SRI SATHYA SAI RAM NEWS
SRI SATHYA SAI RAM NEWS
No.228_229 / 4月&5月合併号 / 2024
愛の化身たち、少年少女たちよ!
人間は、この広大な創造世界の最も貴重な宝石です。生きとし生けるものの中で、人間は最も高貴な、最も高位の存在です。人間として生まれるのは、あらゆる生の中で最も偉大なことです。ですから、人生を正しく生きることは必須です。
人間の生は、どこからその神聖さを得るのでしょうか? どこからその価値を得るのでしょうか? 人間の生に価値を与えるのは、体すなわち人間の姿形でしょうか? いいえ! 体は五元素(腐敗しやすいもの)で出来ています。この観点から、体は肉と骨で出来ていて、まだ排泄されていない汚い糞尿がその中に詰まっているものである、と見なすことができます。その一方で、体はアートマの住まいでもあり、そのことが体をたいそう価値の高いものにしています。
アートマはどんな姿形をしているのでしょう?
イーシュワラはどんな姿形をしているのでしょう? アートマは純粋意識、すなわち絶対意識であり、意識にはどんな姿形もありません。個人において、絶対意識は良心として機能し、その住まいはハートです。認識力を有するマインドはアートマから生じます。外界と内界の両方を認識することができるのがマインドです。さらに、マインドは言葉や発言の源でもあります。折に触れてスワミは、あなたは一人ではなく三人であるということを思い出させています。
あなたが自分だと思っているあなたは、
あなたではありません
他の人があなただと思っているあなたは、
あなたではありません
本当の自分が、あなたです!
ヴィシュヌはマナスワルーパ、つまりマインド〔マナス〕となって顕現する者です。ヴィシュヌは、よく想像されているような、シャンカ(法螺貝)やチャクラ(円盤)やガダ(棍棒)を持っている者ではありません。そうした一般的な肖像は、有名なラヴィ・ヴァルマを中心とした画家たちによって作り出されたものです。ヴィシュヌは清らかなマインドの中に現れます。だからこそ、スワミはダイヤモンドの指輪を与えるとき、しばしば、「ダイヤモンドはDIE MIND(マインドの死滅)を意味します!」と言うのです。これは、世俗的な思考を消滅させなければならないという意味です。どのようにして? 気まぐれで、常に揺れ動いている人間のマインドを、清らかで、常に安定していて、愛に満ちた神のマインドと置き換えることによってです。
人のマインドがヴィシュヌの具現であるように、言葉すなわち発言はブラフマーの具現です。ですから、不適切な話に陥らないよう、細心の注意を払わなければなりません。注意深くなるための最良の方法は、モーナムすなわち沈黙を、実践することです。これはまさに、古代のリシたちが行っていたことです。話をすると、さらに話をすることになり、最終的には嘘を話すことになる危険性があります。話しすぎることが好ましくない行動を引き起こす場合もあります。そのため、リシたちは、ほとんどの時間、沈黙していることを好んだのです。沈黙とは、単に話をしない、会話をしないということではありません。聖賢たちにとって、沈黙とは思考プロセスを止めることも意味します。思考はマインドの波紋です。一連の思考は波となり、たくさんの波が嵐となります。ですから、思考を排した、静寂の段階にいるのが一番です。これが古代の感覚でした。現代では、過剰な思考がマインドの特徴になっています。
霊的な展望を身につけて、他の人々を感化するには、チッタ シュッディ(ハートの清らかさ)を持っていなければなりません。霊的な英知は、ハートの清らかさがあって初めて姿を現すことができます。雑草を取り除き、土地を耕し、種を蒔き、水をやることが、その土地で作物を収穫する前に必要であるのと同じように、人のハートの土地も、悪い考えや悪い感情を取り除き、愛を含んだ水をやり、霊性修行で耕し、神の御名という種を蒔かなければなりません。そうして初めて、人はグニャーナ(神聖な英知)という収穫を得ることができるのです。
今日では、霊性修行は話を聞くことだけになり、教えを実践することはなくなっています。聞くことは一種の病気になっています。人々は、話を聞いただけで、自分は何でも知っていると自慢します。このおかしな自慢話は人の無知を深めています。
人は聞いたことを反芻(はんすう)すべきです。反芻した後に、ニッディディヤーサ(教えを実践すること)をすべきです。そうして初めて、思考と言葉と行いの三重の清らかさが得られるのです。今日、人々はただ講話を聞くだけで満足しています。これでは悟りには至りません。
Shiva Shiva Shiva Shiva Yanarada Mee Chinthalella Bapikona Manarada
悲しみや喜びを他の人と分かち合うための特別な感受性を授かっている生きもの
である人間が、なぜ時間と空間が変化するこの世界に
生まれてこなければならないのでしょうか?
生まれてきたものは死をまぬがれず、
建てられたものが崩壊を耐えることはできません。
では、なぜ人は、はかないこの経験の舞台に送り出されるのでしょうか?
神の行動の背後にはすべて目的があります。人は、自分の中の神性を顕現させて、 その冒険の中で、すべての生きものを率い、導かなければならないのです。
人は、自分で努力して自分を解放し、
その模範によってすべての生きものを
解放しなければならないのです。
人は、自分自身の源の中で、自由になり、安全にならなければなりません。
これがモークシャ(解脱)と呼ばれているものです。
人は、小から大へ、束縛から無限の至福へと解き放たれるのです。
Love Is My Form, Truth Is My Breath, Bliss Is My Food
あなたの内に生じる愛を神に向けなさい。
あなたの体を神に捧げなさい。これは真の信愛の印です。
人間には3つの構成要素があります。
それは、心(マインド)、語る言葉の力、体です。
この3つは、トリカラナ、
すなわち、人の3つの行動媒体〔3つの道具〕
と呼ばれています。
この3つが神聖な目的のために使われるとき、
人は神聖化されます。
キリストは、世間の人々に三つの重要なことを明言しました。それは、1)神は一つである、2)神は全能である、3)誰も傷つけてはならない、というものでした。神はすべてに宿る者です。キリストは自らの使命に着手して、人々に、神への愛を育むことによって神の愛を獲得するように、と呼びかけました。
それぞれ異なる信仰を公言する人々は、神をヴィシュヌ、シヴァ、ガネーシャ、アッラー、キリスト、その他、異なる名前で崇拝しています。神は一つであるというのが真実です。現代人は宗教の中に神を見出そうとしています。しかし、神は宗教(マタム)の中にではなく、心(マティ、マインド)の中で見つかるものです。心を制し、浄化したときにのみ、神は認識されるのです。
主は常に人間の側にいるというのに、人は神を世界中で探しています。外側を探しても、内側を浄化することはできません。不可欠なのは、意識を変えることです。あなたは自分の行いを正さなければいけません。というのも、すべては自分の行いしだいだからです。清らかなハートで正しい道を貫いて、あなたの人生を神聖なものにしなさい。すべての霊的な規律はすべて、この目的のためにこそ考案されたものなのです。捧げる祈り、ジャパ、プージャーはすべて、ハートを浄化することを目的としています。
あなた方は皆、サイの王国にいます!
あなた方は皆、サイの家にいます!
あなた方は皆、サイの光の中にいます!
あなた方は皆、サイのハートの中にいます!
私はあなた方を祝福します。
この聖なる夜に、私はあなた方を祝福します。
これはあなた方の権利です。
もし正しい考えを抱くなら、
あなた方は皆、神の家にいることに気づくでしょう。
全宇宙は主の家です。ひとたびこの真理を認識したら、
区別意識が生まれることがあるでしょうか?
人は、神は怒っているとか、無関心だなどと想像します。そのような想像をする人は。神性を理解していません。胃に腫瘍があったら、外科医はメスを使ってそれを取り除きます。その手術は患者に対する悪意から行われるのですか? そんなことはありません。手術は、その人を回復させるために、その人のために行われるのです。それと同じように、誰かが何か悪い性質を募らせたら、その悪徳を取り除くために手術が行われるのです。それが神によって行われると、神は、神が怒った、神の機嫌が悪くなったと言われてしまいます。そんなことを言うのは小心者の印です。神の愛の原理を理解している人は、そのような間違いを犯すことはありません。
誰もが「私は平安が欲しい」と言って平安を切望します。しかし、平安は(peace)断片(piece)で満ちている外の世界で見つけることができるでしょうか? 平安は、「私は」と「~が欲しい」を取り除くことによって、自分の中で見つけるものです。平安は、エゴと飽くなき欲望によって破壊されています。欲望を抑えなさい。人間は、さまざまな種類の尽きることのない心配事に悩まされています。悩みは、心を神に向けることによってのみ、取り除くことができます。人々は、欲望を抑え、無執着(ヴァイラーギャ)を養わなければいけません。そうすれば、真の心の平穏を得ることができます。