永続する喜びを授けることはできません。宇宙は神の御姿そのものである(ヴィシュワム ヴィシュヌスワルーパム)という揺るぎない信念を持ちなさい。ヴィシュヌ〔神〕は起因であり、ヴィシュワ〔宇宙〕は結果です。この二つは切り離すことのできないものです。
ヴェーダは宣言しています。「アチャラム チャラメーヴァチャ」(神は不動でありながら明らかに動いている)と。実例を挙げましょう。夢を見ている状態で、あなたはさまざまな場所を訪れ、幸福や悲しみを経験します。しかし、実際には、あなたの身体はベッドに横たわったまま――不動の状態です。
ですから、あなたがこの世で見たり経験したりするものはすべて、夢でしかありません。アートマ〔真我〕だけが真実であり永遠です。アートマはスティラム(永遠のもの)であり、この世はチャラム(変化するもの)です。人生は、このスティラム(永遠のもの)とチャラム(変化するもの)の組み合わせです。
ジャントゥーナーム ナラジャンマ ドゥルラバム
(人間として生まれることは、すべての生き物の中で最も稀有(けう)なもの)
すべての生き物が人間として生まれ得るという幸運にあずかれるわけではありません。すべての生き物が人間としての生を得るほど幸運なわけではありません。
すべての人間が神を体験するわけでもありません。神に到達するために偶像崇拝といった霊性修行をする人たちもいます。人は徐々に内面へと自分の目を向けていき、自分とアートマは一つだということを体験すべきです。
アートマの終わりなき至福を体験しなさい
あなたがどれほど神を愛しているかは、それほど重要なことではありません。重要なのは、神がどれほどあなたを愛しているかということです。神は、サット・チット・アーナンダの化身です。サットは永遠のものを意味します。チットは完全なる意識です。水と砂糖が混ざるとシロップ〔砂糖水〕になります。同様に、サットとチットが結合するとアーナンダ(至福)が生じます。世俗の喜びから経験するアーナンダ(至福)は一時的なものです。
目を内面に向けてアートマを体験したときにのみ、あなたは真実と尽きることのない至福を得ます。アートマは、姿形はありませんが、至福で満ちています。
愛の化身たちよ! アートマの終わりなき至福を体験すべきです。
生まれた時、
人の首にはどんな貴重な宝石の
首飾りも掛かっていない
しかし、重たい首飾りが必ず掛かっている
それは、善果であれ悪果であれ、
過去の行いの果報をつないで作った
首飾りなのだ
(テルグ語の詩)
母を神として崇敬しなさい
ヴェーダは宣言しています。
マートゥル デーヴォー バヴァ
ピトゥル デーヴォー バヴァ
母を神として崇敬しなさい
父を神として崇敬しなさい
かつて、ヴィシュワ・ヒンドゥー・パリシャド〔VHPと呼ばれる過激派のヒンドゥー教グループ〕の書記長、アショク・シンガルが私のもとにやって来て嘆願しました。「どうかラーマの生誕地を教えてください。それがわかれば、そこに寺院を建設することができます」。私は、「ラーマの真の生誕地はカウサリヤー妃の胎内です」と答えました。庶民であれ、神の化身であれ、母親の胎内がすべての人の生まれた場所です。ですから、母を神として崇敬しなさい。母の名を守り、母を敬いなさい。
今日は11月19日です。この日は、あなた方に母の重要性を思い出させるために、女性の日として祝われています。あなたは母の望みに応じて行動しなければなりません。母に背いてはなりません。クリシュナ神の大いなる帰依者であったチャイタニヤは、結婚を望んでいませんでしたが、母親のたっての願いに従ってラクシュミーという娘と結婚しました。しかし、不運にも、ラクシュミーは結婚後まもなく死んでしまいました。チャイタニヤの母、サッティデーヴィーは、息子の思いに反して結婚させたことをたいそう悲しみました。チャイタニヤは母にこう告げました。「これは良心の命じることに背いた結果です」。ですから、自分のしていることが正しいと感じるなら、母親を説得するように努めなさい。ただし、決して母親の感情を傷つけてはなりません。
あなた方は、女性は体も心も弱いものであるという間違った見解を持っているかもしれません。しかし、実際には女性は男性よりも強いのです。叙事詩『マハーバーラタ』〔ジャイミニ仙版〕に、アルジュナとの結婚を望んだ女王プラミーラー〔女性の王国の王女〕の物語があります。アルジュナは彼女との結婚を望んではいませんでした。プラミーラーは、アルジュナを捕らえるために最高司令官のマラヤーヴァティーを送りました。マラヤーヴァティーはアルジュナと激しく戦い、ついにアルジュナを捕まえてプラミーラーの前に連れていきました。プラミーラーはアルジュナに求婚しましたが、アルジュナは、たとえ命に代えても結婚はしないと断りました。プラミーラーはクリシュナ神の敬虔な信者で、アルジュナもそうでした。二人は熱烈に祈りました。宇宙劇の監督であるクリシュナ神には、自らの計画がありました。クリシュナ神はその場に現れ、プラミーラーとアルジュナをそばに呼び、二人の手をつながせて、マントラを唱え、おごそかに結婚式を執り行いました。
神はどんなことでもすることができる
神はどんなことでもすることができます。神は地を天に、天を地に変えることもできます。しかし、人間は神への信愛と信念に欠けています。人は世俗のことを信じ、霊性を信じません。バクティ(信愛)にまさるものはありません。「バクティ」の「バ」は「光沢」や「光輝」を意味し、「クティ」は「引き寄せる」という意味を持ちます。あなたは、バクティから身体と心(マインド)と霊〔アートマ、魂〕へのシャクティ(力)を得ます。バクティ(信愛)とシャクティ(力)によって、あなたは神へのラクティ(愛着)に浸り、世俗へのヴィラクティ(無執着)を培うことができます。すると、神はあなたにブクティ(食物)を与え、さらにムクティ(解脱)をも与えます。このようにして、人はバクティ(信愛)からムクティ(解脱)へと旅する必要があるのです。昨日、私が話したように、人生は「私」から「私たち」への旅です。聖地であるティルパティやヴァーラーナスィー〔ベナレス〕、ガヤーやプラヤーグへ行くために、あなたは大変苦労して長旅をするかもしれません。一方、「私」から「私たち」への旅は、あなたが自分を身体から引き離して真我への愛着を育む旅であるという意味において、非常に短い旅です。そのためには、母の恩寵が極めて重要です。
神は必要が生じればいつでもやって来る
アビマンニュがまだ母スバドラーの胎内にいた時、アルジュナは妻のスバドラーにたくさんの物語を話して聞かせていました。ある日、アルジュナは、パドマヴューハ(蓮の花の形をした軍陣)に入る際の複雑さと細かな点をスバドラーに説明していました。アルジュナがスバドラーにパドマヴューハから脱け出す方法を話す前に、宇宙劇の至高の監督である主クリシュナがその場にやって来ました。神は必要が生じればいつでもやって来て、適切に自分の役を演じます。
クリシュナはアルジュナに尋ねました。
「君は何という過ちを犯しているのだ! 君の言葉の一部始終を聞いているのは、スバドラーではなく、胎内にいる子供だ。子供にパドマヴューハについて教える必要性がどこにある?」
クリシュナは、アルジュナを連れて出ていきました。
後に、クルクシェートラの戦いで、アビマンニュがパドマヴューハの中で命を落としたのは、その軍陣から脱け出す方法を知らなかったからです。クリシュナは、なぜこのようなことをしたのでしょうか? それは、アビマンニュはヴィーナ スワルガ(英雄の天国)に到達しなければならなかったからです。実際、カウラヴァ兄弟がアビマンニュにパドマヴューハに入るように挑戦をしかけてきた時、アビマンニュは母スバドラーのもとへ赴き、母の許可と祝福を請い求めました。スバドラーは、アビマンニュが戦場に行かないよう最善の努力を尽くして説得しました。スバドラーは言いました。
「私の愛しい息子よ、パドマヴューハに入って、またそこから脱け出すのは、なまやさしいことではありません。それに、あなたの妻は身ごもっていますし、あなたの叔父上であるクリシュナと父上であるアルジュナは今ここにおりません。ですから、戦場に行くという考えはあきらめなさい」
しかし、アビマンニュは母の忠告に耳を貸しませんでした。アビマンニュは言いました。
「母上、私の生まれはクシャトリヤ(武人階級)です。クシャトリヤにとって、敵から突きつけられた挑戦に怖気づくほどの侮辱はありません。実に、母上は私を励まして、敵と闘って圧勝せよと勇気づけるべきなのです。戦(いくさ)に行く気持ちをくじかせるようなことをするのは、母上の役目としてふさわしくありません」
アビマンニュは、自分がしようとしていることは正しいということは分かっていましたが、母の愛を理解することはできませんでした。アビマンニュが命を落としたのは、母の願いに背いて戦場に行ったからです。
神の恩寵と人間の努力
母の愛よりも偉大なものはありません。母親の言葉は常に甘美です。時に厳しい言葉を使うこともあるでしょうが、それはただ、あなたを正すためであり、傷つける意図はありません。この世に邪悪な息子はいるかもしれませんが、邪悪な母は決して存在することはできません。女性の日が祝われているのは、母の愛の価値と、あなたへの母の思いをあなた方に理解させるためです。母親、父親、師、神の中で、最高位を与えられているのは母親です。現代の若者は母親を顧みません。若者は、自分はたいそう学があるけれど、母親は何も知らないと思っています。そのように考えるのは大きな間違いです。決して母を見下してはなりません。母親も、子供に自分の望みを強要してはなりません。母親は、愛と誠意を通じて子供を正しい道に置くべきです。母親は、わが子が善良になることを切望すべきであり、偉大になることを望む必要はありません。
ラーマは善良で、ラーヴァナは偉大でした。ラーマは自分が学んだことは何であれ実行し、それゆえに名声を得ました。一方、ラーヴァナは学んだことを何も実行せず、無知に浸っていました。その結果、ラーヴァナは良い評判を得ることができませんでした。良い評判を得るためには、罪への恐れと神への愛を持つ必要があります。神への愛と罪への恐れが欠如しているために、人間性が衰退しています。これが、今の世の中が不安定である原因です。
愛の化身たちよ! 神はガーナローラ〔歌を好む者〕でありガーナプリヤ〔歌を愛する者〕(歌に引き付けられる者)です。詩や祈りは、信愛を込めて歌われた歌ほどには神を引きつけません。皆さんはM・S・スッブラクシュミーの美しい歌を聞きましたね。彼女はガーナ コーキラ〔うぐいすのように甘く美しい歌声の人〕という称号を得ています。私は、まだとても若かった彼女がミーラーの役を演じたのを見たこともあります。
多くのアーティストがダンスで名声を博しています。ウダイ・シャンカール〔舞踊家。シタール奏者ラヴィ・シャンカールの兄〕は、そうした偉大なダンサーの一人でした。彼が踊っている時、足が床に着いているのを見ることがほとんどできなかったくらいです。彼の妻、義理の娘、そして弟子たちが、明日ダンスプログラムを上演するために、ここに来ています。こういった芸術は練習だけでマスターできるものではありません。神の恩寵も必要不可欠です。電流が流れるにはプラスとマイナスの両方が必要です。それと同じように、成功に至るまでには人間の努力と神の恩寵が共に必要なのです。
決して怒りとエゴに入り込む隙を与えてはならない
学生諸君! 青年男女の皆さん! 神はあなたの気持ちに一致した反応をします。ですから、ネガティブな思考を抱いてはなりません。たとえ孔雀の卵をニワトリが温めて卵がかえっても、その卵から出てくるのは孔雀だけです。ダイヤモンドは、肥溜めに落ちても価値と輝きを失うことはありません。それと同様に、善良な人は、どこにいても常に良い評価を得ます。エゴと憎悪と怒りは、人間の最悪の敵です。誰かを正しい方向に導くために、その人に多少の怒りを示すのはかまいませんが、決して誰をも憎んではなりません。怒りとエゴに付け入らせてはなりません。
私は自分が教えることのすべてを、手本で示しています。中には、スワミが自分に話しかけてくれないのは、スワミが自分を嫌いだから、あるいは自分を怒っているからだ、と感じている者がいます。それは単に彼らの想像であり、彼らに良心の呵責(かしゃく)があるからにほかなりません。私は誰をも憎みはしません。あなた方を正しい道に導くために、私は時に怒ったふりをすることがあるかもしれません。けれども、実際には、私は誰に対しても怒りや憎しみは持っていません。中には、そうすれば自分の望みをかなえてもらえるだろうと期待して、グラーマ セヴァ(村への奉仕)をする人たちがいます。私を喜ばすには、それで十分でしょうか? すべての欲望を手放して、あなたのハートを清めなさい。そうすれば、私はあなたに頼まれずとも、あなたに必要なものをすべて授けます。ネガティブな思考を手放さないで、どうしてポジティブな結果を期待できますか? あなたのハートをポジティブな思いで満たしなさい。ハートを愛で満たしなさい。その時、あなたのすべての思考と言葉と行いは、愛で満たされるでしょう。
万人はヴィシュワ マータの子供たち
愛の化身たちよ! 決してあなたの母の愛を忘れずに、どんな状況の下でも母を幸せにしなさい。あなたが母を幸せにするときにのみ、私はあなたに満足します。ウマー・バーラティーが指摘したように、すべては一つであることを理解するよう努力しなさい。もしあなたが他人と自分を別のものだと考える
なら、憎しみが入りこむ余地があるでしょう。私とあなたは一つであることを認識しなさい。身体は異なっていても、あなた方は同じ愛の原理で結びついているのです。あなたの母があなたを愛するように、あなたはすべての人を愛すべきです。すべての人はヴィシュワ マータ(万物の母)の子供です。すべての人は兄弟姉妹です。何であれ差別意識を持ってはなりません。太陽はどこの世界でも一つであり同じです。太陽は貯水池にも川にも海にも映るのと同じように、同じ神性がすべての人のハートに映っているのです。
エーカム サット ヴィップラーッ バフダー ヴァダンティ
(真理は一つ、しかし、学者はそれを異なる名で呼ぶ)
自分はラーマだけが好きだとか、クリシュナだけ、シヴァだけ、サイ ババだけが好きだと言うのは正しくありません。一なる神がいるだけであり、神は遍在です。他の宗教を憎んではなりません。
ヒンドゥー教徒はより良いヒンドゥー教徒になるべきであり、クリスチャンはより良いクリスチャンに、イスラム教徒はより良いイスラム教徒になるべきです。愛がなければ、その人をイスラム教徒とも、ヒンドゥー教徒とも、キリスト教徒とも、シーク教徒とも呼ぶことはできません。実際、愛のない人は地
悪魔です。愛のない人だけが、宗教に基づく違いに余地を与えるのです。あなたがハートを愛で満たしたとき、初めてすべての宗教は一つであることがわかるでしょう。
バーラタの文化は、母親に最大の重要性を与えています。人は、自分の国を母国と呼びますが、父国とは呼びません。主ラーマは宣言しました。「ジャナニ ジャンマブーミシュチャ スワルガダピ ガリーヤスィ」(母と母国は天国よりも偉大である)と。国は母であり、文化は父です。決してあなたの国と文化を忘れてはなりません。古来、バーラタの文化は、「ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ」(世界のすべての人が幸せでありますように!)という祈りと共に、平和と愛のメッセージを広めてきました。あなた方は、この神聖な文化を支えなければなりません。
どのような御名、どのような御姿の内に神を礼拝してもよいのです。しかし、神は一つ、ただ一つである、という真理を理解しなさい。
シュリ サティヤ サイ ババ述
1999年11月19日
プラシャーンティ ニラヤム
サイ クルワント ホールにて
Sathya Sai Speaks Vol.32 Part2
訳注1:スマティーの物語
ウグラシュラヴァスというバラモンの妻スマティーは、貞節の誉れ高い貞女だった。ウグラシュラヴァスは病気で足が不自由になり、出かけるときはいつもスマティーが背負っていくようになった。ある日、ウグラシュラヴァスは売春宿に行きたいと言い、夫に忠実なスマティーは何も言わずに夫を売春宿まで連れていこうとした。それを見ていたマーンダヴィヤ仙は、ウグラシュラヴァスの非道に怒り、「明日、朝日が昇ったら首が落ちるように」と呪いをかけた。スマティーは悲しんで、「私が真に貞女であるならば、明日の朝、太陽が昇りませんように」と祈願した。すると、翌朝になっても太陽は昇らなかった。神々も人間も困ってしまい、スマティーのもとに行って、夫の命を保証するから太陽を昇らせるようにと頼み、スマティーは太陽が昇るようにした。
訳注2:サーヴィトリーの物語
ヤマ(死神)がサーヴィトリーの夫サティヤーヴァンの命を取った時、サーヴィトリーは悲しみを募らせて、夫を生き返らせてほしいとヤマに懇願した。「夫を生き返らせるか、私の命を取るかしてください。私は夫なしでは生きられません。私たちは一つなのです」。夫の命を取った後、ヤマがその場を去ろうとすると、サーヴィトリーはヤマの行く手をふさいで、ヤマを行かせなかった。そのため、ヤマはサーヴィトリーの願いに耳を傾けるしかなかった。ヤマがサーヴィトリーに「どうして欲しい?」と尋ねると、サーヴィトリーは「私に夫を返してください。なぜなら私は夫なしでは生きていけないのです」と答えた。結局、ヤマはサーヴィトリーの願いに屈した。ヤマはサーヴィトリーの貞操と決意を喜んで、サティヤーヴァンをよみがえらせ、さらにはサーヴィトリーとサティヤーヴァンに数々の恩恵を授けた。
バーラタの栄光を
取り戻しなさい
65歳御降誕祭のババの講話
バーラタの栄光を取り戻しなさい
神聖アートマの化身である皆さん! 最も古い時代から、バーラタ人〔インド人〕は真理〔真実/サティヤ〕を神と見なし、真理を愛し、真理を促し、真理を保護し、そうすることによって神性を得ました。バーラタ人は真理に徹し、ダルマ(正義)と結び付き、社会における道徳を第一の義務として尊重しました。今、人々は、真理と正義を忘れているために、国家的な問題を解決することも、共同体の対立を終わらせることもできずにいます。私たちは、東にベンガル湾、西にアラビア海を持ち、その両方がインド洋で合流しています。それと同じように、バーラタ〔サンスクリット語でのインドの正式名称/神を愛する者、あるいはバラタの子孫といった意味がある/ヒンディー語ではバーラト〕は、世俗の繁栄と霊的進歩の結合を例示しています。バーラタは、ジーヴァ(個々の魂)とブラフマー(普遍の魂)の一体性が浸透している国です。
私たちが「バーラタ」と言うとき、バーラタという単語は特定の個人や国や状況とは関係ありません。この単語には、さまざまな典拠によって多くの異なる派生的な意味が与えられていますが、それらはあくまでも個人的な解釈にすぎません。いくつかのプラーナ〔古来の神話集〕によれば、この国にバーラタという名前が付けられたのは、この国はジャダ バラタという王によって統治されていたからであるとあります。他には、ドゥシュヤンタとシャクンタラーの息子で、この国を支配していた、かのバラタ王に由来するという説もあります。他にも、シュリ ラーマの弟であるバラタがラーマの神聖なサンダルを王座に置いて国を治めたので、この名前はインドに起因すると説く人もいるでしょう。
ですが、「バラタ」という単語はいつできたのでしょうか? この名前は、ジャダ バラタがその名を授かるより前、ドゥシュヤンタの息子とラーマの弟の命名より前から存在していたはずです。バラタという名前は太古の昔から存在していたことは明らかです。
「バラタ」は人間家族全体を意味する
サラスワティー女神は、サラスワティーやバガヴァティーやバーラティーと呼ばれます。サラスワティーはヴァークデーヴァター(話し言葉の女神)を意味します。ですから、言葉を話す才能を持って生まれた人は誰もがバーラタです。バーラタという名前は、特定の個人や国とは関係ありません。バーラタという単語は、人間家族全体に適用されます。「バ」は、神聖な知識によって表される原理を指します。「真我の知識」が「バ」です。真我の知識を喜ぶ人たちが「バーラタ」です。したがって、自分自身の光り輝く力によって輝いている人は皆、バーラタなのです。
この単語は、バーラタ人は戦い(サングラーマム)に長けた者であるという意味の語根にも由来しています。サングラーマムとはどういう意味でしょう? それは、対峙(たいじ)する敵対勢力を、神聖な霊的な力によって征服することを意味します。「Balam Bharam Bhavathi Bibhartheh」〔バラム バラム バヴァティ ビバルテーハ〕は、ニルクタ〔ヴェーダの補助学であるヴェーダアンガすなわちヴェーダーンガのうちの一つ〕の中で使われている言葉です。バラ(バラム、力)とは、ブランマバラ(アートマの力)、テージョーバラ(内なる光の力)、シャーストラバラ(経典の知識から得られる力)のことです。バーラタとは、これら三種類の強さを持つ者のことです。シュルティ(ヴェーダ)は、バラをヤグニャ(供犠)と定義しています。したがって、バーラタとは、ヤグニャを行うことによって力を得た者ということになります。したがって、バーラタ人は、アートマバラ(神霊すなわち真我の力)によって神聖な力を獲得した者なのです。ですから、誰であろうと、どこの国であろうと、この神霊の力を得る必要があるのです。
バーラタは豊かな国
バーラタは自然に恵まれた国です。バーラタは、すべての道徳、霊性、世俗的な知恵の第一の源です。
バーラタはアンナプールナー(豊穣の国)です。これほど神聖な国を貧しい国と見なすのは、頭がどうかしています。私たちは貧しい国ではありません。バーラタは天分豊かな国です。もし、豊かな国でなかったら、なぜ、ムガール人やヨーロッパ人などがこの国を侵略したのでしょうか? 天分豊かな国であるにもかかわらず、私たちはその豊かさを守ることができずにいます。その理由は何でしょう? それは、国民に団結力(一体性)がないからです。
自由は勝ち得ましたが、団結は達成されていません。団結力がないからこそ、バーラタはあらゆる種類の災難に見舞われるのです。ガズニーのムハンマド〔当時のガズナ朝帝国の統治者〕はパンジャーブ地方に侵入し、略奪品として700モーンド〔2万6110キログラム〕の金をこの国から持ち去りました。ナガラコータには、すべてを金でこしらえた30ヤード × 5ヤード〔27.4 × 4.6メートル〕の会堂がありました。その会堂は侵略者によって丸ごと持ち去られました。
これほど豊かな国に生まれたにもかかわらず、人々が自分の国に誇りを持たないのは残念なことです。どこを向いてもスワールタム(利己主義の横行)〔スワは自分、アルタムは富の意〕ばかりが目につきます。神の愛の化身である皆さん! 利己心を捨てなさい。団結を促しなさい。調和の至福を味わいなさい。
バーラタがどんなに神聖な国であるか、そろそろ気づいてもいいころです。この神聖な土地には、何一つ欠けているものはありません。「バーラタにないものは、他の場所にもない」という古来の格言があります。それほど多種多様な恵みを授けられているにもかかわらず、この国は貧しく後進的であると見なされています。これは妄想から生まれたものです。この妄想から解放されて、初めて私たちはアートマの至福を体験することができます。私たちは、ブラマ(妄想)を取り除くことができて、初めてブラフマンを体験することができます。
バーラタ国内ですべてが手に入るのに、なぜ他の国々に物乞いに行くのですか? あらゆるものはバーラタに源を発しています。ですから、バーラタに生まれたからには、バーラタの栄光を広めるために尽力しなさい。すべての帰依者は、バーラタの偉大さを保護し、促進することを誓うべきです。バーラタ人は、自分の力を知らない象のように、自分の力に気づいていません。莫大な力を備えているにもかかわらず、バーラタ人は、象使いの前で弱腰になっている象のように振る舞っています。皆さんはその弱さを捨てなければいけません。
バーラタの比類のなさを自覚せよ
バーラタは、深遠な真理を説いた偉大な賢人や聖人を数多く輩出しています。バーラタは、国の自由のために戦った英雄たちの土地でもあります。さまざまな芸術や科学、音楽や文学の知識をリードしてきた国でもあります。この神聖な土地に生まれた多くの人がその無比の偉大さに気づいていないのは、大変残念なことです。母への愛は甘露のごときものです。母国への愛がないのは、なんと残念なことでしょう!
皆さんは母国を愛さなければなりません。母国への奉仕に人生を捧げる決意をしなさい。団結は第一の必要条件です。人々は偉人たちの誕生日を祝いますが、偉人の教えを守ろうとする人はわずかしかいません。誕生日を祝うことは、何もすばらしいことではありません。偉人たちの教えを理解し、それに従って行動するために、あらゆる努力を払わなければなりません。
愛の質を高めなさい。あなたの生活のすべてを愛で満たしなさい。これは、前のユガ〔ドワーパラ ユガ〕でゴーピカー〔牧女〕たちがクリシュナに宛てた祈りです。愛のない生活は、まったく不毛です。人間は愛の化身です。愛は、真実のものへと向けられなければなりません。そのような愛こそが、人間の生命の息吹なのです。
バーラタが受け継いできた財産でハートを満たしなさい
神聖アートマの化身である皆さん! 愛を神性の神髄と見なして、社会への愛の奉仕に従事しなければなりません。あなた方は、バーラタの栄光を取り戻さなければなりません。バーラタは、過去において、ずっとすべての国の教師でした。他国のあらゆる人々が平和と悟りを得るためにやって来ています。このような状況の中で、バーラタ人自身が自分たちの偉大さを意識していないことは、大きな不幸です。バーラタ人の歴史は、肉体的、心的、霊的、その他、生活のあらゆる側面におけるバーラタ人の功績を反映しています。私たちは、受け継いできたその財産で自分のハート満たさなければいけません。
今、私たちは、物質的で世俗的な快適さのために人生を捧げています。そうした備品はすべて、何の役に立つのでしょうか? 私たちは、永続的な至福の源であるアートマ原理を悟らなければなりません。ハートに愛がないなら、どんなに知識を得ても、どんなに地位を得ても、何の役にも立ちません。知識を追い求めるよりも、善い性質を身につけることの方が大切です。
神の愛という磁石
今日、なぜこれほど多くの人がここに集まっているのでしょうか? 何か抗しがたい理由があるに違いありません。皆さんは、自分の地元では見つけられない何かを求めているに違いありません。もし地元で欲しいものを見つけることができたら、高い旅費を払う必要はないでしょう。ここには神の愛があります。神の愛という強力な磁石が、人間の形をしたすべての鉄粉を引き寄せているのです。招待状は、誰にも、一枚も送られていません。来るように頼まれた人は誰もいません。人々をここに引き寄せたのは、神の愛の力であり、ハートを結びつける絆です。そのすべての根底にあるのは清らかさです。清らかさがある所には愛が育ちます。清らかさと愛が一緒になると、そこにはアーナンダ(至福)があります。どんな行いをしようが、どんな供犠を執り行おうが、愛がなければ、それらはあまり役に立ちません。
ヨーガの訓練では、いくつかの種類の呼吸法が取り入れられています。また、クンダリニーヨーガの訓練も行われています。これらはすべて、ビジネスの一形態です。呼吸法では、息を吸うことはプーラカム、吐くことはレーチャカム、息を止めることはクンバカムと表現されます。これらはヨーガの力を得るための手段にはなりません。善いものをすべて吸い込むことがプーラカムです。悪いものをすべて手放すことがレーチャカムです。善いものをハートに留めておくことがクンバカムです。誰にもこの種のヨーガを実践する資格があります。この神聖な種類のヨーガは、すべての人が実践すべきものです。これは、すべてのバーラタ人の第一の目標です。
ここプッタパルティは小さな集落です。この村は、どのようにして今の傑出した状態になったのでしょうか? その答えは、各自が自分で見つけることができます。それはヨーガであるとか、大きな幸運であるとか、運のいいハプニングであるなどと考えるべきではありません。それは、思考の力によるものです。あらゆる神聖な思考には、成就を見いだす力があります。だからこそ、ヴェーダーンタはこう宣言しているのです。
ヤッドヴァーヴァム タッドバヴァティ
(その人が考えるように、その人はなる)
ですから、誰もが善い思考を身につけるべきです。そうすることによって、その果報を手にする権利を得るようになるのです。
困難に順応するのは苦行の一形態
神の愛の化身である皆さん! このプラシャーンティ ニラヤムには十分な施設や便利さはありませんが、生活を便利にするさまざまなものに慣れている多くの皆さんがここに集まっています。皆さんは、あらゆる不便さに自分を適応させる一種のヨーガに身を投じているのです。その経験をサーダナ(霊性修行)と考えるべきです。あらゆる快適さを享受することはサーダナにはなりません。困難があるからこそ、幸せを感じることができるのです。困難を通ることなく幸せを実現することはできません。そうした困難は苦行の一形態と見なされなければなりません。楽な生活は苦行になりません。実際のところ、これほど多くの人が多くの困難や不自由を我慢してここに集まっているというのは、彼らの一体感の顕著な証です。
何を達成するにも人間の努力が必要です。この20年間、プラシャーンティ ニラヤムの宿泊施設やさまざまな設備が充実してきたのは、ジョーガ ラーオの働きによるものです。セントラル トラストのメンバーとして20年間、彼はプラシャーンティ ニラヤムにそうした改善をもたらすために、昼夜を問わず絶え間なく努力を続けてきました。彼はカルマ ヨーギ〔行いを通じて神との合一を果たす行者〕です。仕事に喜びを感じています。しかも、この12ヶ月間、彼が昼夜を問わずたゆまぬ努力を続けてきたことは、私だけが知っていることであり、他の誰も知りません。彼はジョーガ ラーオ大佐ではありません。ジョーガ大佐とは呼ばれていますが、彼はまさにカルマ ヨーギなのです。この1ヶ月間、彼は一睡もしていません。彼は82歳です。その年齢でなお、彼が人々に可能な限りの快適さを提供するために尽力してきたからこそ、帰依者たちは困難を乗り越えることができているのです。ジョーガ ラーオの奉仕に感謝するために、セントラル トラストのメンバーたちは、彼にふさわしい栄誉を与えることにしました。私は、ジョーガ ラーオを他人だとは思っていません。しかし、義務としてすべきことはあるので、ジョーガ ラーオに敬意を表すことで、セントラル トラストはその義務を果たすことになります。
(ここでバガヴァンは、ジョーガ ラーオ大佐の手首に金の丸いカディヤム〔腕輪〕をはめられました。ジョーガ ラーオ大佐が神聖な御手からカディヤムを受け取るために登場した時、会場全体が歓声に包まれました。バガヴァンはジョーガ ラーオ大佐に小声で、同じ活力で善い仕事を続けていくようにとおっしゃいました。)
今後、バーラタには、ジョーガ ラーオのようなカルマ ジーヴィ〔行いの人〕やカルマ ヨーギがもっと大勢現れるべきです。誰もがカルマ ヨーギになるべきです。そのカルマ〔行い〕はダルマへと変わります。そのカルマは人生を聖化するでしょう。
バーラタは貧しい国ではない
神への信仰を培い、カルマ ヨーガに没頭し、自分の人生を神聖なものにすることは、すべての人の義務です。バーラタ人は皆、バーラタの神聖さを忘れてはなりません。バーラタは決して貧しい国ではありません。この事実に気づいていないから、この国は争いと無秩序に満ちているのです。一過性のものと永続的なものとの区別がつかず、人々はつかの間の快楽を追い求めて人生を台無しにしています。ささいな一瞬の利益のために、人々は永続的な価値を持つものを犠牲にしています。
自由を手に入れた当時は、人口の13%しか後進〔進歩や発展が遅れていること〕と見なされていませんでした。その割合は年々増加し、今では80%になっています! 5年か6年後には100%になるかもしれません! これはまったく正しいことではありません。
バーラタは後進の部類の人々で構成されている国ではありません。つまらない利権目的で、このような分類がなされているのです。諸外国は、バーラタを貧困に苦しむ国として見ています。神の愛の化身である皆さん! バーラタは豊かな土地であることを覚えていなさい。バーラタほど資源に恵まれた国はありません。なのになぜ、私たちは自分たちを貧しい国と呼ばなければならないのですか? それだけではありません。教育と医療の分野でも、私たちは犠牲の精神を育てなければなりません。
誰もが無料で教育を受けられるようにする
皆さんは、一ヶ月前、多くの学生が(焼身自殺をして)命を落としたことを知っていますね。その理由は何でしょう? それは、共同体単位での制限制度に対する抗議でした。私たちは、すべての人が自由に教育を受けられるような制度の普及を目指さなければなりません。教育は学ぶためのものでなければなりません。そうなれば、学生たちの間でこのような問題が起こることはないでしょう。
今日、ここに、インド大統領、アーンドラ プラデーシュ州の首相と州知事、その他の著名人たちが列席しています。教育界において、「遅れている」とか「進んでいる」といったような新たな分類を設けず、貧富の区別のない、万人のための無料の教育システムを確立すれば、国家は飛躍的な発展を遂げるでしょう。私たち〔国〕は何千万ルピーというお金を〔多くの見込みのない投機的事業に費やして〕無駄にしています。もし子どもたちに正しい未来を保証するなら、国家は限りない恩恵を得るでしょう。どの霊性団体も無料の教育を提供すべきです。
ティルパティ デーヴァスタナム〔ティルマラにあるヴェーンカテーシュワラ寺院を管理する世界第二位の信託〕が豊富な資金を持っていることはよく知られています。なぜそこの当局は無料の教育を提供しないのでしょうか? 何億ルピーが無駄になっているのでしょうか? 教育が無料でないから、デーヴァスタナムの教育機関に通う学生は誰一人として寺院に足を運ぼうとしないのです。それでどうして信仰心が育つでしょうか? 主の御名において、無料の教育と医療の救済を提供すべきです。
10億ルピーの病院プロジェクトの目的
このことを考慮して、私たちは昨日、ここに大きな病院を建てることを決めました。多くの人たちは都心に病院を建ててほしいと私に訴えてきました。いくつかの都市では、ビジネスとして多くの医療機関の運営がなされています。何か教育機関や医療機関ができると、そのもっぱらの目的は、ビジネスです。貧しい人々に無料で施設を提供するための事業を始めようとする人はほとんどいません。ですから、私たちは当初から、プラシャーンティ ニラヤムの近くに10億ルピーの病院を建てることを決めたのです。ここでは、高等教育が無料であるのと同じように、「高等医療」も無料になります。人々は、アメリカ合衆国で行われているような心臓外科手術を受けるために、何10万ルピーというお金を払っています。ですが、貧しい人たちはどんな有り様ですか? 誰が貧しい人たちの面倒を見るのですか? 都会へ行ったとしても、貧しい人たちは「色つきの水」(薬剤の混合液)さえ手にすることはないでしょう!
こういった現実を鑑みて、私たちはこの病院建設プロジェクトを立ち上げました。心臓バイパス手術であろうと、腎臓移植であろうと、肺の手術であろうと、脳外科手術であろうと、すべてが無料で行われます。このことは、プロジェクト開始当初から決まっていたことです。この病院は1991年11月22日に開院します。誰もサイ サンカルパ〔サイの意志〕を推し測ることはできません。銃が発砲される時には光と音が同時に発せられるように、サイの場合は、思いと行いは同時に起こります。ですから、サイの決意を理解するのは、誰にとっても、たやすいことではありません。
サティヤ サイの英雄物語
神の愛の化身である皆さん!私がこれから言うことを大げさだと思ってはなりません。私には利己心のかけらもありません。私がすることは何であれすべて、他の人々のためだけです。私は皆さんを「他人」と思っていません。あなた方はすべて私の民です。これほどのすべてを包み込むような気持ちは、世界中どこを探しても見られるものではありません。あなた方は、50年間でこれほどまでに成長した組織を他に見たことがありますか?
これまでのアヴァター〔神の化身〕たちの場合、その名声が広まったのは、もっぱらそのアヴァターが亡くなったずっと後でした。現在のアヴァターの場合は、アヴァターが生きている間に、大学、大病院、飛行場をはじめとする多くの施設が村人たちのために建設され、今後もさらに多くのものができるでしょう。
多くの人々は、どうしてこういった一切が成し遂げられるのかと不思議に思っています。(このアヴァターの)降臨は今から64年前に起こりました。それ以来ずっと、この手は、どんな時にも、誰かに何かを求めるために伸ばしたことはありません。私は誰にも何かを求めたことはありません。これからも決して求めたりはしないでしょうし、そのようなことは決して起こらないでしょう。では、一体どうやって一切が成し遂げられるのでしょうか? バーラタでは、善良な仕事には、障害となるものはありません。あなたが心の底から何か善い仕事をしたいと思ったときには、お金はふんだんに流れてきます。心の狭い人は、どんな仕事を始めても、決して満たされることはないでしょう。心の狭い人は、大きな心、広い心を持った人の行いを理解することができません。
神の愛の化身である皆さん! 私は皆さんに何かを期待しているわけではありません。ただ、あなたの
ハートの中に愛を育てなさい。すべての人をあなたの兄弟姉妹だと思って扱いなさい。すべての人を神の子であると認識しなさい。誰に対しても敵意や憎しみを抱かないようにしなさい。誰の気持ちも傷つけてはなりません。そうした大きな心の態度こそが、あなたに限りない至福を与えてくれるのです。もしあなたがスワミの誕生日を祝ってくれるのなら、これが、私があなたに望むすべてです。あなた方の間で一体性を持ちなさい。バーラタの栄光をよみがえらせ、推進させるよう努力しなさい。
「私はいつも限りない喜びで満たされています」
ここへ来る途中、私は何人かから、「ハッピー バースデイ! ハッピー バースデイ!」〔幸せな誕生日を!〕という言葉で挨拶されました。私はいつもハッピーです。私には「ハッピー」〔お幸せに〕という挨拶は必要ありません! 「ハッピー バースデイ」という挨拶は、ハッピーでない人に伝えなさい。私は限りない喜びで満たされています。私は今までどんな時も、どんな場所でも、心配を抱いたことはありません。その理由は何でしょう? すべての物事は、過ぎ去る雲のようにはかないものです。なぜそれらを心配することがありますか?
誕生や死に直面したとき、舞い上がったり落ち込んだりすべきではありません。私たちは裸でこの世にやって来ました。この世を去る時、行き先の住所を親類縁者に残すことはできません。親類縁者が親類縁者であり続けることなどどうしてできますか? そういったものはすべて、この世での現象です。生きている間ずっと、調和と同朋意識を持って生活を送るべきです。困難はすべて、神を黙想することによって乗り越えることができます。神を忘れて、世俗的な事柄にどっぷりと浸かりながら、あなたは何を達成するというのですか? 神への揺るぎない信心を持ちなさい。カースト、宗派、国籍による差別に、いかなる余地も与えてはいけません。すべての名と姿は神のものです。あなたが目にするすべては、主の普遍なる姿の現れです。神への固い信心を持って、主の御名を唱え、あなたの人生をあがないなさい。
サティヤ サイ ババ述
1990年11月23日
65歳の御降誕祭
プラシャーンティ ニラヤム
サイ クルワント ホールにて
Sathya Sai Speaks Vol.23 C34
自立心と神への信仰を養いなさい
古来、バーラタ〔インド〕は、霊性に立脚することによって平安と繁栄というメッセージを世界に伝えてきました。国民は常にすべての国の幸福を祈ってきました。バーラタ文化の偉大さは、その壮大さを体験した人だけが理解できるものです。バーラタ文化は、歴史の激動を乗り越えて試練に耐えてきた文化です。バーラタ文化の偉大さは、サナータナ ダルマ(古来永遠の人生哲学)に反映されています。正義はこの哲学の外的な現れです。正義が人間の生活を律してこそ、平等、友愛、自由といった理想が実際に実現されるのです。
人々が感官をコントロールすることを学んだとき、世の中の対立や不和はなくなるでしょう。現代のバーラタ人は、インド文化の深遠な真理を無視しています。それは人々が私利私欲を追求し、利己心に振り回されて、本来持っている神性を忘れているからです。他者に対して親切で思いやりがあるという、人間としての自然な傾向をきちんと育むべきです。現代人はそれをしていません。
創造の神秘を理解しなさい
基本的には、人と自然の間に対立はありません。赤ちゃんには母乳を飲む資格があるように、蜂には花の蜜を吸う資格があるように、人には自然の果実を味わう資格があります。創造世界は人類よりも偉大です。創造世界の神秘を理解することは人間の特権です。さらに、人は創造世界と創造主の関係を知る努力もすべきです。
人体は、目や鼻や手や脚といった異なる器官で構成されています。人間は人間社会の手足であり、人間社会は人類の手足です。人類はプラクリティ(自然)の手足であり、プラクリティはパラマートマ(普遍なる大我)の手足です。こうした連鎖関係について考えるなら、人間は究極の至福の権化と結び付いているということがわかります。
しかし、なぜその至福は、とらえようとすると人の手から逃げていってしまうのでしょうか? それは、人が自分に内在する神性を認識していないからです。人は、自然というものはもっぱら人間が享受するために神が創造したものだと思っています。それは間違っています。自然は人間が、一定の限度内で、享受するためにあります。
現代の科学者たちは、無制限に自然を享受することを念頭において、自然の力を探っています。科学者たちは、自然のあらゆる力を人間のコントロール下に置いて、制限なしに享受したいと欲しています。今、私たちが目にしている非常に多くの自然災害は、それが原因です。
世界中で起きている干ばつや洪水の原因は何でしょう? 人は、抑制も規制もなしに自然の恩恵を享受しようとして、墓穴を掘っています。ここに地球儀があるとします。片側を叩けばバランスが乱れます。天然資源を用いるときには、きちんとバランスが保たれるよう、常に細心の注意を払うべきです。一方を過剰に用いるなら、他方に害をもたらすことになります。
天然資源の開発に際し、人々は権利という名の下に、限度を守らず、自分たちのやりたいようにやっています。私には、その「権利」という言葉がどこから来たのか、理解できません。実のところ、「権利」といったようなものは存在しません。実際、人々が持っているものは「責任」です。人が自分の責任をきちんと果たすなら、そこから何がしかの権利が生じることは可能です。もし責任を無視するなら、その結果はどうなるでしょう? 混乱と平安の欠如しかありません。雨が降ると水路に水が流れます。雨が降らないとき、どうして水を望むことができるでしょうか? ですから、まず雨が降るように祈ることです。そうして初めて、あなたは川の水の流れを享受することができます。同じように、まず自分の義務を果たすことです。そうすれば、自分の権利を確保することができるでしょう。
義務は最も神聖なもの
今、誰もが権利ばかりを口にします。これは全く意味のないことに見えます。人は皆どのように一日を過ごしているか、しばし考えてごらんなさい。朝起きてから寝る時まで、誰もが何らかの心配事を抱えています。時間は神聖なものです。行動はさらに神聖なものです。義務は最も神聖なものです。活動によって何かを成し遂げるだけでは不十分です。人生の最後の最後まで、着手したことすべてにおいて成功を収めなければなりません。チャンドラバブ・ナイドゥ首相〔アーンドラ・プラデーシュ州首相〕がスピーチの中で述べたように、人々はすべての行いを理想的な形で行わなければなりません。単に機械的に存在しているだけでは、人間性を表現することはできません。人として生まれるのは計り知れないほど貴重なことです。真の人間の証として、3つのことを守らなければなりません。それは、罪への恐れ、神への愛、社会における道徳です。罪深い行為は慎むべきです。サンスクリット語の格言に、「人は徳行の果報を欲しながら、罪深い行いにふけっている」というものがあります。思考と言葉と行いの清らかさを身につけたとき、人は善行の果報を得ることができるでしょう。
人としての生は、生まれてから死ぬまで、さまざまな悩みに満ちています。それらの悩みから解放される唯一の方法は、心を神に向け、いつも神のことを考えていることです。
さらに、人は自立心を養わなければなりません。自分でできることを人や政府に頼ってはいけません。自分のことはできるだけ自分でして、その労働の果報を享受しなさい。
神の助けを求める前に、自分の能力を使いなさい
現代人の多くは、自分に自信がなく、自分が望んだことを成し遂げる決意も持っていません。そして、必要な努力もせずに、すぐに結果を出したいと思っています。どうしてそうなのでしょうか? 神や政府に責任を負わせるのは適切なことではありません。神は間違いなく助けることができますが、神に助けを求める前に、あなたが神から授かっている力と才能を使うことを神は期待しています。神から与えられた能力を最大限に活用することをせずに神に頼るのは、誤った判断です。
自分たちが住んでいる環境を浄化するよう努めなさい。どこにも平和や調和がありません。帰依者は愛を育み、人間的価値を実践することによって、そうした空気を浄化し、聖化するように努めなさい。帰依者たちは、さる方面からの反対や不賛成に遭うかもしれません。そうした障害は克服すべきです。そのような批判をする人たちは、極めて価値のあるものを破壊する害虫のようなものです。
福祉活動に従事する人たちは、そのような批判を気にすることなく、良心の指示に従って善い行いを続けていくべきです。この点については、州首相も述べています。自分は人々のためになることをやっているのだと確信しているとき、どうして小心者の批判を気にする必要がありますか? 自信を持ちなさい。
今日、バーラタでは何百万人もの人々が飲み水の不足に悩まされています。この問題は、ある程度、人々自身の行動に原因があります。人々はどこまで正しい行動をとっているでしょうか?
人の振る舞いには、神の振る舞い、人間の振る舞い、獣の振る舞いという3つの種類があります。私たちは、獣性の増大と人間性の衰退を目にしています。この傾向の原因は、欲望が際限なく膨らみ、アーシャヤール(理想)が確実に消滅していることです。利己心が拡大し、無私が減少しています。策略が蔓延(まんえん)し、誠実さが消え、体への執着が増し、国への愛が薄らいでいます。その結果、国民の人格がどんどん卑しくなっています。
犠牲は幸福の真の秘訣
古代の人々が生きていた古き良き時代の物事の状態は、どれほど違っていたことでしょう。彼らは善良な帰依者たちとの交流を喜び、貧しい困窮した人が家に来るのを歓迎し、神を讃える賛歌を聞くことを好みました。彼らは、そういったことがあった日だけを神聖な日と見なしました。人生はこうした高潔な生き方によってのみ救済されるのです。
古代のバーラタ人は、犠牲の質を高く評価し、正しさを崇め、正義を最高の美徳とし、真理を大切な友として迎え入れました。今日の物事の状況は、これらすべてと食い違っています。
幸せの真の秘訣は犠牲です。誰もが自分の能力の範囲内で収入と財産を他の人々に分け与え、他の人々の幸せに貢献すべきです。貧困にあえぎ、さまざまな形で苦しんでいる人がたくさんいます。そのような不幸な人たちを助けに行くのは、裕福な人の義務です。
自分の言葉どおりに生きなさい
愛の化身たちよ! 今日、皆さんは多くのリーダーのスピーチを聴きました。彼らは心から語り、人々の福祉に対する懸念を表明しました。もしそれらの言葉が意味のある行動に移されれば、この国は必ずや良い方向に向かうでしょう。このような機会に、こうしたリーダーたちが前に出て、この種の保証をするというのは、歓迎すべき兆しです。それらは国民に熱意と自信を与えるに違いありません。州首相、カルナータカ州議会議長、連邦大臣は、いずれも信念と熱意を持って発言しました。このことは、人々のハートに刻み込まれるはずです。保証は行動に移されるべきです。
バーラタだけでなく、世界の他の地域も、無数の問題に悩まされています。その解決策は何でしょう? 人の心を根本から変える必要があります。人々は人間に生来備わっている神性を認識すべきです。この心の変容と神性の認識が同時に起こったとき、人類の神格化があるでしょう。
愛の化身たちよ! 5日から始まったこのヤグニャも今日で終わりです。今日はヴィジャヤダシャミーの日〔勝利の十日目という意味のダシャラー祭の最終日〕です。今日、飲料水プロジェクト〔恵みの水〕がアーンドラ・プラデーシュ州政府に移管され、州首相がこの事業を適切に維持する責任を引き受けたことは、おめでたい兆しです。国民のために実施しなければならない同様の福祉計画は、まだまだたくさんあります。私は、頭のてっぺんから足のつま先まで、全身全霊で人々への奉仕に尽くしています。私は、人々のためになる多くのことを行いたいと考えています。私は、それらについて話したくはありません。行動がそれを語らなければなりません。州議会議長は、自分の県でも飲料水の問題が深刻であることに言及しました。他の県と違って、コーラール県には川がありません。こうした問題を解決するために、誰もが自分の力を発揮することを決意すべきです。誰もが社会に恩があるのですから、誰もが社会に対する自分の責務を自覚すべきです。必要であればいつでも、自分たちの問題を解決するために集まって協力し合うべきです。
多くの若者が家で時間を無駄にしています。そのエネルギーを建設的な福祉活動に集結させるべきです。州首相は、シュラマダーン(労働力を贈る)という案に言及しました。村の誰もが、他人の助けを待たずに村の道路を建設するために、そうしたシュラマダーンに参加すべきです。できるだけ多くの村人たちの必要を満たすために、この種の自発的な協力活動を行うべきです。必要なときには他人の助けを求めてもかまいません。
全力を傾けて助けるというバガヴァンの保証
私は、どの村から来る人も、どの州から来る人も、どの共同体から来る人も、助ける用意ができています。私はどんな類の差別も心に抱きません。あなた方が信じようと信じまいと、私は、ただ一つのカースト――人類というカースト、ただ一つの宗教――愛という宗教、ただ一つの言語――ハートという言語を敬っています。私の助けを求める人には、私はその人がどのカーストであろうと、どの宗教であろうと、どんな信条であろうと、決して誰にも「ノー」(No)とは言いません。多くの帰依者がここに集まっています。私は、あなた方の要望に応えるためなら、プラシャーンティ・ニラヤムを手放す覚悟さえあります。私は人々のためになら何でもする覚悟があります。それが私の唯一の関心事です。私は、人々を主の恩寵を受けるに値するようにするためだけに働いています。この事実を認識している人はほとんどいません。何年も私の所に通っている人たちでさえ、この真実を認識していません。神のやり方について、真実を理解するのは難しいことです。
あなた方は皆、神への信心を持って自分の義務に精を出すべきです。そうすれば、すべてが上手くいくでしょう。万事、容易に達成することができるでしょう。これは、私たちの古代の人々が追求した道です。当時は、政党も派閥争いもありませんでした。すべての人が心を一つにして行動していました。それは「ヴェーダ」のメッセージです。「共に働き、共に楽しみ、互いを愛し、皆と喜びを分かち合おう」――これはリグ・ヴェーダの輝かしいメッセージです。人々はヴェーダの教えを基に生活していました。こうした訓戒が尊重されない今、どうやって人としての生が神聖であることができるでしょうか?
あなたのハートが善良なら、あなたに害は及ばない
自分の良心に従って正しいことをしていれば、他人の言うこと、考えることを恐れる必要はありません。勇気は善行と共にあるべきです。あなたのハートが善良なら、あなたに害は及びません。
私は、アナンタプル県〔アナンタプラム県〕以外にも、いくつかの県の必要に応えたいと考えています。その中で、私は一つのことを保証したいと思います。バーラタであれ他のどの国であれ、福祉計画を実行するための財源が不足することはありません。財源は豊富にあります。ただ、そうした計画を実行しようという強い気持ちがないだけです。強い気持ちがあれば、どんなことでも達成することができます。人々は、月へは行けるのに、自分のハートに旅をすることはできないのでしょうか?
私が飲料水プロジェクトを始めた時、トラストのメンバーたちは私にこう言いました。「スワミ! トラストには十分な資金がありません。私たちはどうやってこの巨大プロジェクトに乗り出せばいいのでしょうか?」。私は彼らに請け合いました。「それは私の仕事です。私がこの善良なプロジェクトの完遂を見届けます」。それは何の障害もなく達成されました。
バーラタには、まだ為されるべきことがたくさん残っています。カルナータカ州議会議長が述べたように、水は国中で第一に必要とされているものです。きれいな飲料水が全国民に行き届くようにしなければなりません。それが私の決意です。
私は、早い時期から国民に3つの必需品を提供することを気にかけてきました。無償の教育、無償の医療、そして、飲料水といった基本的な設備の提供です。教育は頭のため、医療はハートのため、きれいな水は体のためです。この3つは、生活に必要とされる主なものをカバーしています。この3つを提供することは最も大きな満足感を与えてくれます。
リーダーたちに課せられた課題
どこでもあなた方ができる所で、教育を無償で提供するよう努めなさい。貧しい人々のために無料で薬や治療を提供しなさい。飲み水を提供するために、あなた方の間で可能なかぎり協力し合いなさい。ラーヤラシーマ地方では、人々がフッ素症の弊害に苦しんでいます。どうか、少なくともこれからの世代がこれらの病気から救われるよう取り計らってください。私はあなた方全員を祝福し、あなた方のすべての有益な活動において私の恩寵があることを保証します。福祉プログラムを実行するためにすべての関係当局が協調して行動することを、私は望みます。
長い間ここに来ることを切望していた州首相が、今日という縁起の良い記念すべき機会にここにいるのは幸運なことです。私は彼が自分のプログラムをしっかりと遂行してくれると確信しています。私は彼が将来におけるこの計画〔飲料水の提供〕の維持に対する責任を引き受けてくれたことを嬉しく思います。彼は部外者ではありません。実際、名前や姿は違っても、霊的には皆一つです。彼が引き受けてくれたことで、私たちは重い責務から解放されました。今後、私は新たな重荷を背負うことになるかもしれません。その用意は十分にできています。物語はこれで終わりではありません。
私はコーラール県の人々が必要としていることを、近い将来実現することを保証します。72歳の誕生日までに、コーラール県の人々の飲料水の必要は満たされ、どの村の人々にも十分に行き届くようになるでしょう。アナンタプル県でさえ、まだ行き届いていない地域があります。私は、残りもすべて遂行させると断言します。もしカバーされていない地域があるなら、私に知らせてくれれば遂行させるつもりです。私はあなた方のものであり、あなた方は私のものです。私たちの関係は霊的な関係です。あなた方には私に近づく権利があり、私にはあなた方の希望に応える義務があります。この点に関して、いかなる疑いも抱いてはなりません。私はあなた方全員を祝福します。
1997年10月11日
ダシャラー祭ヴィジャヤダシャミー
プラシャーンティ ニラヤム
サイ クルワント ホールにて
Sathya Sai Speaks Vol.30 C29
一息ごとに断言しなさい
シャーストリ〔学者〕は、叙事詩や歴史からの例を挙げて、人間の状況への時間の力と影響について皆さんに説明しました。今日は良いことでも明日には悪いことになり、今日実行可能なことでも明日には実行不可能なことになる場合があります。時間は、習慣や風習を時代遅れなものや時代錯誤なものにします。今日悲しみを与えるものは、明日には喜びをもたらすかもしれません。子供にとって学校に行くのは嫌なことですが、後になれば、自分が年若い時分に無理やり授業を受けさせられたことに感謝します! ラーマが追放された時、シーターは、アヨーディヤーの都も、宮殿も、自分が持っていた幸せな夢の数々も、すべてを捨てて、森に付いて行きました。けれども、金色の鹿を見て、隠れていた欲望が呼び覚まされて、世俗的なものへの「執着」が生じ、その結果、一連の災難に見舞われることになりました。時間がシーターのハートの中にあった欲望の根を温存させていたのです。
ラーマーヤナは、もう一つの教訓も説いています。シーターを探すことは、体験の場における真我顕現の秘訣を象徴しています。ラーマは、シーターを取り戻した時、体験によって裏づけられた真我顕現の英知を取り戻しました。グニャーナ〔英知〕はアヌバーヴァ グニャーナ〔体験から生まれた英知〕となりました。ラーマーヤナは、人が真我顕現という尊い目標を切望しているときには、自然界のすべての力、すべての創造物がその人を助け、あらゆる援助をしてくれるということを教えています。猿、鳥、リス、さらには、石ころや岩までもが、その困難な務めにおける同志となりました。高みを目指し、最高の冒険をしようと決意しなさい。そうすれば、すべてが整い、あなたをゴールへと導いてくれるでしょう。
世界は3つのグナの複合体
実のところ、あなたはその冒険へと向かうよう、あなたの呼吸に促されているのです。呼吸は、1日に21,600回も「ソー ハム」(神=私)〔私は神であるという意味の音〕を繰り返して、宇宙に内在する原理と体に宿る者の同一性を強調しています。あなたは、口では「神はいない」と断言しているかもしれませんが、息が入ってくる時に「ソー」〔神である〕、出ていく時に「ハム」〔私は〕と繰り返して、不変の存在である「神」は常駐している「私」〔自分〕である、ということを明確にしているのです!
インドの聖賢たちが日常生活に課した規制や制限、衝動や態度を制御して方向付けるために推奨したあらゆる処方箋は、インド文化の貴重な要素であり、大切にし、実践すべきものです。この世は3つのグナ(属性)――サーットウィカ〔浄性〕・ラージャスィカ〔激性〕・ターマスィカ〔鈍性〕――の複合体です。
ウパニシャッドは、この3つのグナに絡め取られている人たちに、雷が「ダ、ダ、ダ」〔雷の音〕といって「ダヤー」・「ダマ」・「ダルマ」という3つの教訓を教えていると述べています。アーナンダ(至福)を渇望するサーットウィカ〔浄性〕の人には「ダマ」(自制心)を、冒険、英雄、活動を渇望するラージャスィカ〔激性〕の人には「ダルマ」(正しい行動、正義の理想)を、そして、感覚に執着して客観的な快楽を渇望するようなターマスィカ〔鈍性〕の資質に支配されている人には「ダヤー」(愛に基づく慈悲。これは執着と貪欲を昇華させることができる)を、教えているのです。
賢者たちは、「タット トワム アスィ」(汝はあれである)〔タットワマスィ、汝はそれなり〕という真理を発見しました。「あれ」は「神」であり、そこからすべてのものが生まれ、そこにすべてのものが在り、そこに一切が融合します。この真理は、バクティ マールガ〔信愛の道〕――真我への献身、信愛、全託の道――によって知ることができます。「汝」つまり「個人」は、カルマ マールガ――無私の行い、すべての行いの果報を放棄する道、尊崇の精神を持ってすべての行いを礼拝の行為として真摯に行う道――によって理解することができます。そして、「タット」(あれ)と「トワム」(汝)を同一視していく「アスィ」と呼ばれるプロセスは、グニャーナ マールガ〔英知の道〕――知恵の道、鋭く執拗(しつよう)な識別の道――によって完結しなければなりません。バクティとカルマ〔行為〕が結合すると、それはグニャーナへとつながっていきます。バクティはすべてのものを「タット」〔神〕と見ます。カルマ〔行為〕は「トワム」〔汝〕の分離性を消し去ります。そのため、「アスィ」(同一視)のプロセスは容易になるのです。
貧しい人に奉仕することでエゴをなくす
こうしたことはすべて単純なことで、さまざまな聖句によって説明されていて、それを著名な師が毎日何千という人々に説明していますが、真理は経験されておらず、自己同一視は味わわれていません。一切が舞台上の演技です。言葉はハートからのものではなく、他人が書いた台本の合図に従って発せられています。観客に受けるため、そして、拍手と劇場窓口の利益のために多くが行われているのです! バケツを逆さまに置いておいたら、せっかく大雨が降っても何が得られますか? 水を集めることができますか? 宗教に関する話を聞いても、あなたの心(マインド)がそれを受け入れないなら、あなたは何の利益も得られないのではありませんか?
ミストリー博士は、ボンベイ〔ムンバイ〕でのセヴァダル〔無私の奉仕を行うボランティア〕の活動である献血、病院の病室訪問、貧しい入院患者への奉仕のことを話してくれました。実に、奉仕はエゴを消し去って人に本当のアーナンダ〔至福〕を与えてくれる行いです。ミストリー博士はパールシー〔インドに住むゾロアスター教徒〕ですが、博士がいかにヒンドゥー教の聖典も熟知しているかに注目しなさい。そのおかげで、博士は今、皆さんに、シヴァ神、パールヴァティー神、ガナパティ神〔ガネーシャ神〕はゴールへと向かうカルマ、バクティ、グニャーナのマールガ〔道〕の象徴として解釈され得るということを説明することができたのです。
すべては一なる神の姿であるという信念を持って行われるセヴァ〔無私の奉仕〕は、最高のカルマ〔行為〕です。セヴァのインスピレーションは、頭ではなくハートから生まれることに着眼して見てみなさい。以前、ホワイトフィールドにある人文科学の大学の講師と学生たちに話をした時、私は年長者を敬う必要について語りました。今、学生は教師に対してうなずいたり頭を動かしたりする挨拶をしていますが、ただそれだけです。私は学生に、「うなずくこと」は距離、敵意、不和を意味すると伝えました。それは、学生と教師が対峙(たいじ)していることを明らかにし、互いに他人であることを示しています。私は学生たちに、そのような考えは捨て、先生を友人として、そして、セヴァに従事する導き手であると同時に学び手でもある者として受け入れるようにと望みました。私は両者の間に愛と尊敬の念が行き交うことを望みました。
クリシュナとバララーマの英雄的活躍
今、私は〔この講話を〕終わりにして、楽屋にいるヴェーダパータシャーラ(ヴェーダを勉強する学校)の子供たちのもとに行かなければなりません。彼らは霊的な甘露でいっぱいの劇を演じることでしょう。というのも、神を味わったことのある人たちは、神は「ラソー ヴァイ サハ」(神は甘露そのもの)であると表現しているからです。神の物語は言葉にならないほど甘いのです。全世界は神のおかげで甘美であり、全世界は神であるがゆえに喜びを与えます。あなた方はその喜びをどうやってつかんで保っていいかを知らず、そのせいで喜びと悲しみの間を行ったり来たりしています。喜びを完全に、常に得ていなさい。そうすれば、生まれることも、死ぬこともなくなります。あなたは不滅です。あなたは至福であり、力であり、英知なのです。
少年たちが演じようとしている劇の中で、私はカムサ、ゴーピー、アクルーラ、デーヴァキー、ヴァスデーヴァ、ナンダといった、私の昔のバクタ〔バクティを有する者〕たちの生涯における出来事を描いています。少年たちにとって幸運だったのは、私が何日も夕方に彼らと一緒にいて、歌い、セリフを繰り返したことです。
そのおかげで、少年たちはそれらの偉大な真理を学び、皆さんの前で感動的な出来事を演じ、演者も観客も喜びを得て、分け合うことができるのです。少年たちは役を完全に表現することはできないかもしれませんが、皆さんはその感動と、それが伝えようとしている霊的な教訓を吸収することができるでしょう。
物語は、カムサが宿敵である7歳の牛飼いの少年クリシュナとその兄バララーマを自分の都や宮殿に連れてきて、王家の象や闘士の力を借りてクリシュナを殺そうとたくらむところから始まります。その後の場面では、神童と離れ離れになってしまったゴークラ村の牧女たちの苦悩、里親を悩ませるジレンマ、そして、クリシュナ兄弟がカムサの待つマトゥラーの都へと旅立つ様子が描かれています。クリシュナは自分を招待した君主のもてなしではなく、貧しい信者のもてなしを受け入れ、クリシュナの来訪は民衆に大きな喜びを与えます。一方、牢獄(ろうごく)にいた両親は、長年離れ離れになっていたクリシュナとの再会を喜びます。看守たちは、象と闘士を亡きものとし、最終的に王であるカムサ本人に屈辱と崩壊をもたらしたクリシュナとその兄の英雄的な活躍、都に響きわたったその一連の勝利を、その都度、両親に伝えます! クリシュナとバララーマは牢獄に侵入して両親を解放し、そこで劇は終わります。
演者たちの幼い年齢にとらわれてはいけません。彼らから発せられる言葉は賢明で、治癒力があります。それらはヴェーダやシャーストラの教えです。あなた方のハートの中にそれらを大切に収めて、少なくともそのうちのいくつかを日々実践することを決意して、それぞれの地元へと発ちなさい。
サティヤ サイ ババ述
ダシャラー祭(ナヴァラートリ祭)
プラシャーンティ ニラヤムにて
1969年10月17日
Sathya Sai Speaks Vol.9 C25
あなたの役割を果たしなさい
神性は、顕現していない形で、すべての人の中に存在しています。海の波と同じように、すべての人間は神の火花です。すべての人間は、神であるサット・チット・アーナンダ(実在・意識・至福)の化身です。このことは、バガヴァッドギーターの中ではっきりと述べられています。
神が愛の化身であるように、人も愛の化身です。しかし、現代人は利己的で自己中心的であるために、愛を完全かつ適切に顕現させていません。
人類は、物質と科学の分野ではかなり進歩しましたが、道徳や霊性の分野では悲惨な状態に陥っています。あらゆる行いにおいて利己心が支配的になっています。すべての思考、すべての言葉の背後に利己心が突き出ています。この利己心が根絶されて、初めて神性は姿を現します。
セヴァ(無私の奉仕)を行う際には、すべての人の中には神が遍在していることを認識すべきです。人間はティヤーガ(犠牲)の精神とボーガ(感覚の求める快楽)への嫌悪を育んできませんでした。真の奉仕は犠牲の精神を必要とします。犠牲は不死を得るための唯一の手段であると明言されています。
人々は神を探しているように見えます。人々は目に見えるものすべてに神が浸透していることに気づいていないのです。すべての姿は神の姿です。しかし、人の目が外に向けられているために、内を見る神聖な見方を持つことができずにいます。
人は平安を切望しています。平安や至福の源は自分の中にあるにもかかわらず、人は蜃気楼(しんきろう)を追い求めるように外にそれを求めています。ひっきりなしの活動、終わりのない心配、際限のない欲望のために、人は心の平安を失い、不満と不幸の餌食となっています。まず自分の中に平安を育むことです。それから、その平安を家族に広げます。それが家庭から村へと広がっていくようにするのです。このように、平安は個人から始まり、社会全体へと広がっていくべきです。
サイ オーガニゼーションでは真実〔真理〕、正義〔ダルマ〕、愛、平安、非暴力の価値を伝えるために努力していますが、それは単なる伝達であって、実践(あるいは実証)ではありません。ただ述べ伝えても、何の役にも立ちません。真実は実践されなければなりません。真実と正義〔ダルマ〕は、バーラタ〔インド〕文化が支持している最高の価値です。もし人々が真実と正義〔ダルマ〕に基づいて生きていないなら、人々の人間性には何の価値もありません。
すべての美徳の中で、愛は何よりも優先されます。愛が育まれていれば、他のすべての徳目はそこから流れてきます。すべてのサーダナ〔霊性修行〕の形の中で、第一の位置を占めているのは愛です。愛は人間性の最高の印です。愛は神です。愛の中で生きなさい。一日を愛で始めなさい。一日を愛で満たしなさい。一日を愛で終えなさい。セヴァ(無私の奉仕)に従事して、アハンカーラ〔エゴ/自分が行為者であるという自我意識〕の痕跡をすべて排除しなさい。私たちの堕落は、神を忘れたことによるものです。神を覚えていれば、私たちの人生は平安と幸福で満たされるでしょう。
人間は3種類のイッチャ シャクティ(望む力)〔意志力〕を持っています。それは、
1)スウェーッチャ(自由に望むこと)
2)パレーッチャ(他の人の望みを実行すること)
3)アニーッチャ(望まないこと)
です。
3つの望む力の真の意味
スウェーッチャ(自由に望むこと)とは、他人の権利を顧みず、自分の力や持ちものを使って好きなように行動する自由という意味ではありません。真のスウェーッチャ(自分が望んでいるとおりに行動する自由)は、自分の心で決断し、それを行動に移し、その結果が良くても悪くても素直に心からそれを受け入れることにあります。これが真の意志の自由です。自分が好きなことをしたいと望む自由には、それがかなったときに生じる結果を、等しく、自由に受け入れることが伴うべきです。
パレーッチャ(他の人の望みを実行すること)とは、他の人に促されたり頼まれたりして行った行為の結果を嘆き、自分が被った責任を他人になすりつけることです。
アニーッチャ(望まないこと)とは、自分の意志なく起こった、あるいは他人に促されて行った行為の結果として起こった偶然の出来事を、神の摂理として受け入れることです。
尊いものである人間の姿を手に入れた以上、人は人の姿に真に求められることに応じて生きようと努めなければなりません。人は無知や貧困や罪に苦しむために生まれてきたのではないということを理解すべきです。人はもっと高尚な運命のために生まれてきたのです。人は自分に授けられた役割を果たすべきなのです。
王とサンニャースィと踊り子
ある時、一人のサンニャースィ(出家行者)がマハーラージャ〔王〕のもとを訪れて、ヴェーダーンタの聖なる真理を説きました。王は彼の説明に満足し、皿いっぱいの金貨を差し出しました。行者はそれを受け取るのを辞退して、「物質的な贈り物を受け取ることは、私が身にまとっている衣にそぐいません」と言いました。「世俗のものをすべて捨てた私に、このようなものが必要でしょうか?」と行者は言いました。王はこのサンニャースィの態度を気に入りました。
次の日、同じ人物が女の踊り子に扮して宮廷に現れました。踊り子は王の前で見事な踊りを披露しました。王は喜んで、踊り子に金貨の入った皿を差し出しました。しかし、踊り子は、「そんなはした金は受け取れません」と言い放ち、もっと多くを要求しました。その時、王は踊り子の衣装を着たその人物が前日のサンニャースィと同一人物であることに気がつきました。王は踊り子に言いました。「昨日、そなたは私の手による贈り物を拒否したが、今日は私が提示した以上を求めている。この態度の違いの真意は何か?」
踊り子は、こう指摘しました。「誰もが自分の役割に応じた行動をとらなければなりません。サンニャースィのローブを着ている行者にとっては、いかなる物質的な贈り物も拒否するのが適切なことです。しかし、踊り子の役割においては、自分にふさわしいと思う分を要求する権利があります。私は、今日は踊り子の役を演じていました」
その返事を聞いた王は、善い教訓を得たと感じました。「私は王だ。私は王としての行動をとるべきであり、王のローブをまとっている者にふさわしくない振る舞いをしてはならないのだ」。王は踊り子が教えてくれた教訓に感謝しました。
現代では、黄土色のローブを着ていても、心の中は汚いものでいっぱいの人たちがいます。彼らは家長でさえ持ってないような欲を持っています。そのような二重生活によって、バーラタ文化は損なわれています。パンディト〔学僧〕たちを見てみると、彼らの多くは経典に精通しており、経典をそらで唱えることができます。彼らはルッドラークシャ マーラー(ジャパに使う聖なる珠数)を誇っているかもしれません。貴重なショールを身につけているかもしれません。しかし、彼らの行動は彼らの衣や装飾品にふさわしいものではありません。
「パンディターハ サマダルシナハ」――真の学者はすべてのものを平等な目で見る――とギーターは明言しています。平等な目を持っていない人を、どうしてパンディト〔学僧〕と言えるでしょうか? もし、サンニャースィと名乗る人が俗世のものをすべて放棄しながら欲望を抱き続けていたら、その人はどうしてサンニャースィと見なされるでしょうか? 今日、経典の知識をひけらかしている多くの人は、ボーガラージュ〔贅沢の王者〕(贅沢を楽しんでいる人)やローガラージュ〔病気の王者〕(病気を自慢している人)であり、ティヤーガラージュ〔放棄の王者〕(放棄の大家)にはなっていません。
サイのセーヴァカの役割
皆さんは、サティヤ サイ セヴァ ダルの一員です。一員として、皆さんは自分の役割に沿った奉仕をするよう努めなければなりません。皆さんはセーヴァカ〔無私の奉仕者〕です。あなたが奉仕する相手が誰であれ、自分は神に奉仕しているのだという気持ちを持ちなさい。猿のハヌマーンがどのような精神でシュリ ラーマに仕えたかを思い出しなさい。ハヌマーンは猿なのだから知性やその他の資質に欠けていると思ってはいけません。ハヌマーンは「穏やかで、徳が高く、強い」と描写されています。それほどの者が、ランカーのアショーカヴァナの木〔無憂樹〕の上で、ラークシャサ〔羅刹〕たちに「お前は何者だ、どこから来た?」と問われた時、「ダーソーハム カウサレーンドラッスヤ」(私はコーサラ国の主であるシュリ ラーマの召し使いである)と答えました。ハヌマーンは、自分の武勇や知識を自慢げに話しませんでした。ハヌマーンは、自分を謙虚で献身的なラーマの召し使いと称することに満足していたのです。
「キンカラ(主の命令を実行する覚悟ができている者)でなければシャンカラ(神)にはなれない」という格言を心に留めておきなさい。
皆さんは、奉仕を通して自分の人生を変えなければなりません。皆さんの奉仕活動には、ほんのわずかでも、傲慢さや私利私欲が入り込む余地があってはなりません。自分が誰かに行う奉仕は神への奉仕である、という気持ちを心に植え付けなさい。そうして初めて、人〔マーナヴァ〕への奉仕は神(マーダヴァ)への奉仕となるのです。
自分の行いのすべてを神に捧げる
社会で生まれ、社会で育ち、社会から教育を受け、社会から数え切れないほどの恩恵を受けている皆さんですが、皆さんは社会のために何をしていますか? 社会奉仕とは、社会が私たちにしてくれたことへの感謝の表現である、と考えるべきです。社会がなければ、私たちは生きていけません。神から与えられた体は、ダルマを実践するために使うべきです。プラフラーダが言ったように、もし手、足、口、耳といったさまざまな器官が主への礼拝に従事しないなら、人間として生まれることが何の役に立つでしょうか? そのような人は、その人を産んだ母胎にとって、重荷です。グニャーナ マールガ〔英知の道〕の唱道者であるシャンカラーチャーリヤ〔シャンカラ〕は、最後に「バジャ ゴーヴィンダム」の中でバクティの道を賞賛しています。
女性はおしゃべりが過ぎる傾向にあります。毎日の家事も、集中して行う仕事と見なすべきです。もし家事のためにサットサンガ〔善良な集まり/サットサング〕に出られなくても、そのことで惨めな気持ちになってはいけません。家庭での義務を果たすことは、サットサンガに参加するのと同じくらい神聖なことです。家庭での義務をきちんと果たしてこそ、外で適切な奉仕を提供することができるのです。床を掃除するにしても、チャパティを作るにしても、家でするどんな仕事も、それを霊性修行の一つの形に変えなさい。すべての行いに神への愛を吹き込んで、それを神に捧げなさい。
1989年3月23日
アクティブ ワーカーと他の帰依者に向けた御講話
マドラス〔チェンナイ〕のアボッツベリーにて
Sathya Sai Speaks Vol.22 C6
無駄な試み
善良な人との友情を育み、悩める人への思いやりを培い、幸福で繁栄している人を喜ぶ気持ちを養い、悪い心を持つ者への対する無関心を深める――これは古来よく行われてきた、穏やかで平和な人生を送るための処方箋です。神はそのような人を祝福し、恩寵を与えます。心からの喜びをもって唱えた神の御名は、人の心(マインド)に大きな影響を及ぼします。それは月光のように、人の内なる海の波に映ります。というのも、それは内からの神の響きであり、外からの神の呼び声だからです! しかし、ごらんなさい。科学によってもたらされるもの――物質世界を扱うもの、確認可能な部類の思考という方法によって測定や計量や計算ができる物事や出来事を扱うもの――は、喜びを求める人間を荒涼とした世界に追いやってきました!
先ほど、チャンドラモーウリ シャーストリは、マントラについて、「信心を持って意味を十分に理解した上で繰り返し唱えると、神の神秘体験を与えることができる」と、あなた方に話していました。つまり、マントラは、あなた自身の心の電流で充電されたとき、文言の効力によって引き寄せられる神の近くにあなたを置くことを可能にするのです。
マントラとは何でしょう? 「マン」(マナナ、すなわち、潜んでいる意味を考え続けること)、「トラ」(トラーナ、すなわち、救う行為、悲しみを越えられるようにする行為)。心(マインド)がマントラに必要な力を充電することができるための条件は何でしょう? 何よりもまず、「一点集中」です。
さて、心はとても粗末な道具です。というのも、心は鈍いからです。心はあまりにも多くの物や目的を追いかけます。神に注意を向けるようにとあなたが心に説得したその瞬間にも、心は映画館やバザール、クラブのカードルームなどへとふらふらと出かけていきます。神の大いなる荘厳さに思いを馳せることに心が同意することは、めったにありません。あなたが心を神に向けさせると、心はあたかも、大洪水に直面しろ、あるいは、地獄の恐怖を迎え撃て、とあなたが心をけしかけているかのように振る舞います!
神への思いに浸るには神性への信仰心が不可欠
神への思いに浸るためのどんな修行にも不可欠な、神性への信仰心がないのです。その信仰心は、信心深い人と付き合うこと、信心深い人の生涯や体験を読むこと、そして、自分自身が体験を重ねることによって、ゆっくりと芽生えることができるのみです。ナーマ サンキールタン(共に神の御名を歌うこと)は、たちどころに信仰心を生じさせます。最初は、好むと好まざるとにかかわらず、日課として御名を唱えなければなりません。やがてその味は、それが癖になるほど、あなたを引き込むでしょう。神の御名を繰り返し唱えることは、尽きることのない喜びをもたらしてくれるのです。私たちは、ハートの蓮の花について語ります! なぜでしょう? 蓮は水中で育ち、水中で栄養を得て、太陽の下で花を咲かせます。ハートも同様に、バクティ(信愛)から栄養を得て、グニャーナ(英知)によって花を咲かせます。
神の御名のほとんどは、2つの文字あるいは音節で構成されています。2という数字では、(ラーマ、クリシュナ、ハラ、ハリ、ダッタ、シャクティ、カーリーといった二文字の御名の)1つ目の音節はアグニ(火の原理)を表しており、積み重ねた悪徳、すなわち罪を焼き尽くすということを意味しています。2つ目の音節はアムリタ〔不死〕の原理を表しており、これは回復させ、リフレッシュさせる、改善する力です。この2つのプロセスが必要なのです。すなわち、障害物の除去、そして、建造物の建設です。
主クリシュナはヤショーダーに育てられましたが、彼女はクリシュナがどこで生まれたのか知りませんでした! クリシュナは実の息子のように愛され、扱われました。つまりそれは、ヤショーダーの愛は清らかで、利己的な思惑によって汚されていなかったということです。このたとえは、こう理解されます。
へその領域で生まれた神の生気は、その後(ゴークラ村でナンダとヤショーダーが)御名を絶えず繰り返し唱えたことにより、舌の上で保持され、育まれたのだ、と。
ラーマの原理は愛の原理であり、それは神々の贈り物として、偉大な犠牲の果報として、天界から降りてきたものです。「ラーマ」は「歓喜」を意味します! 生来備わっている真我(アートマ)ほど歓喜しているものはありません。それゆえラーマは「アートマ ラーマ」とも呼ばれているのです。
では、どうしてバラタは、ラーマを正統な後継者とする王位の座を奪うことに応じたのでしょうか? ラーマが追放され、ダシャラタ王がラーマとの別離を悲しむあまりに死んだとき、バラタとシャトルグナはケーカヤ国の都にいました。〔帰国せよとの〕知らせが届き、アヨーディヤーの都に暗い影を落としていたその二重の悲劇を知らずに宮殿に入ったとき、バラタは何らかの災いを感じ取りました。王家の師であったヴァシシュタ仙は、バラタに王位に就くようにと勧めました。というのも、君主が不在であれば王国が苦難を被ることになるからです!
バラタが示した主ラーマへの愛の模範
バラタは、「私が祈る神であり、絶え間ない愛に満ちた崇敬を受け取る主である者」のもとに行くことを許可してほしいと懇願しました。ヴァシシュタ仙は、君主としてバラタが王位に就くことはバラタの父の命令であり、師の助言でもあると、バラタに述べました。バラタは、その要求は両親、国民、師、そして、アヨーディヤーのすべての人がバラタに対して持っていた、きわめて激しい憎悪の証拠である。なぜなら、もし彼らがバラタを愛していたら、決してバラタにそのような恥ずべき罪を犯すよう迫らなかっただろうと、返答しました。
バラタは合掌してヴァシシュタ仙の前に立ち、懇願しました。
「王国を統治する重責を私に背負わせることは、正当で公正なことでしょうか? それは私の父を殺し、母を寡婦にし、私が自分の息よりも大切にしている最愛の兄を、兄が心から愛している妃と共に悪魔の棲む森へ追放させ、最終的に、私の母にぬぐうことのできない恥辱を与えることになります。私の王国は、ラーマが統治している王国、すなわち、私のハートです。そこは、ラーマの栄光を収めるには小さすぎる国ですが」
バラタの名前それ自体が、バラタはラーマへの愛に浸りきっているということを示しています。(「バ」は、バガヴァーン〔宇宙のすべて〕、すなわち主ラーマを意味し、「ラタ」は、~を喜ぶ、~を幸せに思う、~に執心している、を意味する)
教育が人間のハートを硬化させている
バラタがしたように、あなたの中で主への愛が育つようにしなさい。王座さえも捨てるほどの崇敬の念が、あなたの中に花開くようにさせなさい。そうすれば、あなたは、あなたの国、あなたの文化、あなたの社会、あなたの宗教、あなたの共同体にとって、大いに役立つことができます。それができないなら、あなたが体験してきたサットサンガ〔神聖な集い〕への参加、霊的な講話を聴くこと、霊性の大家たちと会うこと、霊的な書物を学習すること、といった骨折りは、すべて途方もなく無駄な試みになってしまうでしょう。
読み書き、技能、適合、物質的進歩に重点を置いた教育システムが、人のハートを硬化させ、軍用品の蓄えのもう一つの武器にしています! 人の知性は、絶え間ない嘘の繰り返しによって鈍くなり、人の聖なる感情を養う畏敬の念や尊敬の念が、時代遅れのものとして非難されています! 聖人、聖地、聖河は嘲笑されています。長い間、神々の遊び場、聖者の生育の場、人類のグル〔導師〕であったインドが、今ではヴェーダーンタの光を求めて声を上げる人々〔ヴェーダの価値を認識している外国人〕のドアの前に立つ物乞いになっています!
その光の輝きを知り、あなたの二つの翼――バクティ(信愛)とシラッダー(揺るぎのなさ/シュラッダー)――があなたを持ち上げることができる高さまで、その光に向かって飛んでいきなさい。
シャーストリは、スワミの奇跡を描写するのは不可能なことだと言いました。その神秘を理解していない人が、どうやって説明することができるでしょう? 海岸にいる人が、どうやって海の波を数えられるでしょう? 海岸にいる人が全部の数を数えることはできません。その人にとっては、自分が数え始めた波が最初の波で、数えるのをやめた波が最後の波です。聞いて、反芻(はんすう)して、アドバイスに従う――これがあなたにとって十分なサーダナです。
私の教えにおいて第一に重要なのは、あなたの両親、特に母親を敬いなさいというものです。あるとき、大変なハリケーンに見舞われた地域がありました。あまりの激しさにより、家という家がすべてなぎ倒され、住民は食べるものも寝る場所もなくなりました。最もひどい被害を受けた人たちの中に、ある母親と二人の息子がいました。長男は徳の高い素晴らしい息子で、家族を安全に守り養うことに責任を感じていました。というのも、彼は母親を愛していたので、何にも増して母の愛と祝福を得ようと努めていたからです。
真の帰依者は、まず母親を敬うべし
あなた方は、バーラタ マータ〔母なるインド〕、つまり母国について話しますが、どの母親も同じように呼吸をし、同じ血筋にあるのです。その母親は、下の子を連れて物乞いに出かけ、飢饉(ききん)に襲われたその地域で施されるわずかな食物で生き延びていました。しかし、間もなく母親は、自分がほんの数歩を歩くことさえできないほどに衰弱していることに気づきました。そのため、家族が食べていくには、長男が一人で物乞いに出なければならなくなりました。長男は母の足元にひれ伏して、「お母さんがしてきたことは僕がやります。みんなの食べ物を集めてきます」と言いました。長男は、母親が無理をして健康を悪化させるのは嫌でした。けれども、ほんのわずかな食べ物だけで、どうやって三人が生きていけるでしょう? 長男も衰弱していました。
か弱い声と、おぼつかない足取りで、長男は大地主の家に行き、わずかな食糧を乞い求めました。その家の女性が、中に入るようにと言い、少年を葉っぱのお皿の前に連れていき、食べ物を盛りました。しかし、少年は食事をとるために身をかがめることなく、ふらついてバタリと床に倒れてしまいました。大地主が部屋に駆け込んできて、死に際にいる少年がふりしぼる最期の言葉を聞き逃すまいと、少年の口元に耳を寄せました。少年はこう言っていました。
「いえ、いえ、先にお母さんに食べ物をあげないと。僕の番はそれからです」
あなたが負っている借金は返すことができるかもしれませんが、あなたが母親に負っている恩は決して返すことができないほど大きなものなのです。自分は神の帰依者だと言う人は、このように、それにふさわしい行いをしなければなりません。神の帰依者は自分の母親を尊ばなければなりません!
サティヤ サイ ババ述
ダシャラー祭(ナヴァラートリ祭)
プラシャーンティ ニラヤムにて
1969年10月16日
Sathya Sai Speaks Vol.9 C24